14-2

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 シャワーを浴びて居間に戻ると、多岐川の姿は既になかった。客用にしている部屋に引っ込んだのだろう。多分今頃は夢の中だ。  居間の照明を落として寝室に足を向ける。椅子の上に置いてあった携帯が青い光を明滅させていることに気が付き、慌てて手に取る。意外な思いで耳に当て、返事をした。 「どうした? 何かあったのか」 「いえ。今タクシーの中なんですが」  酔っていなければかけてこないだろうと思ったのに、佐宗(さそう)の声はしっかりしていた。タクシーの運転手が聞いているからなのか、そうでないのかは分からない。 「そうか」 「下に停まってるんですけど、渡し忘れた書類があって」  書類は確かに提出を命じたものだったが、今日中と言った覚えはない。佐宗の外出中に保奈美を捕まえ、月曜で構わないと伝言したはずではなかったか。 「部長、申し訳ないですが、下りて来て頂けませんか」  胃の上部が緩んだように錯覚した。顔が見たい、と伝えたのは本心だった。伝わったとは思っていたが、こんなふうに応えてもらえるとは正直思っていなかったのだ。 「──せっかくだから、中身検討するか」 「は!?」  佐宗の声が引っくり返る。 「打ち合わせするぞ」 「一時ですよ。これから打ち合わせ? 本気じゃありませんよね」  割に近いシティホテルのバーを指定すると、佐宗は数秒黙った後分かりましたと返事をした。運転手に行き先を指示する声が途中まで聞こえて通話が切れる。俺の見え見えの下心に気付かないわけはない。それでも我儘で横暴な上司の気紛れに付き合うふりをして──事実その通りではあるが──ホテルに向かってくれたのだ。自分勝手な喜びで頬が緩む。まったく、俺は救い難い。  ホテルに電話し、ツインの部屋を予約する。さすがにダブルの部屋はどうかと思う程度には冷静だ。服を着替え、合鍵と殴り書きのメモを居間のテーブルに残して部屋を出た。多岐川はメモを読んで目を瞠り、呆れ、そして苦笑するだろう。マンションのエントランスを出て既に待っていたタクシーに急いで乗り込む。走り出した車の座席に背中を凭せ掛け、俺は小さく息を吐いた。 「部屋につけておけばよかったのに」  チェックインと部屋代の支払いを済ませて佐宗の電話を呼び出してから十分。頼んだ酒はしっかり胃に収めたらしい佐宗を見上げ、俺は煙草を揉み消した。 「嫌ですよ、そんな。俺が飲んだんだし。大体、こんな高いところ」  そう言って、佐宗はテーブルに鞄を投げ出した。俺の座るソファを避け、一人掛けの椅子に座る。佐宗のこういう距離の取り方は、俺への信用度に比例すると思っていた。そうでないと分かってからは気になることもなくなったが、それでも開いた距離は気に食わない。立ち上がり、眉を寄せる佐宗の前に立つ。手を伸ばし、右手の指の関節で頬を撫でると佐宗が微かに身じろぎした。 「電話、嬉しかった」 「……」  毒舌が出てこないのは、友人たちと楽しく飲んだ酒のせいか、それとも一人で舐めた酒のせいか。  頬から顎を撫で下ろし、ワイシャツと首の丁度境目にある黒子に触れる。佐宗は少し身を硬くして、椅子の上で後ずさった。 「──逃げるなよ」 「逃げてませんよ」  もう一度伸ばした指先を掠めるように避け、腰を浮かせる。近過ぎるくらいの距離に立った佐宗は、真っ直ぐに俺の目を見て、そうして僅かに首を傾げた。 「シャワー使っても?」 「いいよ、そのままで」  佐宗は嫌そうに顔をしかめ、俺を手で押し退けた。 「あんた、家で浴びたんでしょう。一人だけさっぱりしてるのが気に入りません」 「だってお前」 「俺は煙草臭いし食い物くさいし、このまんま寝るのとか嫌ですから」 「後で一緒に浴びようぜ」 「勘弁してください」  佐宗は片手でネクタイを緩めながらテーブルの上の鞄を探り書類の束を取り出した。 「宿題です」  胸に押し付けられた書類と浴室に向かう佐宗に交互に目を向けて、俺は思わず苦笑した。  少し疲れた顔をしている。飲んだ後だから当然なのだろう。そう思いながら佐宗を見下ろし、解放してやるつもりのない身勝手さに我ながら少し呆れたが、今更いい人ぶったところで遅すぎた。