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 嘉瀬(かせ)さんは、いつもと変わらない笑みを浮かべて俺を見下ろす。  遥か高みから、俺にない何かを持った傲慢な君主は御旗の下に号令を下す。  俺を見ろ、手を差し伸べて求めろと。  思うとおりになると思うな。  上半身剥き出しで頬杖をつき、銜え煙草で微笑む顔。  世の中の大半の女性がうっとりと小鼻を膨らませそうな我が上司は、女性の横ではなくて、今は俺の横にいた。  寝癖のついた乱れた髪が額にかかり、そうでなくても垂れ流し気味の色気の流出に更に拍車を掛けている。 「よく寝るな、お前」 「あんたが加減を知らないからです。鈴鹿八耐セックスですか、勘弁して下さい」 「いくら何でも八時間続けりゃ俺が死ぬ」 「例えです、例え」 「一般的な例えにしろよ」  俺はベッドから這い出ると、シャワーを浴びるべく立ち上がった。 「風呂借ります」 「どうぞ」 「腹も減りました」  振り返って宣告すると、嘉瀬さんは面倒くさそうに顔をしかめる。 「はいはい。朝から人使いが荒い部下だよ、まったく」 「冗談じゃないですよ。飯も食わせないで部下に飛び掛った鬼上司はどこの誰です」 「俺か?」 「他にいないでしょうが、まったく」  文句を言いながら俺は寝室を出て風呂場に向かう。まったく、どうしようもない。  嘉瀬さんと寝てしまったことについて、一度目は成り行きと酔いのせいだと言い訳できるが、二度目の今回は流石にそうもいかないことは分かっている。嘉瀬さんがどう思っているかは知らないし、知ったところで何の慰めにもならないけれど。  昨日は金曜、丁度あれから一週間だった。俺はあれから何となく二人になるのを避けていて、昨日も嘉瀬さんが帰った後に会社を出た。ところがいざ行ってみれば、エレベーターの前にその後姿があったのだ。 「おう、お疲れさん」  待ち伏せられたなどと自惚れはしないけれど、何となく溜息が出る。嘉瀬さんは俺の心中を知ってか知らずか、いつもどおり、「景気悪い面してんじゃねえよ、金曜だろうが!」と俺の背中に膝蹴りをくれた。 「痛っ! 止めてください、暴力部長。エレベーター来ましたよ」  嘉瀬さんは操作パネルの前の俺の背後に無言で立っていて、十七階を通過したあたりで低い静かな声を出した。 「佐宗(さそう)」 「何ですか」 「お前これからうちに来ねえか」 「何でですか」 「何でだと思う?」  たまたま帰りが一緒になってしまったのが不運というか何と言うか。嘉瀬さんにとってはただの遊びで二度目はないに違いないと思っていながら、どこかでこうなる気がしていたのも事実だった。それでもほいほいついていくほど俺は素直でもないし従順でもない。更に言えば女でもない。 「──さあ? 嘉瀬さんの考えることは高尚すぎて俺には理解できかねますね」 「口が減らねえな。そんなんだから山本物産のジジイにつっかかられんだよ」 「俺がいい男だから目障りなんでしょ。あの人深海魚そっくりじゃないですか」 「……俺は時々お前の人間性を疑うぜ。次の評価で書いておいてやろうか、慇懃無礼って」 「どうぞご自由に、ボス」  無駄話をしているうちにエレベーターは地上に着いた。そのまま仕事の話になり、俺はうっかり嘉瀬さんと肩を並べて保奈美ちゃんのクライアントの話をしてしまう。結局気がついたら嘉瀬さんのマンションのエレベーターに乗っていて、腰が抜けるようなキスをされていた。  その結果嘉瀬さんの高そうなマンションの風呂場で、嘉瀬さんの彼女だか何だか知らない誰かが置いていったと思われるいい匂いの石鹸で身体を洗ったりしているのだから、まったくどうしようもないのは俺なのだ。 「何か予定あんのか、今日」  嘉瀬さんは新聞を広げて、顔も上げずに俺に訊く。用意してくれた朝飯は意外に美味い。なるほど、女が山ほど寄ってくるわけだ。 「別にないですが」 「へえ」 「何ですか、人に質問しといてその反応は」 「お前のそういうとこ好きなんだよ、俺」  嘉瀬さんは顔を上げてにやりと笑う。そんなことで喜んだりしませんよ俺は。お生憎様。 「食ったら帰ります」 「何で?」 「用事は済んだじゃないですか」  分かりきったことを訊くなと思いながら俺は答えたが、嘉瀬さんはゆっくりと顔を上げ、首を傾げた。 「用事って何だ」 「セックス」 「……」  嘉瀬さんは顔をしかめ、舌打ちしてがりがりと頭を掻いた。煙草の箱を引き寄せて一本銜え、火をつけずにそのまま穂先をぶらぶらさせて黙り込む。  