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八月中旬。二日間のお盆休みということで、父さんは店を閉めていた。シャッターを隔てて商店街から孤立した店の中には、独特の薄暗さと居心地の悪さが漂っている。
テーブル席から缶を開ける音がした。父さんの前に座っているのは、じいちゃんだ。地元で一番の大きな工場を経営している人。五年前まで、父さんもそこに勤めていた。その当時から、二人の仲はあまり良くない。
「親父、ここで飲むなや。また病院で先生に止められたんやろ。あんまり、おふくろ泣かせんなよ」
「うるさいのう。お前この土地、誰のおかげで借りれてると思ってるんや。この恩知らずが。親不孝も大概にせえよ」
低くて太い、じいちゃんの声。僕はこの声が苦手だ。近くで聞いているだけで、腹の底が重くなる。一刻も早く逃げ出したくて、お手洗いに行くふりをして、階段へ足を向けた。
「としひこ、お前の決断力には期待してるんや。父ちゃんの代わりに、わしの会社を頼んだで。しっかり勉強しとけよ」
声が、鎖となって僕を捉える。無視することなんてできやしない。立ち止まって、曖昧な笑みで頷くと、じいちゃんは満足そうに口元を歪めて、顎で階段を示した。何もかも見透かされているようで悔しいが、その指示を拒絶する勇気も、メリットも、僕には無い。
階段を登ると、古くなった踏み板が、ぎしりぎしりと鳴った。僕ら父子の日常が詰め込まれたこの音でさえも、じいちゃんは自分の所有物だと、あの低く太い声で言い張るのだろう。
「ごめん……声、聞こえてたやんな」
ふすまを開けると、りょうご君は窓の外を見下ろして物憂げな表情を浮かべていた。階下の声が、彼の心をより一層、暗い所に追いやってしまったのだろう。ただでさえ辛いというのに。
本当なら昨日、りょうご君の両親は仕事を終えて、飛行機で日本に帰ってくるはずだった。それが、今日になっても連絡が無い。仕事の都合か、それとも天候のせいなのか、今の時点では何も分からない。りょうご君を励ます言葉を、僕は必死に考えた。
「心配やんな……でもさ、二度と帰って来ないなんて、そんなことは無いんやから大丈夫やで。ほら、一緒にゲームしよ」
そうだ。彼らは、僕ら家族とは違う。どれだけ時間がかかろうとも、りょうご君の両親はいつか必ず帰って来る。僕には二度と取り戻せない幸せな時間を、りょうご君はまだ失っていない。大切にしてほしい。お願いだから、今の僕みたいにはならないでほしい。
「師匠……今日は行かなくていいの? あれから毎日、向こうの世界に行ってたじゃん。気に入ってくれてるなら、俺嬉しいよ」
気遣ったはずが、気遣われていた。そして、その優しさを振り切れない程に、今の僕は弱かった。弱くなってしまった。僕はもう、鏡の世界にしか、幸せというものを感じられなくなっている。
「ごめん、今日もまた、五時に帰って来るから」
「うん、待ってるよ……師匠は、約束守ってくれるもんね」
寂しそうな笑顔だった。部屋の片隅に置かれた、きゅうりの馬が目に入る。あの世にいる先祖に、少しでも早く帰って来てもらうための、お盆の飾り。意味は違うけれど、空から帰って来る両親のために作りたいと、りょうご君が言い出した。そんな彼を置いていくなんて、酷いことだと分かっている。それでも僕は、鏡に触れる。
「いってらっしゃい。俺、師匠に出会えて……よかったよ」
世界をまたぐ一瞬の中で、そんな声を聞いた気がする。僕は聞こえないふりをして、母さんの待つ世界へと踏み出した。
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