16-2

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16-2

 フレッド君とともに、俺は新居へ引っ越した。  高級で、シンプル且つモダンで洗練されたマンション。  外観はそんな感じだが、俺の入居する先にはきちんと生活感と温かみがある。  多分有名なメーカーの家具。手触りだけで高級だと分かる革のソファ。そんなものと、使い古されたものがちょうどよく混じり合っている。しかし、だからといってキャラクター商品が似合うような部屋ではない。 「……」  玄関先で俺が差し出したフレッド君Aを凝視し、嘉瀬(かせ)さんは何度か瞬きした。 「こちらのお宅に不似合いなのは分かってるんですが」  言いながら、俺はフレッド君B──ちなみに、Aは塩でBは胡椒──も、部長の手に押し付けた。 「彼がいないと眠れないので」 「……スパイスボトルじゃねえのか、これは」 「俺が知る限り、スパイス以外のものが入ってたことはありませんね」 「台所で寝るのか、お前は」 「そんなわけないでしょう。何言ってんです」  首を捻る嘉瀬さんをその場に残し、俺はさっさと部屋の中に入った。    そんなこんなの慌ただしい引っ越しから一週間で音を上げて嘉瀬さんの部屋を飛び出し、多岐川さんに迷惑をかけて時間を潰し、俺は部長のマンションへ出戻った。当然お叱りを受けると思ったが、俺はその日、結局嘉瀬さんと会うことすらできなかった。  嘉瀬さんに電話が入ったのは、俺が多岐川さん相手につまらない愚痴を垂れ終えた頃だったらしい。得意先の社長が急逝したらしく、俺が電話に出なかったから、事情はメールで届いていた。  得意先の自社ビルはすぐそこにあるのだが、社長の実家は新幹線で一時間ほどかかる県にある。故人の希望で葬儀は実家近くの斎場で執り行われることになったとかで、部長と担当営業の沖田さんが二泊の予定で旅立った。  沖田さんだけでなく嘉瀬さんも出向いたのは大口の得意先だからというだけではないらしい。社長が取締役だった頃に担当営業だった嘉瀬さんは、当時彼に随分世話になったのだそうだ。と、これもメールに書いてあった。  沖田さんとは電話が繋がって──多分、沖田さんからなら俺が応答すると踏んで嘉瀬さんがかけさせた──現地で担当者との打合せもセッティングされているとかで、出張も兼ねているのだそうだ。打合せなんてお互いこちらに戻ってからすればいいのにと思ったが、それはそれ、あちらさんの内部事情とやらもあるのだろう。  俺は主のいない部屋で悶々とし、嘉瀬さんのメールに書いてあったとおり、冷蔵庫にあった昨日の残り物を食った。  嘉瀬さんがいない部屋はひどく広くて心もとない。  当たり前のことだが、嘉瀬さんがいないときに泊まりに来ることなんかなかったし、同居を始めて一週間しか経っていないから、一人きりになったことなどない。自分の部屋としてあてがわれた部屋もあるにはあるが、ベッドはない。なぜなら嘉瀬さんの寝室で一緒に寝ているからで、そうなると、客間はあるがどこで寝たらいいのか決められず、結局居間のソファで眠った。翌日は嘉瀬さん不在の会社に普通に出社し、多忙だろうからとメールで連絡を取ったりして、表面上つつがなくその日の業務を終了した。  そうしてその日の帰り道、上の空だった俺は本気で間違えて、いつもの電車に乗ってしまった。    自宅の前で途方に暮れるというのもおかしな話だが、俺は五分ばかりドアの前で立ち尽くし、結局はドアに背を向け歩き出した。  自分が借りている部屋だ。勿論鍵は持っているし、荷物も半分以上が残っている。生活必需品はすべて揃っているから、今日はここで寝ればいい。どうせ嘉瀬さんは明日まで帰ってこないのだから、どこにいようと同じことだ。  一旦は逃げ出し、多岐川さんにまで迷惑をかけて、それなのに、どうしてこうまで躊躇うのか、自分でもよく分からなかった。  ふらふらとファミレスに入り、店員に勧められるままハンバーグドリアを注文し、何でそんなくどいものを注文したのかと言った端から後悔した。エプロンをつけた店員の後姿に声をかけようと口を開き、喉まで出かけた声をあえて飲み込む。店員が抱える馬鹿でかいメニューに載ったたくさんの料理の中から改めてたったひとつを選ぶことが、とてつもなく面倒くさい作業に思えたのだ。  驚くほど早く運ばれてきたハンバーグドリアをのろのろと口に運びながら、俺は何故こんなところでもたもたしているのだろうかと自問した。濃厚なホワイトソースが舌の上で妙に粘つく。