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「た、だ、い、まー!」  突然重たいものが腹の上にどっかり乗っかってきた。  俺は勢いよく跳ね起きかけ、圧し掛かってきたその重さに負けて仰向けにぶっ倒れた。 「何だ!?」 「高橋、ただいま戻りましたあ!」  深夜の寝室には場違いにはきはきした声が響いた。暗くて何も見えないが、酒と煙草と食い物屋の匂いがする。  半分寝惚けたままベッドサイドに手を伸ばしてライトを点ける。間接照明でも寝起きの目には突き刺さるように感じられ、俺は目を瞬いた。 「佐宗(さそう)……?」 「はーい」  元気な返事ではあるが、答えた本人は結構くたびれた様子だった。  俺の腹の上に跨ってマウントポジションを取っている部下の様子を描写するとこうだ。腕は体の脇に垂れ、首はがっくり前に倒れていて、前髪が顔を隠している。細身の身体に合った細身のスーツは濃紺、ワイシャツは白、ネクタイはプラチナホワイトとロイヤルブルーのレジメンタルで、若干右に傾いている。  ネクタイが曲がっている以外は、今朝見たのと、会社で見たのと、帰るときに見たのと同じ格好だ。  今時の若い会社員としてはごく標準的なスタイルの髪は、酔っ払って弄ったせいかところどころ飛び跳ねていた。 「おい、重てえぞ」 「失礼ですね。俺が太ったって言いたいんですか、あんたは」  折れた枝みたいに首を前に曲げたまま、佐宗は言った。 「そういう意味じゃねえよ。胃の真上に乗っかんな」 「うるさいなあもう」 「お前どんだけ飲んだんだよ?」  俺が肘をついて上体を無理矢理起こすと、佐宗はその姿勢のまま漫画の描写のように真横に倒れた。まるで置物を倒したような見事な横倒しだが、まあ、倒れた場所がベッドだから頭を打ったところで問題はない。 「おい、大丈夫か」  倒れたまま動かない佐宗の横へ移動し、肩を掴んで身体を仰向ける。目を瞑ってはいるが眠り込んではいないらしい酔っ払いは、口の中で何やらもごもご言っていた。  今日、佐宗は大学時代の友人たちと飲み会だったはずだ。海外赴任になった奴が数年ぶりに帰国するとかで、懐かしい面子が集まるから遅くなるかもとは言っていた。  ベッドサイドの時計に目をやると、表示は午前三時ちょっとすぎ。確かに、この時間まで飲んでいれば酔っ払いもするだろう。 「ほら、とりあえず起きて歯だけ磨け」 「んー」  操り人形のように引っ張り上げられた佐宗は上体を斜めにしたまま正座して、ようやく目を開け俺を見た。 「かせさん」  酔っ払い特有の甘ったれた口調で名前を呼ばれた。ただそれだけのことでどれだけ俺が動揺するかなんて、こいつは知らない。多分想像もしていない。 「──何だ」 「ただいま」 「……お帰り」  短時間で二度も耳にした稀少な挨拶に、俺はだらしなく脂下がった。  佐宗と同居し始めて数ヶ月。佐宗はなかなか「ただいま」と言おうとしない。俺に対して「お帰りなさい」とは言うくせに。  結局自分の家ではないと思っているからなのか、未だに照れくさいだけなのか。問い詰めてはいないから本当のところは分からない。 「嘉瀬(かせ)さん」 「ん?」  唐突に身体を真っ直ぐにした佐宗は、真正面から俺をじっと見た。 「友達が、結婚すんですって」 「そうか、よかったな」 「はい、よかったですよねえ。それで、俺は全然羨ましくなんかなかったです!」  きつい目を潤ませて──酔っ払いだからだ──佐宗は決然とした顔で宣言した。 「指輪もらいましたしね!」 「うん。ふうん?」 「何ですか、うんふうんって」 「何ですかって何だ」 「あんたは意地悪だ」  むう、と口を尖らせ子供みたいな顔をした佐宗は、正座を崩して脚を伸ばした。伸ばした脚で俺の脛を何度も蹴っ飛ばす。もっとも、佐宗の蹴りには毒舌とは違って破壊力がまるでないので、好きなように蹴らせておいたが。 「羨ましくなんかないんですけどー!」 「……結婚して子供が欲しいのか?」  蹴ると言うよりじたばたしているとしか思えない脚を押さえ、努めて冷静に訊ねてみる。佐宗は半分閉じた瞼を重たそうに開き、へ? と間抜けな声で答えて寄越した。 