一度抱かれたからって恋人になるわけじゃない。男同士だから尚更だ。別に今まで通りの関係で不自由ないし、それでいいのだと俺は思う。嘉瀬さんを、嫌いじゃない。上司としては尊敬もするし男として憧れもする。  このまま続ければ、いつか俺はこの人が欲しくなって足掻くに決まっている。 「だから帰りますよ」 「佐宗、あのなぁ」 「お説教は会社だけにして下さいよ。あんたが老若男女何人とどうしようが知ったこっちゃありませんが、俺はこれで帰ります。やり足りないなら別のお相手にご足労願えばいいじゃないですか。呼べば何人でも来るでしょう」 「……高橋」  低い声で呼ばれて俺は、箸を置いて凍りつく。嘉瀬さんの顔を見られず食器を流しに運ぶべく、ぎくしゃくと立ち上がった。  保奈美ちゃんも俺も苗字が同じで高橋だ。だから皆俺達を名前で呼ぶが、嘉瀬さんが俺を苗字で呼ぶのは酷くご立腹の時と決まっていた。一体何が逆鱗に触れたのかよく分からないが触らぬ神に祟りなし。  折角無視しているのに、嘉瀬さんは静かに立ち上がると大股で近寄ってきた。食器を置いた俺に無言で詰め寄る。 「……嘉瀬さん、近すぎます」 「不満か?」 「いいえ、ご尊顔を間近で拝めるのは光栄ですが、近すぎて焦点が合わないもんで」  本当に、近すぎてよく見えない。分かっているだろうにその顔を更に近づけ、嘉瀬さんはそのまま前に進んでくる。その場合当然俺は下がるしかなく、一歩、また一歩と前線は後退して終には背中が壁に当たった。  俺は下がれないが嘉瀬さんは進む。そういうわけで、上から下まで隙間なく密着して、仕舞いには顔は視界の外に消えた。壁に押し付けた肘から下の腕で俺の顔を挟むようにして、嘉瀬さんは立っている。俺の頬に嘉瀬さんの息がかかる。囁くだけでも聞こえる距離で、それでも嘉瀬さんはしっかりとした声を出した。 「高橋、てめえ、人の話をちゃんと聞かねえと痛い目見るって何度言えばその鳥頭に入力されんだ、ええ?」  もうこうなったらヤクザとまったく変わらない。 「すいませんね、馬鹿で」  言った途端に物凄い勢いで拳が壁に叩きつけられ、馬鹿でかい音と振動に流石に俺も飛び上がる。木造モルタル二階建てなら隣にさぞや響くだろうが、ここは幸い鉄筋だ。  思わず見上げた嘉瀬さんの整った顔には表情がなかった。寝癖のついた頭が笑いを誘うどころか恐ろしい。 「誰も呼ばねえよ」  嘉瀬さんは顔を背け、火のついていない煙草を床に吐き捨てた。白いそれを視線で追う。フィルターが噛み潰されて、何だか犬のおもちゃのようだ。 「俺に惚れろって、言ったろ」  そんなの、女の子を抱きながら君は綺麗だ愛してるって言うのと同じじゃないか。あんたほんとは馬鹿なのか。  言わなかったが顔に出てしまったに違いない。嘉瀬さんは眉を上げ、短く唸る。 「遊びなら遊びってはっきり言うんだよ、俺は。惚れろっつったら惚れろってことじゃねえか」 「……あんたほんとは馬鹿なんじゃねーの」  さっき思ったとおりのことを声に出して呟くと、嘉瀬さんは再度、舌打ちをした。 「俺に惚れろよ、佐宗」 「誰があんたなんかに。冗談も大概にしたほうがいいですよ、嘉瀬部長」  嘉瀬さんと壁に挟まれて、憎まれ口をきく以外俺に出来ることなどひとつもない。何人に同じことを言ってきたんだか、真面目に取るほうが馬鹿を見るに決まっている。 「冗談なら笑えるか?」 「ちっとも」 「優しく抱いたら惚れるのか?」 「いいえ、俺は女じゃありませんから」 「じゃあ一体どうすりゃいいんだ」 「あんたが死ぬほど俺に惚れたら、考えてやってもいい」  俺が容易くあんたの思うとおりになると思うな。  一瞬黙って、弾けるように笑い出した嘉瀬さんは俺の腰に手を回す。まさか朝っぱらからはないだろうと思った俺が甘かった。床の上で俺を抱きながら囁く嘉瀬さんの声も甘かった。 「こら佐宗もっと脚開け。目ぇ開けろ。足りねえだろ、こんなんじゃ」 「鬼ですか、あんたは……」  半分泣きながら文句を言ったら、嘉瀬さんは酷く嬉しそうに唇の端を吊り上げた。  やっぱりこの人は、悪魔か何かに違いない。俺を惑わせ奈落の底に突き落とす。絶対に思い通りに惚れてなどやるものか。捕まるのは俺ではなくてあんたのほうだ。  下腹を嘉瀬さんに擦りつけ、呻きを漏らして仰け反った。背中を支える嘉瀬さんの手。その手が僅かに震えていたのは、強烈な悦楽が見せた幻なのかも知れなかった。
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