簡単に答えが出るくらいならここにいないなと思い至った瞬間に、携帯が振動し始めた。 「もしもし」  丁度角の席だったし、周囲は空席ばかりだった。本当はいけないのかもしれないが、声を潜めて電話に出る。少し疲れた低い声が耳朶を打った。 「ちゃんと飯食ってるか」  今更鬼部長の声を聞いてときめくでもないが──というか、実際今までそんなことは一度もないが──ほんの少し、いやすごく、安堵したのは本当のことだ。自覚があったせいか、酷く素っ気ない声が出た。 「今、でかいハンバーグが乗ったドリアをもりもり食ってます」 「……さすがに若いな。ホワイトソースとハンバーグって聞いただけで胃もたれするぞ、俺は」  それほど年でもないだろうに、年寄りじみたことを言って部長は小さく息を吐いた。 「まあ、何でもいいから残さず食え。お前はちょっと痩せすぎだ」 「放っといてくださいよ。それよりそっちはどうですか?」 「色々面倒くせえ」 「それじゃ全然分かりませんけど」 「いいよ、別に。担当じゃねえんだから気にすんな」  投げやりな口調の向こうでライターが擦れる音がした。それから、タイヤが路面を踏む音、ヒールがアスファルトに当たる音。どうやら部長は外にいるらしい。 「煙草ですか」 「ああ」  煙を吐き出す音が聞こえる。それとも、風の音だろうか。 「──長くなるなら一旦外出ますけど」 「ああ、そうか。いや、いい。飯の最中に悪かったな」 「俺はいいですけど……気になるなら掛け直しますか?」 「ああ」  あっさりと切れた電話を眺めているうちに、なけなしの食欲も失せてしまった。どんなときでも腹いっぱい食えたのは二十代前半くらいまでだ。世間的にも体力的にもまだ若いというのは分かっているが、今この瞬間は、やたらと年を取ったように思えて何となくうんざりした。  ドリアのおまけのサラダを食い、ホワイトソースをこそげ落とすようにしてハンバーグを食って、嘉瀬さんの暗示のせいか自分の胃袋のせいか、最後は立派に胃もたれして俺はファミレスを後にした。  道路を渡ってすぐのところにコンビニを発見し、煙草とペットボトルの緑茶を買って外に出た。どうしても欲しかったわけではないが、何となく時間を置きたかったのだ。  気温はそう下がっていないが、意気軒昂とはいかないせいか肌寒く感じる。無意識にスーツの上から腕をさすりつつ、携帯を取り出した。コンビニの駐車場の隅っこで煙草に火をつけ、着信履歴を表示する。一番上の番号を選んでダイヤルし、俺は煙を吐き出した。 「食い終わったのか」 「部長のせいで胃もたれですよ」 「何で俺のせいなんだよ。今どこだ」  煙を空に向けて吐いてみる。コンビニの過剰ともいえる灯りに後ろから照らされて、煙は白く立体的に見えた。 「ファミレスの近くのコンビニです」  何故か数秒間が空いて、ぼんやり煙の行方を追っていた俺は、思わず携帯を耳から離してじっと眺めた。 「……何です、その間は」  電話の向こうで嘉瀬さんが何か言っている。我に返って携帯を耳元に戻した。 「何ですって?」 「何だ、聞いてなかったのか」 「ハンバーグのせいで血が全部胃に行っちゃったもんで」  嘉瀬さんがちょっと笑い、すぐ耳元で聞こえた喉を鳴らす音に俺は微かに身震いした。 「で、何て言ったんですか」 「いや──お前自分ちに帰ったんじゃねえかなと思ってたんだ。けど、ファミレスってあれだろ、でかい駐車場のある」 「……はい」 「お前んとこから俺んちに行くなら、そこ通って駅に行く」 「……」 「じゃあ、一応迷ってんだなと思ってな」  何から何まで見透かされていると思うと腹が立つ。 「迷ってませんよ」 「ふうん。どっちで寝るんだ?」 「……昨日は部長邸で安眠を貪りました」 「まさか台所でフレッド君たちと寝ちゃいねえだろうな」 「俺を何だと思ってんです。子供ですか」 「冗談だよ。ソファで寝たんだろ。多分」  俺はぐっと詰まって無言になった。 「あのな、佐宗(さそう)。急には無理だってのは知ってる。納得はしてねえぞ? でも、気持ちは分かる。だから、自分ちに帰れ」  笑いを含んだ嘉瀬さんの声は疲労を滲ませ、そして同時に信じられないくらい優しかった。  疲れた声だが、この会話のせいで疲れているのでないことは分かっている。それでも、酷く済まない気分になるには十分だった。  俺は確かに迷っていた。本当は、一度は背を向けた自分の部屋に帰りたくてこんなところで時間を潰しているのだ。嘉瀬さんの部屋に戻りたくないとは言わない。だが、戻りたいと言えば嘘になる。 「目の前にいるなら帰さないけどな。