「何ですって? どこのお子さんの話です?」 「まったく、酔っ払いめ。いいから歯を磨け、高橋!」  高橋呼びがきいたのか、佐宗は悪態をついて跳ね起きた。ぶつくさ文句を言いながらもよろよろとバスルームに消える佐宗を見送って、俺は起き上がって煙草を銜えた。  佐宗に指輪を渡したのはつい数週間前の話だ。佐宗は子供みたいに号泣し、俺が食器を片付けている間に寝室に引っ込んで眠っていた。翌朝以降はいつもの佐宗で、あれ以来指輪のことは特に話題に上らない。  ちなみに、指輪は俺が買って来たときの袋に戻して寝室の飾り棚の上に置いてある。俺は佐宗より背が高いから目に入るが、多分佐宗からは見えない位置だ。  なかったことにされたわけではないのは分かっているから、別に何も言っていない。どれだけ喜んでくれたとしても、だからと言って何かが変わったわけではないからだ。  暫しの後、歯磨きのついでに洗顔も済ませたらしい部下が湿った前髪を払いながらよたよたと戻って来た。さっきよりは少しマシな顔をしているものの、当然ながらその程度でアルコールが抜けるわけがない。 「スーツちゃんと脱げよ。そのまま寝ると皺になるからな」 「俺も嘉瀬さんと結婚できたらよかったのになあ」  曲がったネクタイを引っ張りながら、佐宗はそう言ってベッドの端に腰を下ろした。  喜ぶべき台詞なのかもしれないが、さっきの子供のことといい、俺にとっては地雷に近い。俺が佐宗に与えてやれないいくつものもの。どんなに必死に働いても金を稼いでも、買ってやれないものがたくさんある。いつか佐宗がそれを求めたら、俺はこの手を離してやらなければいけないのだ。  怯えるあまり何も言えない俺を見上げて佐宗はゆっくり瞬きし、眠たげな眼を引き抜いたネクタイに向けて眉間に皺を寄せた。 「そしたらあんたは簡単に俺を捨てられなくなるでしょう? もういらないって言いづらくなるでしょう」 「──絶対にいらなくなんかならねえよ」 「何言ってんです。永遠も絶対も幻なんですよ。俺たちは神でも悪魔でもないんだから」  酔っ払いのくせにひどく分別くさい台詞を吐き出して、佐宗はネクタイを床に放ってワイシャツのボタンを外し始めた。 「……法律で認められた何かで縛られねえと、お前はずっと安心できねえのか?」  佐宗の膝の間に立って見下ろした。頭のてっぺんに見慣れた旋毛。ちょっと乱れた髪を撫でて膝をつき、佐宗の手を退けてボタンを外してやった。 「違いますよ」  どこか焦点を失ったような佐宗の目が俺を見下ろす。その顔は幼いようにも老成しているようにも見えて戸惑った。 「あんたは俺の一番大事なものだから、かけられる保険は全部かけたいだけ。でも、保証がなくたって構いません。俺だってたまにはリスクのある契約に手を出すんです」  仕事の話とごっちゃになっているんじゃなかろうか。そう疑いたくなることを一気に言って、佐宗は俺の頭を抱き締めた。 「指輪すげえ嬉しかったです。ほんとは嵌めたいけど、我慢します」 「そうなのか」 「そうなんです。あんたをぎゅうぎゅうに縛って部屋に閉じ込めときたいけど、それも我慢します今日のところは」 「……何で寝ながら言うんだよ、そういうことを」  言うだけ言って唐突に寝落ちした佐宗の寝息が頬に触れる。  残りの服を脱がせてTシャツとボクサーパンツだけにして、ベッドの上に転がした。佐宗のスーツを片付けて戻り、佐宗の背中を抱き寄せて明かりを消す。暗くなった部屋の中、腕の中に感じるあたたかさに不覚にも泣き出しそうになった。  佐宗は「ぶー」だか「ぷー」だかよくわからない音を出して寝返りを打ち、俺の顎の下に旋毛をぐりぐり擦りつけ、満足そうな溜息を吐いた。  煙草と食い物の匂いがする髪の毛に鼻を突っ込んで、ありきたりな愛の言葉を何度も囁く。しかし、独創性がないからと言って心が籠っていないわけでは断じてない。 「部長」  顎の下から佐宗の掠れた声がする。 「──和紀(かずき)さん」  今度こそ本当に泣いてしまったが、誰も見ていなかったのだから問題ない。  
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