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「お前、帰れ」  きっぱりと宣告すると、佐宗(さそう)はこれ以上ないくらい不満げに眉を寄せた。 「大丈夫です」 「勘違いすんな、業務命令だ。帰れ」  目の前に立った佐宗を下から睨みながら、ボールペンでスチールデスクの天板を叩く。イラついた時の俺の癖に里中が首を竦めるのが目の端に入るが、どうでもいい。こつこつと机を叩きながら、俺は敢えてゆっくりと言葉を押し出した。 「お前が大丈夫だろうがそうじゃなかろうが俺は知らねえ。とにかく、他の奴らにうつされたら迷惑だっつってんだ。意味分かるか、佐宗」 「──はい」  不承不承頷く佐宗の顔は熱っぽい。涙眼になっているのも、俺のせいではなく十中八九熱のせいだ。 「さっさと帰れ、馬鹿」  吐き捨てると、佐宗の顔がゆっくりと歪む。伸びた手が、ボールペンごと俺の手を机の上に押さえつけ、熱で潤んだ目が攻撃的に俺の顔を睨みつけた。 「ではお言葉に甘えてさっさと帰らせて頂きますが、その癖止めて下さい部長。苛々して熱が上がります」 「……元気じゃねえか」 「だから大丈夫だっつってんでしょうが。お先に失礼致します」  嫌味なくらい綺麗なお辞儀をすると、佐宗はくるりと背を向けた。  ここのところ社内で風邪が流行っている。この間は保奈美が倒れ、三日休んでやつれたが痩せて嬉しいとアホな事を言って出てきたばかりだ。俺を含めて皆それなりに調子を崩し、誰かが治れば誰かが罹ると言った具合で、今度は佐宗の番なのだろう。滅多に病気をしない佐宗も今回は辛そうで、今日は朝からしきりと咳をしていた。  打ち合わせを外したくなかったのはよく分かるが、客先に風邪をばら撒くわけにはいかない。佐宗が無理をして寝込んでも何日か休めば済むが、誰かにうつして帰ってきたら事だった。 「佐宗、怒ってましたねえ」  沖田が俺の横に来て、書類を未決の箱に突っ込みながらそう呟く。 「仕事馬鹿だからな。しかしあれで向こうに風邪流行らせてみろ、山本物産だぞ。あそこの社長は何かっつーとうるせえからな」 「あのヨボヨボの爺さんですか? 佐宗のこと気に入ってるからつっかかんでしょ?」 「多分な。佐宗が気に入られんのは構わねえが、何だかんだ理由つけて値切ってくるからな」  沖田の入れた書類を取り出し、捲って日付印を押していく。沖田は処理済の書類を受け取りながら、そうですねえ、と呑気な声を出した。 「まあ、確かにうつされたら困りますからねえ。俺は嘉瀬(かせ)さんのいうことが正しいと思うし、佐宗も多分分かってると思いますけど」  沖田は一重の目で俺を見て、肩を竦めた。 「分かってるから腹立つんでしょうね」 「……だろうな」  溜息を吐いた俺の手から最後の書類を抜き取ると、沖田は自席へ戻って行った。  本当のことを言えば、佐宗を帰した理由は、それだけではない。周囲にうつされては困るというのは勿論嘘偽りなく第一の理由だが、言ってしまえば続きがある。  要するに、心配だったのだ。  佐宗が怒ったのはそれを感じ取ったからだろうし、何故か後ろめたいような気がするから俺の態度も悪くなる。そうすると比例して佐宗の態度も硬化する。まさにそういう状態で帰った佐宗を見舞ったところで喜ばれるはずもないが、だからと言って放って置くのも気がかりだった。  まったく、重病でもあるまいし。  たかが風邪だと思いはするし、心配している自分が酷く滑稽だ。それでも気付けば佐宗のアパートの前でタクシーを降り、何故か妙に重たい足を引き摺るようにして部屋の前までたどり着く。そんなに気が重いなら帰ればいいのに、俺は一体ここで何をしたいのか。 「……何してんです、あんた」  ドアの前に突っ立っていると、何故か背後から佐宗の声がした。 「……お前こそ、何してんだ」 「買い物です。食うものなくて」  佐宗は具合の悪そうな顔をして、スーパーのビニール袋をぶら下げて立っていた。 「お前は馬鹿か、佐宗」 「あんたは俺の熱を上げたいんですか? どうせ馬鹿なのに風邪を引いた馬鹿ですよ俺は。退いて下さい、あんたでかくて邪魔なんですから」  俺を押し退けるようにして、佐宗は部屋の鍵を開けた。黙って立っていると、ドアを閉めずに家の中に入った佐宗は振り返って眉を寄せる。 「何してんですか、部長。うちは安アパートだから自動ドアじゃないんですよ」  不機嫌な佐宗の台詞に、俺は思わず苦笑した。  のろのろと台所に立つ佐宗を無理矢理ソファに追いやって、俺は何故か雑炊を作る羽目になった。勿論佐宗が作れと言ったわけではないが、電池の切れかけた人形のような動きを見ていて手を出したくならない奴はいないだろう。