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「そういうわけだから」 「何ですか、その手抜き感満載の台詞は。謝罪ですか、それとも宥めようとしてるんですか、部長」  プレゼン用のタブレット端末を盾のように顔の前に掲げたまま、佐宗(さそう)は不機嫌な声で吐き捨てた。  吐き捨てる、としか表現のしようがないその口調は、憎たらしいことこの上なかった。  まったく、上司に対するものの言い方じゃねえだろうと思ったが、今回は佐宗に非があるわけではないから、咎めるのも気が引けた。 「……あのなあ」  とはいえ、俺に非があるわけでもない。  そういう気持ちがあからさまに出たのだろう。佐宗はタブレットを机の上に置き、真正面から睨みつけてきた。  そういう顔も嫌いじゃない、と言ってやりたいところである。可能ならそのまま圧し掛かってああしてこうして鳴かせたい。だが、この状況でそんなことを言おうものなら火に油を注ぐのは明らかだから、俺はまた馬鹿みたいな顔をして──実際のところ馬鹿ではないと言い切れないのが悲しいが──憤慨する部下に紙コップを差し出した。 「腹が立つのは分かるけど、今日のところは我慢してくれ」 「誰からの賄賂ですか。気がきいてないし、ケチくさい」 「俺じゃねえよ」 「分かってますよ、そのくらい」  低く唸り、それでも佐宗は紙コップを受け取った。タブレットをバッグに入れて袖机にしまい、百円コーヒーを持って立ち上がる。 「嘉瀬(かせ)さん、ご馳走様ですって言ってたとか、常務に言わないでくださいよ」  不機嫌に呟いて、部下はさっさといなくなった。  佐宗がまとめた商談を上がひっくり返したのは今日の朝だ。  上──常務曰く、大事な顧客の知り合いのなんとかで、この仕事を回すことによって、わが社には他の仕事の取っ掛かりができるのだそうだ。  というのはいかにも後付けの建前。実際のところは溺愛している娘の彼氏がうちの競合他社に在籍していて、娘に頼まれて仕事を譲ったとかそんなどうしようもない話らしい。  俺自身、詳細を聞いたら暴れてしまいそうなので聞いていないが、あとは細部の問題でしかない。  その仕事は確かに小額で、言ってしまえば契約更新みたいなものだった。  とはいえ、商談は商談に違いないし、小さい仕事だからといって佐宗が何の苦労もしなかったわけではない。大変な作業はないとしても、何もしなくていい仕事なんか存在しない。  ひとつひとつの作業がどんなに僅かな手間だとしたって、塵も積もれば……は真実だ。  佐宗は多少の数字にきりきりするような性格ではないが、よく分からない理由で仕事を持っていかれて平気な顔をしているほど鈍感でもない。詳しい事情は言っていないが、どうせくだらない理由だと察しをつけているのだろう。  いくら上司とは言え俺のせいではないのはお互い分かっているが、誰かに当たりたければせいぜい俺に当たるしかないのだということもまた、お互い分かっている。  会社勤めをしていれば理不尽なことなど絶えず起こるし、どこかに正義というものがあったとしても、就業規則や契約書で明文化されていなければ、それは正義にはなりえない。  大人の社会なんてそんなもので、ズルをするのは悪いことだが、うまくやればズルでなくなる。それがいいことなのか悪いことか、そういうこととは別の次元で、会社組織というのは日々回るのだ。  面倒見のいい清水が不機嫌面の佐宗を一所懸命宥めている。喫煙所のガラスの向こうに見える二人を見やり、俺は大きな溜息を吐いた。  晴れて新妻となった保奈美がプロレスラーのようなパティシェの夫とフランスへ旅立って一ヶ月、佐宗は思いのほか元気だった。  もっとも、保奈美は佐宗の彼女ではないが、ある意味俺よりよほど通じ合っていたと思う。  男女の壁はあったにせよ、ほぼ誤解なく理解し合える間柄だったようだから、もっとへこむかと思っていた。そう言ったら、メールもSNSも無料のビデオ通話サービスも山ほどあるのに何言ってんです、と本気で不思議そうな顔をされた。  仕事でグループチャットを使い、web会議をするのは当然と思っていてもプライベートに直結しないあたり、俺も十分おじさんだということだろうか。まだまだ若い奴らには負けないぞ、とか言い出す日はそう遠くないのかもしれない。  それはさて置き、今のような状況では、生身の保奈美がいないことが結構痛い。  