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毎日夜遅くまで、母さんは街中の弁当屋で働いていた。鏡を抜けると僕は大抵、その店の休憩室に現れる。薄い壁で仕切られただけの簡易的な空間。電話注文を受ける母さんの声が、壁の向こうから聞こえる。
それだけで充分だった。ただそれだけで僕は幸せになれた。
母さんが休みの日には、近所のスーパーに買い物について行く。何でもない一日が、愛おしくてたまらなかった。
それが、今日だけは違っていた。電車とバスを乗り継いで、海が見える田舎町までやって来て、僕らは今、白い日差しの中で迎えの車を待っている。この町に母さんの弟がいるらしい。
「としひこは会うの初めてね。昔やんちゃしてたものだから、そんな奴と孫を会わせるなって、お義父さんに言われてたの……」
母さんの手が微かに震える。その手には紙袋が握られていて、中には駄菓子の詰め合わせが入っている。母さんの弟――僕の叔父さんにあたるその人の家には、小さい子どもがいるのかも知れない。その子のことを僕は全く知らないけれど、どうかじいちゃんの声の届かない所で生きてほしいと、そう願わずにはいられない。
水色の軽自動車が目の前で止まった。運転席のドアが開いて、作業着姿の男性が出てくる。茶髪のショートヘアに黒縁の眼鏡をかけたその人は、どことなく暗い顔をしていたが、母さんが声をかけると軽く微笑んだ。目元の皺が母さんによく似ている。
「姉ちゃん、遠くまでごめんな。午前中は手が離せん仕事があってさ。後ろにいるのは、もしかして……としひこか」
「そうよ、もう今年から中学生。それより、奥さんの体は大丈夫なの? あんたがしっかりしないと、共倒れになるよ」
母さんの声は、少し深刻だった。もしかすると、奥さんは重い病に苦しんでいるのかも知れない。車に乗って叔父さんの自宅へと向かう道中、二人がそれ以上何も言わないので、僕は黙って、車窓から見える景色を眺めていた。誰もいない砂浜。真夏の太陽を独り占めにして、海は寂しそうに光っている。
「ほら、着いたよ」
月極駐車場から歩いて数分、小さな一軒家。玄関の前には、青いプラスチック製のプランターが置かれていて、そこに本物のヒマワリが咲いていた。思わず、元の世界のことを思い出して、後ろめたい気持ちに襲われる。今頃、彼はどうしているだろう。
「姉ちゃんは先に上がっといて。俺はちょっと、としひこと二人で話したい……としひこ、少し散歩に付き合ってくれんか?」
「え……うん、別にええけど」
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