何せ鍋を棚から取り出すだけで普段の推定三倍の時間がかかるのだ。 「嘉瀬さん」 「あぁ?」 「野菜室にしめじがあります」 「──しめじが食いてえのか?」 「いや、そろそろ食わないと駄目になるんで入れて下さい」 「……」 「あと、煙草吸いながら俺の雑炊作るのは止めて下さい。灰が入るじゃないですか」 「うるせえなあお前は! 黙って寝てろ!」 「あんたのほうがうるさいですよ、大声出さないで下さい」  構わないでいると、そのうち声が聞こえなくなった。振り返ると、佐宗は眼を閉じ、ソファの上で浅い寝息を立てている。台所からぼんやり寝顔を眺めながら、長くなった灰をシンクの中で払った。  どうしたらうまく言葉に出来るのか、分からない。  佐宗を抱いてからこっち、段々とのっぴきならない事態に陥っている気がする。惚れろ惚れろと言いながら惚れているのは結局自分なのだということは分かっているが、相手は部下で、よりにもよって同性だった。 「佐宗」 「──はい」  肩を押すと、佐宗は何度か瞬きして眼を開けた。熱は幾らか下がったのか、会社で見た時より少しましな顔をしている。起き上がってソファに腰掛けた佐宗の前のテーブルに、雑炊とスプーンを置いた。 「飯だ飯。食って薬飲んで寝ろ」 「はぁ」 「何だ、間抜けな声出してんじゃねえよ」 「嘉瀬さん──何しに来たんです」  見上げる佐宗の潤んだ目は、熱のせいだと分かっている。疑う余地のないその理由に、それでも何かを期待する自分は底なしの馬鹿だった。 「お前の顔見に」 「会社で毎日見てるでしょうが。今日もあんたに追い返されるまでずっとつき合わせてたでしょう」 「いいから食えよ」 「食いますけど」 「佐宗」  スプーンに伸びた指を掴み、掌に指を這わす。ゆっくりとこちらに向けられる視線を受け止めながら腰を屈めて口付けた。熱のせいか乾いた佐宗の口内が、舌を絡めるうち徐々に濡れていく。女に挿れているようだと下世話なことを連想し、佐宗を抱きたいと切実に思う。佐宗が俺の手を振り払って腕を伸ばし、捲くったワイシャツの袖を握って引っ張り寄せた。 「──どっちなんでしょうね」 「ああ?」 「熱ある時にセックスすると、身体にいいのか悪いのか」 「……悪いんじゃねえのか」 「そうですねえ」  笑い出した佐宗の頭を軽く叩き、俺は屈めた身体を元に戻した。 「さっさと食えって言ってんだろうが。俺に作らせておいて残したら世界中の女が抗議の電話かけてくるぞ」 「そりゃどうも」  佐宗はスプーンを手に取り、黙々と雑炊を口に運ぶ。視線を感じたのかこちらを向くと、美味いですよ、と大して美味くもなさそうに呟いた。 「なあ、佐宗」 「何ですか」  スプーンを口に突っ込んだまま佐宗は気のない返事をする。 「俺に惚れろよ」  俺は馬鹿だ、と頭の中で同じ言葉が何度も回る。だが、今更引き返せない。 「俺がお前に惚れてるのと同じくらい俺に惚れてくれ」  一瞬噛むのをやめた佐宗の視線が雑炊に落とされる。今の佐宗のように景気悪くぐったりしたしめじに数秒留まって、視線は俺の顔の上に戻ってきた。 「それがどのくらいか、俺はどうすりゃ量れるんです?」  冷静な低い声は、いつもの佐宗と変わらない。 「意地の悪いこと訊くんじゃねえよ」 「──いいですよ」  佐宗は面白くなさそうにそう言って、スプーンでしめじを掬って口に入れた。窓の外から、どこかの家のテレビの音が聞こえてくる。 「あんたが無条件完全降伏するなら、考えてみないこともない」 「……まったく」  思わず呻いた俺を見上げ、佐宗は不意に食うのをやめた。スプーンを置いて立ち上がり、佐宗は俺との間合いを詰める。一見不機嫌そうに俺のネクタイを引っ張るのは、その気になっている時のこいつの癖だ。熱で潤んだきつい目に、僅かばかり、違う熱を見たのは幻か。  まるで子供を抱くように佐宗を抱き締めたまま、俺は静かにソファに腰を下ろす。 「嘉瀬さん──?」  怪訝そうな佐宗の声は、熱のせいか掠れていた。どうしようもなく抱きたいが、今はその時ではない気がした。腕の中の佐宗は弱くもなければ儚くもなく、俺が守らなくても一人で立派に立っていられるが、それでも。 「……まあ、いいさ。全部お前に売り渡す。その代わり俺以外見るんじゃねえ」  佐宗はあんたは悪魔だと低い声で呟いて、発熱で疲れたのか溜息を吐く。  俺に言わせれば、一体どちらが悪魔なんだか分かりはしない。  解き方を忘れたように絡んだままの俺の腕の中で、佐宗はそのうち眼を閉じて、いつの間にか眠っていた。
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