今日はどっちにいたって同じだから、お前の楽な方にしとけ」 「嘉瀬さん、俺──」 「多岐川んとこ行ったのは知ってるぞ。あいつ、速攻通報してきやがったからな。お前もまだまだ騙されやすいなあ、佐宗」 「……あのクソ伊達眼鏡め」 「おお、いいな、それ。今度本人に言ってやれ」  俺がはい、とかでも、とかもごもご言っているうちに、嘉瀬さんはそれじゃ明日は何時に会社に戻るとか言って、さっさと電話を切ってしまった。勿論、俺に気を遣ってのことなのは自明だったから、腹も立たない。  俺はコンビニの駐車場で煙草を吸い切り、立ち上がった。駐車場の端に立ち、どちらに進むか迷って立ち止まり、数歩進んで踵を返し、そうして結局二進も三進も行かなくなった。   「──なんだ、どうした」  ついさっき切ったばかりの電話が鳴って驚いたのか、応答するまで少し間があった。  嘉瀬さんの声はさっきよりもっと疲れていて、そしてもっと優しかった。 「佐宗? 自分の部屋戻っていいんだぞ。遠慮すんな」  そんな声、出さないでくれ。  今すぐあんたに会いたいのに、今すぐあんたに会えないのに。 「嘉瀬さん」 「ほら、部屋戻るまで電話繋いでてやるから。歩け、高橋」 「……もう迷ったりしないから、今すぐ帰ってきてください」  無理だと分かっていてそう言ったら、無理だと分かっている嘉瀬さんも、ああ、帰りてえな、と言って低く笑った。  いまはまだそんな時間ではないけれど、もしも公共の交通手段がないだけなら、タクシーでもなんでも使って帰ってきてくれるに違いない。でも、そうではなくて、仕事と義理があるから帰ってこられない。そして俺は残念ながら、帰ってこない嘉瀬さんだから、好きなのだ。 「明日帰るから──な?」  馬鹿みたいに涙が滲む。一日二日顔が見られないからという理由じゃない。こんなに大事なものから逃げ出して、俺は一体何をやっているのだろうと悔しいからだ。自分の迷いも戸惑いも、客観的に見て仕方ないことだと思いもするけど、それでもやっぱり俺はどうしようもなく馬鹿野郎だ。駐車場の端っこに座り込む俺の脇を何人かが通り過ぎる。 「はい」  ちょっと洟を啜ったが、それでも普通の声が出せた。 「疲れてるのにすみません。じゃあ、気をつけて帰ってきてくださいね」 「ああ、ありがとう」 「おやすみなさい」  おやすみ、と囁く嘉瀬さんの声を暫し反芻し、俺は渋々立ち上がって、のろのろと歩き出した。    結局俺は嘉瀬さんの部屋に戻ってソファで寝た。何食わぬ顔で出勤して、午後遅くに帰社した嘉瀬さんに何食わぬ顔でお疲れ様ですと声をかけ、忙しそうな嘉瀬さんを置いてこれまた何食わぬ顔で嘉瀬さんの部屋に戻って、コンビニ弁当を食って風呂に入って、すっかり慣れたソファに陣取りビール片手にイタリアのクラブチームのサッカーを観戦し、後半三十五分のコーナーキックあたりで眠り込んだ。 「──佐宗」  俺はよっぽど腑抜けた顔をしたんだろう。嘉瀬さんはおかしそうに笑って、俺の下唇を優しく噛んだ。 「ただいま」  もうなんだか分からないくらい丁寧に口づけられて、全身の骨が蕩けたようにぐにゃぐにゃになった。恥ずかしいとか何だとか言っていられないくらい安心したからどうでもいいと思ったあたりで解放され、目を細めて片笑みを浮かべた上司の男前面に覗き込まれて目を逸らす。  嘉瀬さんの掌がTシャツの裾から潜り込んできて脇腹を撫でる。そのまま下に移動した指先に追い上げられて、嘉瀬さんの首に縋りついた。 「あんた、飯──っ」 「沖田と食った」 「ええと、じゃあ風呂、はっ」 「ちょっと黙っててくんねえか、佐宗」 「何……あ、や──っ」  舌だけで気が狂いそうなくらい翻弄されて、もう憤死だか悶死だか分からないけど死にそうになったがなんとか生き残り、勘弁してくれと言い募ったらじっくりと信じられないくらい奥まで押し込まれ、俺を入れて感じてるお前の顔が見てえんだ、なんて耳を舐めながら言われたから、もう本当に死んだほうがマシな気分で俺は喘いだ。 「佐宗。おい、佐宗?」  観念して目を上げる。  髪が乱れ、少しだけ疲労が滲む部長の目元はとても穏やかで、俺はまたみっともなく泣きたくなった。何か言わなきゃいけなかったと惚けた頭で考えたがまとまらなくて、それでも俺は、何とかその言葉を口に出す。 「……おかえりなさい」  嘉瀬さんは俺に顔を寄せ、唇に唇で触れながら、低く甘く悪魔のようなその声で囁いた。 「お前もな、佐宗──」  おかえり。  
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