ひと夏の虚像

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***  五年前のあの日、僕は母さんとではなく、父さんと暮らす道を選んだ。好きとか、嫌いとかで判断したわけではない。何らかの条件が、僕に父さんを選ばせたということでもない。そもそも、どうしてどちらかを選ばないといけなくなったのか、その理由を僕は知らなかった。知らないままで、なんとなく選んで、そして僕は母さんを失った。  あの時、もし逆を選んでいたら。そう考えてしまう夜は何度もあったけれど、考えても無駄だと、ずっと自分に言い聞かせてきた。  けれど今、僕の手には世界を反転させる鏡がある。 「じゃあ、行ってくるわ。帰りは頼むで」 「うん、師匠……気を付けて」  りょうご君は不安そうに見守っている。自分の時は失敗して怖い目に遭ったのだから仕方もない。僕はというと、りょうご君の失敗の原因究明という大義名分で、鏡の世界へと向かうのだ。 「心配せんで大丈夫、約束の五時には戻るから」  深呼吸して、そっと鏡に触れる。表面にはうっすらと、朱雀の絵柄が刻印されていた。鳥の神様にいざなわれ、体が、心が、僕の全てが、鏡の世界へと吸い込まれていく。  僕がまだ、小学校に入学してすぐの頃。何度か宿題をすっぽかしていたことが三者面談でばれて、母さんにこっぴどく叱られた。普段は静かな母さんの怒った声が恐ろしくて、けれど、父さんには黙っていてくれたことが嬉しくて、複雑な日だった。  鏡を通り抜けるまでの僅かな一瞬、懐かしい記憶に微笑んだ。     小さな部屋。夏休みの課題が無造作に広げられた机の前に僕は現れた。元の世界では、とっくに終わらせたはずのページだ。 「としひこ、さっさと終わらせなさいよ。あんたももう、中学生なんだから。忘れましたじゃ、先生許してくれないよ」  第一声がこれとは、耳が痛い。おかげで涙は出なかった。振り返ると、当たり前みたいに母さんがいて、日常的な動作で冷えたグラスを僕の前に置いた。五年の空白なんて母さんには無い。 「ありがとう……母さん、いただきます」  その言葉の裏側に、密かに五年分の想いを込めた。伝わらなくてもいい。冷たい麦茶が、心に空いた穴を満たしていく。
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