繊細そうに見えるが実は手ごわい佐宗の宥め役には意外に天然が向いている。そう思えば、保奈美ほど対佐宗に適したやつもいなかった。先輩だから斬って捨てられたりはしないだろうが、真面目で単純な清水に不機嫌な佐宗の相手はいささか荷が勝つ。  案の定清水はすごすごと自席に戻ってきて、佐宗は出先から直帰の予定でいつの間にか消えていた。 「おかえりなさい」  不機嫌とはかくあるべき、という顔でキッチンから顔を出した佐宗は、そうは言っても多少は腹の虫が収まったのか、昼間よりは大分マシな様子だった。 「ただいま──今日は戻ってこねえかと思ってた」  そう言いながらビジネスバッグと上着をソファに放り投げ、キッチンに向かう。後ろから腕を回してうなじに噛みつきながら言ったら、佐宗は「はあ」とか「ああ」とか曖昧な声を発して俯いた。  佐宗が越して来て数ヶ月。最初の六日で逃げ出した後は大分落ち着いて、自分の部屋に戻りたくなったときは事前にきちんと言って寄越すようになった。  俺と一緒にいるのが嫌なわけではなく、いっぱいいっぱいになってしまうのだという説明は、嘘でも言い訳でもないらしい。実際、佐宗が逃げ出すのは、イベントごとや、俺が佐宗を過剰に甘やかした後に限られていた。  今回の件が勃発する前日──つまり昨日、佐宗は久し振りに逃走していた。その前の日に出張から戻って来た俺がついつい構い過ぎたからだろう。 「……あんたのせいじゃないのは分かってますし」  佐宗はぼそぼそと呟いた。 「一人でいてもむかつくだけだし、それなら当たる相手がいたほうがいいでしょう」  慰めてもらうことなんか期待もしていない佐宗が俺は好きだ。  いくら恋人だからって、仕事と愛情は関係がない。俺はこいつの上司だから、基本的に慰めることなんか考えもしない。叱るか褒めるか、どちらかだ。  求められれば助言もする。求められなくても指導はする。だが、例え顧客に理不尽に怒鳴られようが、くだらない理由で案件を取り上げられようが、慰めることは絶対にしない。 「重いですからちょっと退いてくれませんか」  照れているのか本当に重いのか、佐宗が身を捩ったので素直に離れる。そういえばと思って手元に目をやると、佐宗の手元にはまな板と玉ねぎが置いてあった。 「包丁出しますから退いて」 「何か作ってくれんのか」 「食えるかどうかわかりませんけどね」  佐宗が真顔で答えるから、俺は思わず佐宗の取り出した包丁を取り上げた。 「俺が作るから座ってろ」 「お疲れの部長にそんな」 「棒読みじゃねえか! いいから行け! 疲れてるからまともなもんが食いてえんだよ」  佐宗はようやく頬を緩め、キッチンから出て行った。 「そんなくっだらねえ理由だったんですか」 「そんなくっだらねえ理由だったんだよ。分かってたろ」  溜息を吐いた佐宗は、俺の作った肉うどんを啜りながら器用に溜息を吐いた。 「分かってましたけど……想像以上のくだらなさっつーか」 「いくら娘可愛さって言ったってなあ」  俺は箸を置いて蓮華を手に取り、うどんの汁を啜りながら言った。 「それも、娘本人に──っていうならともかく、娘の彼氏だからな。それか自分の女が取引先だとか……まあどっちでも腹が立つのは変わんねえか」 「そうですね。公私混同って意味では、親子愛だろうが恋愛だろうが、一緒でしょ。あんたはそういうことしないから、そういうとこを尊敬してます」  佐宗は最後の麺をつるりと吸い込んでもぐもぐやりながら、何でもない顔でそう宣った。 「──佐宗」 「何です?」 「そういうことはしれっと言うくせに、あんなことくらいで逃げ出すんだからな、お前は」  にやつきながら言ったら、佐宗は僅かに狼狽えた様子を見せた後、俺を睨みつけてきた。  一昨日の晩、年に数度しかない海外出張から戻ってきた俺は、やりたい盛りの十代みたいに玄関先で佐宗を押し倒した。床の上で性急に抱いた後は無理矢理シャワーに連れ込んで弄り倒し、ベッドにたどり着いたときには佐宗はふらふらになっていた。  海外出張と言ったって一ヶ月も行っていたわけではない。ほんの一週間程度、そのくらいの出張なら今までも何度もあった。そのくらい離れたからって死ぬわけじゃあるまいし、我慢ができないわけでもない。  だが、その時は、保奈美との別れで──いくら本人が平気だと言おうが──落ち込んでいた佐宗をかわいそうに思う気持ちや、出張先で手に入れた土産物を渡したくて逸る気持ちが箍を外してしまったのではないかと思う。 