それでも、触れる手指を引っ込めて身体を起こす。佐宗は数秒放心していたが、瞬きして俺を見つめた。 「……嘉瀬(かせ)さん?」  腕を取り、胸に引き寄せるように抱き起こしても佐宗は文句を言わなかった。佐宗の背を胸に密着させるようにして座らせる。目の前の首筋に顔をすり寄せると、ボディシャンプーの匂いがした。 「疲れてんな」 「まあ、仕事して、飲んで、ですから」  僧帽筋を軽く噛みながら右手で肋骨を一本ずつ辿る。微かに震えた佐宗の身体を抱え直し、俺はその耳元に唇を寄せた。 「──止めるか?」 「え?」 「疲れたなら止めるか?」  肩越しに俺を一瞥し、佐宗は一瞬押し黙った。 「嫌です」と呟いた声は小さくて、空調の低い唸りに紛れそうではあったが空耳でなかったのは間違いない。俺に預けた佐宗の背中から伝わる振動が、それが現実に発せられた音だと伝えていたからだ。  脇腹から手を退けて、佐宗の膝に手を伸ばす。剥き出しの膝小僧は骨ばっていて、薄い皮膚の下の骨の形が露わになっていた。  膝から内腿を撫で下ろし、毎回感じる内腿の柔らかさに、また驚く。男の身体は女に比べて硬い。張りつめた皮膚は滑らかでも、柔らかさとはほぼ無縁だ。それなのに、この部分だけは男女にそれほど差異がない。掴むようにして湿った皮膚の薄さと手触りを楽しむと、佐宗が低く呻いて身を捩った。 「嘉瀬さん」 「うん?」 「マジで疲れてんですから──早く済ませてくださいよ、まったくもう……!」  相変わらずの言いように嬉しくなって漏らした笑いに、つられたように佐宗も笑った。    入れなくて満足出来んですか、と問う佐宗に、じゃあお前は毎回不満なのかと返したらぽかんと口を開けていた。数秒間抜け面を晒した後の素直な笑顔にぐっとくる。仕事と酒で疲れた顔、薄く隈の浮いた顔は著しく可愛らしさに欠けるのに。  まとめて握った二人分の器官が擦れ合い、佐宗はしわがれた声で意味のないことを呟いた。内腿のやわらかさとは違う滑らかさ。性的な感覚とはまた別のところで、その感触に感嘆する。人の身体は繊細で、そして同時にとても強い。どこか脆さを抱える佐宗も、同じように強いのだろう。 「会いたかった」 「だから……昼間、ずっと」 「それでもだ。お前がどう思ってんのか知らねぇが、俺は、昼間会っても夜も会いたい。いつも」  俺も会いたかったです、なんて、佐宗が口にするわけはない。例えそう思っていてくれたにせよ、実際にそうではなかったにせよ同じことだ。言わずとも伝わるなんて決して思ってもいない佐宗なのに、それでも口にしないことには佐宗なりの意味と意地があるのだろう。  佐宗からの返答はやはりなかった。微かな喘ぎに濡れた音が混じる。聴覚からの刺激だけでは興奮しないと言った部下は触れられて喉を反らせ、俺の腕に指先を食い込ませて低く長い呻きを漏らした。湿った指先を伸ばして佐宗の手を掴む。指を絡め、握った両手を佐宗の頭上で枕に押し付けた。腰を揺らし、会いたかったという言葉を押し付けるように己を佐宗に擦りつける。俺の掌という支えを失い、押し付ける度滑って逃げるそれはまるで佐宗そのものだ。そう思うと何だかおかしくなって、喉の奥で俺は笑った。 「何笑って──」 「お前のことが好きだから」  言ってやると、佐宗は黙った。 「それと、俺は幸せだから」  世間体、プライド、それから仕事、俺はどれも諦めないし、捨てるつもりもない。  佐宗のためなら何でもするが、佐宗のためにすべて捨てる気はまったくない。  そうやってすべて捨ててしまった俺を、佐宗は多分想ってはくれないだろう。それに、そんな自分を自分が好きになれないだろう。自分勝手な話かもしれないが、自分が不幸だったなら、他の誰かを幸せにできるわけがないではないか。 「多分、俺の知ってる誰よりも幸せだからだ」  佐宗の指に力が籠り、俺の手を一度きつく握ってまた緩んだ。  糊のきいたシーツが微かな衣擦れの音を立て、佐宗の酷く微かな声が、面白くありませんよ、と囁いた。  
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