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八月が始まって、最初の火曜日。自由研究で作った鉱石ラジオを店の裏口でいじっていたら、首筋をぽつぽつと蚊に喰われた。汗に寄ってきたんだろう。最近は、朝の時間から十分に暑い。水筒に入れてきたぬるい麦茶を口に含んで、僕は検波の作業を続けた。
セラミックイヤホンから目当ての局が聴こえて来たので、急ぎ足で二階に上がる。機械工作はしたことがないと言っていたから、自作のラジオなんて見せてあげたら、りょうご君は驚くだろう。彼の反応に期待を寄せて、そっとふすまを開ける。
「……あれ、りょうご君?」
窓際に、彼のゲーム機と見覚えのない手鏡が置いてあった。しかし、肝心のりょうご君が見当たらない。僕と入れ違いで、店のお手洗いに行ったのかも知れない。
下に降りて、父さんに聞いてみようと思ったその時、視界の片隅で手鏡が小さく震えた。
ラジオを置いて、恐る恐る鏡に近付く。木製のフレームの、持ち手が付いた丸い手鏡。そこから、今度は声が聴こえる。商店街の喧騒でも、ゲーム機の電子音でもない。くぐもった遠い音だけど、僕の耳には、りょうご君の声のように聴こえる。
「りょうご……君?」
手鏡に向かって呼びかけると、指が現れた。別のどこかからではない。鏡の表面から指は現れた。驚く間もなく、二本目三本目の指が這い出して来る。やがて腕が出て、肘が出たところで、それは止まった。細い腕。間違いない。りょうご君の腕だ。
腕は苦しそうにもがいていた。頭で考えるより先に体が動く。手をとって、思い切り引っ張った。手の平くらいしかない鏡から拍子抜けするくらいにあっさりと、りょうご君の体が飛び出してくる。その勢いのままに投げ出されて、二人で床を転がった。舞い上がった埃が、窓から差す光の中で火の粉のように煌めいている。
「師匠、俺……空を飛んでたよ」
ぜえぜえと息を切らしながら、りょうご君はそう言った。火照った顔に汗を滲ませて、虚ろな目をしている。その視線の先には、さっきの鏡が落ちている。
「俺ね、向こうの世界に行ってたんだ」
りょうご君の声は震えていた。目からは涙も流れている。けれど、彼の表情はむしろ、世界に対して何かを諦めた大人のそれに近かった。この横顔にどんな言葉を掛けるべきなのか、僕は知らない。
長い沈黙が流れた。鉱石ラジオで聴けたはずの、甲子園開幕の中継は、もうとっくに終わってしまったことだろう。
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