「や──嘉瀬さ……も、無理ってっ」 「何言ってんだ、このくらいで弱音吐くな。そんなんじゃ次の四半期乗り切れねえぞ」 「あぁっ、ん、仕事じゃないんだから……っ」  眉間に深い皺を寄せ、それでも俺を受け入れ身悶える佐宗が可愛かったからつい無茶をした。奥まで突き入れ揺さぶって、佐宗がほとんど意味のある言葉を吐けなくなるまで、耳元で好きだ愛してると囁きながら抱き締めた。  おかげさまで佐宗は「色んな意味であんたでいっぱいいっぱいだから明日は自宅に戻ります!」と眦を吊り上げて宣言した。 「土産が──」 「これ以上あんたからは何ももらえませんもう無理!」  必死の形相で浴室に逃げて行ったので、なんだか苛めている気分になって見逃してやったのだ。 「もう受け取れるか?」 「何がです?」 「だから、土産だよ。一昨日はもう無理って言ったろ」 「はあ……まあ、頂けるもんなら頂きますけど」 「そうか」  俺は一旦席を立ち、ビジネスバッグの中に入れっぱなしだった袋を取り出した。小さな黒い巾着袋を見た佐宗は不思議そうな顔をした。多分、土産というからには菓子の箱とか缶詰とか、せいぜいTシャツとかそういうものを想像していたのだろう。 「何ですか」  受け取り袋の中を見た佐宗は、数秒そのまま固まって、袋を放り出して椅子の上で後退った。 「ちょ……っ、部長!?」 「放り投げんなよな。一応それなりに高かったんだぞ」  箱に入れてもらうのは控えたが、その辺の適当な店で買ったものではない。 「いやいや、え? 値段じゃなくて、土産!?」  袋を摘み上げ、掌の上で逆さにする。掌の上に多少内径が違う揃いの金属の輪っかが落ちてきた。俺は大きい径のものを取ってテーブルに置き、小さい方を指先で摘んだ。 「……キーリング……だったりして……?」 「んなわけねえだろうが」  佐宗は目に見えて青くなり、椅子の上で益々縮こまった。 「嵌めて欲しい、とは言わねえよ」  そう言って俺が差し出したシンプルなプラチナの指輪を佐宗はまるで爆発物のように睨みつける。指輪は危険物ではないが、佐宗があんまり睨むからその熱量で発火しそうだ、なんて馬鹿なことを考えた。 「そんなの無理だって分かってるし、俺だってできない。だから、お前が嵌めないことで何か言ったりしねえし、俺も言われても困る。な? つーか、そもそも嵌める前提じゃねえからサイズが合うかどうか分かんねえ」  最後の部分だけは嘘っぱちだったが、そこまで聞いたらようやく佐宗の顔の強張りが微かに緩んだ。  テーブルの上で硬く握り締められた佐宗の手を取って無理矢理こじ開ける。まったく、何だってこんなにがっちり握ってやがるんだか。 「俺は公私混同もできねえ男だ。お前は尊敬してくれるかもしれねえけど、それが正しいのかどうか分からない」  佐宗は、僅かに目尻が吊り上がった猫のような目を瞬いた。 「お前がいくら大事でも、俺は上司であることを優先する。だから、二人で指輪を嵌めてオープンにしようぜ、って言う気はねえし、それを不誠実だとも思わない。恋人失格かもしれねえけど、それでもそうすべきだと思うから」  一度開いたら開いたまま動かせなくなってしまったような佐宗の掌に指輪を落とした。こんなもので縛れるとも、安心してもらえるとも思わない。それでも、一緒に暮らし始めた今でも多分、俺がいつか飽きると思って身構えている佐宗に何かを渡したかった。 「それでも許してくれるか」  指輪を押し付けるように掌を合わせ、俺は、佐宗の手を握り締めた。 「佐宗、お前が俺に飽きるまで、一緒にいてくれ」  まるで子供の号泣みたいだ、と思った。  佐宗は俺に手を掴まれたまま、テーブルに突っ伏してわあわあ声を上げて泣いた。大人の男としては酷く拙いその泣き方は、佐宗があまり泣かない人間だと言うことを如実に表すものに思えた。  肉うどんの丼を間に挟んで、駄々っ子みたいに泣き喚く部下を前にして、ムードもへったくれも何もない。  それでも俺はその瞬間、地球上の生きとし生けるものすべての中で一番幸福な男だった。  神様でも悪魔でも、うちの会社の社長でも。  俺から取り上げることはできないだろう。  この、幻のように美しく、幻ではありえない幸福な気持ちを。  
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