ひと夏の虚像

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***          二度と彼の笑顔は戻らないかも知れない。朝の一件で、そんな不安すら覚えたというのに、商店街のはずれにある中華料理チェーン店での夕食を終える頃には、りょうご君はすっかり元の笑顔を取り戻していた。「おじさん、やっぱり餃子は美味しいね」と彼が言うので、父さんは「ほな、もっと食いや」と六人前も追加した。食欲旺盛な彼を見て、とりあえず、ほっと胸を撫で下ろす。  例の手鏡について話を切り出されたのは、次の日の朝のことだった。ふすまを開けると、りょうご君が正座して僕を待っていたので、なんとなく察する。緊張を隠して、何食わぬ顔で話を聞いた。 「師匠、昨日はごめん。この鏡はね……パパとママが外国に行ってすぐ、伯母さんと家の片付けをしてたら見つけたんだ」  伯母さんとは、りょうご君の父親の姉のことで、最も身近な親戚らしい。その人も、りょうご君をたらい回しにしたうちの一人だろうか。そう勘ぐって、少し不愉快な気持ちになっていたら、そんな僕に気付いたりょうご君が、慌てた様子で補足する。 「あ、伯母さんはね、とってもいい人だよ。俺は大好き。俺のこと、預かってくれようとしてたけど、生活が大変らしくて無理だった。伯母さん、ごめんねって泣いてくれたんだ。だから俺、一人でも大丈夫だよって言ったら、もっと泣いちゃった」  大袈裟な人だなと思ったけれど、あえて口には出さなかった。りょうご君は随分とその人に懐いているらしい。 「ごめん、鏡の話だよね。師匠、これを読んでみて」  そう言って、りょうご君は右のポケットから、折りたたまれた紙を取り出した。古い紙で、全体的に黄ばんでいて、ところどころに虫食いもある。紙を開くと、そこには手書きで「朱雀の鏡」と書かれていた。なんだか中華風だ。昨日の夕食を思い出す。 「ふーん、なるほどな」  鏡と一緒に見つけたというその古い紙は、鏡の所有者に向けた説明書のようなものだった。言いまわしが古風で読みにくい。しかし、何度か読み直しているうちに大体の意味は理解できた。 「つまり、この『朱雀の鏡』に触ったら、別の世界へ行けるってことやな。で、その世界は鏡写しの世界やから、現実とは何かが違う、何かが反転してる、ってわけか。エスエフ小説みたいやな」  エスエフ小説という単語に、りょうご君は首を傾げた。あまり本は読まないと言っていたのを思い出す。だったらなおさら、この子が一人で、この古めかしい説明書を読み解けたとは思えない。少なくとも、最も大切な注釈を彼は読み飛ばしてしまっている。 「ここにさ、元の世界の協力者がいないと、鏡の世界から帰って来られへんて書いてあるわ。絶対条件らしいで」  少し、険のある言い方になってしまったかも知れない。りょうご君が一瞬怯む。けれど、帰り方も考えないままに飛び込むだなんて、あまりにも無謀過ぎる。そうまでして、行きたい世界でもあったのだろうか。  話を聞いている限り、何かが反転した世界へ行ける鏡だという箇所だけは、りょうご君も理解しているようなのだ。 「……じゃあ、師匠は命の恩人だね。俺、もう危ないことはしないよ。俺の思ってた世界とは、ぜんぜん違ってたし」  誤魔化すように、彼は笑う。その場しのぎの笑みなのに、それでも眩しい。こんなに明るい子がその心の奥で、どんな世界を望んでいるというのか。純粋に知りたかった。しかし僕には、彼の笑顔を曇らせるような質問はできなくて、その代わりに口を衝いて飛び出したのは、自分でも耳を疑うような提案だった。
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