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15-1
俺は正直困っていた。
困り果てていた、と言ってもいい。
目の前に嘉瀬さんの喉がある。嘉瀬さんの匂いがする。
ここは、俺のベッドだというのに。
「一遍その頭を外して洗って付け替えろ!! この馬鹿が!!」
久々に落ちた鬼部長の雷は強烈だった。
「申し訳──」
「二回も三回も謝らなくていい」
頭を下げた俺に冷たく言って、嘉瀬さんは拳で思い切り机を叩いた。
「俺の機嫌取ってる場合か? 他にすることあるだろうが!」
「はいっ」
弾かれたように、というのは正にその時の俺の状態を言うに違いない。実際には何もされていないのに、尻を蹴っ飛ばされた動物のような勢いで、俺は会社を飛び出した。
正確に言えば、それは俺だけのミスではなかった。
客先から預かった古いポジを、デザイン会社が紛失したのだ。その会社とは何度も仕事をしていて信頼していたし、今までにそんな事故は一度もなかった。しかし、先月新しく入った女の子がキャビネットの整理を任されて、何をどう間違ったのか、捨ててはいけないものまでごっそり捨ててしまったらしい。その中に件のポジがあったのだ。
この部分だけ聞けば、確かに俺に落ち度はない。
だが、本当なら一日前に引き取るはずだったポジを預けたままにしたのは俺だった。前日の夜、これから取りに行くと電話をしたら、担当者が「明日にすればいいじゃないか」と言ったのだ。
「高橋くん、こんな時間から来るの、面倒くさいでしょう」
「いえ、ご迷惑でなければこれから──」
「うちはまだ開けてるから迷惑なんかじゃないけど、預かっておくからいいよ。明日おいでよ」
特別理由なく、俺はそれに頷いた。確かに面倒くさいと思った。どうせ明日も近くまで行くのだから、一日くらい余計に預けて何の問題があるだろうか、と。
嘉瀬さんが怒っているのは、だからなのだ。
すべきことを怠って、その結果紛失が起こったならそれはお前の責任だ。例えメモ紙一枚だったとしても、他人のものを預かって最後まで責任を持てないなら、これから一切預かるな。
嘉瀬さんの台詞はもっともで、返す言葉のひとつもなかった。
スキャニングして画像データ化してもらったものはメールで送ってもらったから手元にあった。最悪の事態ではないとは言え、他社のものを紛失したというのは間違いない。
俺は結局、デザイン会社の担当者と連れ立って、先方に頭を下げに飛んで行った。幸い向こうはデータがあるならポジがなくても構わないと言ってくれた。持参した菓子折に恐縮され、更に恐縮した俺たちは冷や汗を拭きながら帰路についた。
会社に戻ると嘉瀬さんは外出中で、俺が退社するまで出たり入ったり、忙しそうにしていてろくに報告もできなかった。
結局、駅の階段を下りていたら携帯に電話が来た。来た道を引き返し、現れた嘉瀬さんと飯を食った。
例の一件について詳しく報告して、もう一回謝って、ばしりと頭を叩かれてそれで終わり。
その後の嘉瀬さんはすっかりいつもの嘉瀬さんで、その後二軒の店を梯子して、そこから先を俺はまったく覚えていない。
「おはよう」
寝起きの掠れた甘い声に、俺の心臓は数秒ポンプの役目を放棄した。
ああ、くそ、動け馬鹿野郎。
「おはようございます、部長」
「色気のない挨拶すんなよ」
「何であんたがここにいるんですか」
「……誰? って言われなかっただけマシか?」
喉を鳴らす嘉瀬さんから身体を離そうとして、俺はベッドからずり落ちかけた。嘉瀬さんの家の、ダブルと見紛うほどゆったりしたセミダブルとは違って、俺のベッドは狭苦しいことこの上ないシングルだ。
「落ちるぞ、佐宗」
肩を掴まれて裸の胸に抱き寄せられ、今度は肺が一時的に機能停止。心肺蘇生が必要だ。そのうちAEDを買おうと心に決める。まったく、朝から健康に悪いことこのうえない。
「何であんたがここにいるんですか」
さっきと同じことをもう一度問う。
「お前が潰れて、タクシーで送ってきた」
「……それはどうも、ありがとうございます」
二軒目までしか記憶がないから、その後潰れたということらしい。
俺は布団から出ている自分の胸のあたりを見下ろした。寝巻にしているよれたTシャツ。布団の中で見えないが、部屋着のジャージも穿いているようだ。
「まさか着替えとか……」
「あ? ああ、タクシー降りたら案外普通に歩いてたし、服は自分で着替えてたぞ。まあ、スーツは俺がハンガーにかけてやったけど……それも覚えてないのか」
ほっとして、俺は少し息を吐いた。
酔って潰れてタクシーで送られて、おまけにジャージを穿かせてもらっていたりしたら情けなさ過ぎて泣くところだ。
安堵した瞬間に寝過ごした、と思って心臓が跳ね、今日は土曜だったと思い出してまた息を吐く。俺の力が抜けたせいか、嘉瀬さんの腕の力もふと緩む。一瞬の隙をついて腕から逃れ、俺はベッドから這い出て床に座った。
「何だよ、逃げんなよ」
「逃げてません」
「どうだかな」
のんびりと笑い、嘉瀬さんは片肘をベッドについて半身を起した。
「で」
「うん?」
「何であんたまで俺んちにいるんですか」
嘉瀬さんは俺を見て口を開け、秒針が一目盛進むくらいの僅かな間の後に、口を閉じて肩を竦めた。
「それより、シャワー貸してくんねぇかな」
俺は改めて嘉瀬さんに目をやった。
剥き出しの肩と腕にはほどよい量の筋肉が隆起している。寝乱れた髪が額にかかっていて、同性の俺から見ても腹が立つほど色気のあるその姿は、築十一年の安アパートにはそぐわない。
「どうぞ。てかあんた服──」
嘉瀬さんはベッドから起き出し、前髪を両手で掻き上げ大きな欠伸をした。
素っ裸で。
俺の視線に気付き、嘉瀬さんはああ、と言いながら首を鳴らした。
「着て帰らなきゃなんねえからな。そのまま寝たら皺になんだろ。面倒くせえからパンツも脱いどいた」
「何が面倒くさいんですか一体?」
「どうせシャワー浴びんのに脱ぐじゃねえか」
健康な成人男子の証とばかりに朝勃ち中の股間を睨みながら、俺は恐る恐る声を出した。別に今更恥ずかしいとか思っているわけではない。
「……まさかとは思いますけど」
「ああ?」
「そこも覚えてないってことはないですよね? 俺」
「そこって何だ」
「いや、だから」
立ち上がった俺の横を通り過ぎざま頭を軽くはたいて、嘉瀬さんは笑った。
「幾ら酔っ払ってたってな、お前が覚えてないような適当なセックスをすると思うか、この俺が」
「……自信過剰」
腕が伸び、俺の首に巻き付いた。引っ張り寄せられ倒れ込むようになった俺の耳元に、嘉瀬さんは唇を押しつけた。
「でも、そう思うだろ?」
嘉瀬さんは俺をさっさと解放し、笑いながら浴室に向かう。俺はベッドの上の枕を引っ掴み、浴室に向かう格好いいケツに思い切り投げつけた。
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