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 一体、どんな男と寝たんだろうか。  嘉瀬(かせ)さんの顔を見て、俺は何となくそう思った。  嘉瀬さんの付き合っていた女性なら何人か知っている。どれもこれも見た目は上等、はっきり言って男なら誰でも押し倒したいと思うような女性ばかりが揃っていた。よく言うふるいつきたくなる美人、というやつだ。そんなふうに女に不自由していない嘉瀬さんが俺の前に三回男と寝たと言っても、どうにも想像がつき難い。 「嘉瀬さん」 「何だよ」 「三回って一人の男とやった回数ですか。それとも三人ってことですか」  確かに唐突な質問に嘉瀬さんが口を開けてそのまま静止し、俺はそれが可笑しくて吹き出した。 「なんつー顔してんですか」 「……佐宗(さそう)、お前は何でこういうときにそういう質問をするんだよ。萎えそうになったじゃねえか」 「別に俺は構いません。盛大に萎えて下さい、大歓迎です。大体あんた男のケツに突っ込むにはでかすぎます。いや、サイズは普通なのかも知れませんけど、俺の尻の穴は心と同じで狭いんで」  八割がた脱がされているし、嘉瀬さんも半分以上脱いでいる。天井のダウンライトが点いたままで、嘉瀬さんの表情はオレンジがかっているが良く見える。だが内心と、記憶までは外側からは窺い知れない。気を取り直したのか嘉瀬さんの手はまた俺の身体の上に戻ってきた。 「込み入った話は後でな」 「今教えてくださいよ、気になって勃ちません」 「大丈夫だ、心配すんな。幾らでも勃たせてやる。勘弁してくれって泣いて頼むまで可愛がってやるから安心しろ」 「まったく安心できません。寧ろ迷惑です」 「お前うるせえよ」 「それは失礼しました。部長はとっくにご存知と思っておりました」  嘉瀬さんは本当にうるさそうに顔をしかめ、俺の顔を見下ろした。嘉瀬さんの左手首の時計が俺の脇腹に触れている。金属の感触に俺は身じろぎし、嘉瀬さんは端正な顔を歪めて髪の毛を右手で苛立たしげに掻き毟った。 「じゃあ俺も聞くが、何で今なんだ? やりたくねえなら脱がす前にはっきり言え」 「言ったって突っ込むくせに、よく言うよ」 「一応考えるくらいするぞ、俺だって」 「一応ですか」 「一応な」 「言うだけ無駄ってことですか」 「それだけやりてえってことだろうが。喜べよ」 「あんたほんとに俺の喜ぶツボを知らないですね」 「おお、悪かったな」  言っていることは漫才だが、やっていることは成人指定だ。無駄口で俺を煙に巻きながら、嘉瀬さんの指と唇は結局好き放題、諌めるものはとりあえず誰もいなかった。 「嘉瀬、お前馬鹿か!?」  第一応接から響いたと思しき大声に、その場の人間の身体が一瞬綺麗に停止する。第二営業部員のうちたまたま自席にいた四名は素晴らしいチームワークで仕事を放り出し、すりガラスの嵌ったドアに群がった。  この会社の応接は、エレベーターホールからガラス戸を抜け、受付を通った奥にある。社員のデスクが並ぶオフィス部分と応接が並ぶ部分はドアで仕切られ、受付の斉木さんが社員を内線で呼び出す仕組みとなってる。だから当然、嘉瀬さんの客が誰なのか部員は誰も知らなかったし、こうやってドアにへばりついてみても、ドアを二枚隔てた応接内部を透視出来るわけもない。 「嘉瀬さんを怒鳴ってる~」  保奈美ちゃんが細い指を祈るように胸の前で組み合わせ、振り返った。 「一体どんな怖いお客さんが来てるんですかぁ、里中さん!!」 「第二の良心」こと二児のパパの里中さんも、保奈美ちゃんに劣らず細い首を頻りと傾げ、セルフレームの眼鏡の奥で何度も瞬きを繰り返す。 「最近クレームとかもないしねえ。佐宗くん何か知らないの」 「知りませんよ」 「そうですよ、里中さん! 佐宗さんがああいう人を知ってたら放っておくはずがありません! きっとうちに引っ張ってきてます! ねえ、沖田さん」  俺が配置換えになると予想して外した沖田さんは、手に持ったままの書類で顔を扇ぎながらのんびり返す。 「保奈美ちゃん、佐宗は人事じゃないんだから」 「だってー」 「でもまあ確かに、佐宗が嘉瀬さんの苦手なもの見逃すわけないわな」 「沖田さん、俺はいじめっこじゃありませんよ」  ドアの前でわいわいやっていると、急にドアが開かれて、保奈美ちゃんがたたらを踏む。そこには受付嬢である斉木さんが立っていて、呆れた顔をして俺たち四人を見下ろした。 「もう、第二はこれだから!」 「えへへ」  気弱に笑う里中さんに肩を竦め、社内一美人でオトコマエな斉木さんは俺に向かって顎を振る。皆の視線がいきなり俺に集中した。 「高橋君、ボスが呼んでるわ」  応接の中は、思っていたほど悪い雰囲気というわけでもなく、俺は僅かに拍子抜けした。勿論客の前で暴れる部長を取り押さえるなんて間抜けな役回りになりたくないのは当たり前だから、結果としては良かったが。  窓から差し込む明るい光が、控えめに飾られた観葉植物の葉を透かしている。低いテーブルに出されたコーヒーカップは客のものはすっかり空で、嘉瀬さんのほうは少しも減っていなかった。  名刺入れの準備も万端、上司の失態は──決して本意ではないが──一つ残らず誤魔化す悲壮な決意だった俺は、間抜けな面を晒して失礼しますと頭を下げ、嘉瀬さんはテーブルにどっかりと高い革靴の足を上げた。 「部長」 「ああ、いいよいいよ。俺、得意先じゃないから」 「いやしかし」 「いいんだよ。こいつはただの友達で、仕事とは一切関係ねえの」  嘉瀬さんは不貞腐れた態度で苛々と吐き出して、客はやあやあ、なんて言いながら名刺を差し出す。有名ゲーム会社の広報部の名刺には、多岐川一生と書いてあり、たきがわかずお、と丁寧にルビが振ってある。嘉瀬さんとどこか似た雰囲気の多岐川は、にっこり笑って腰を下ろした。少し色を入れた短い髪や細くスクエアな眼鏡のフレームはどこかマスコミっぽい。 「久しぶりにこっちに用がありましてね。嘉瀬とも最近会ってなかったのでどうしてたかと思って」 「はあ」 「こいつがね、部下に見込みあるのがいるって前から言ってたので、丁度いい機会だから紹介してもらおうかと」 「はあ」 「これ、御社とは直接関係ないんですが、……提案としてどう思います?」  多岐川は仕事なんだか何なんだか、俺から企画の評価を聞き、そうすることで多分俺を品定めして帰って行った。嘉瀬さんは同じ姿勢でずっと黙って座ったままで、見送りにも立とうとしない。不機嫌なまま席に戻ってその後は何事もなかったように仕事をこなし、俺が退社するときには、まだパソコンを睨んでいた。 「下に居るから」 「はあ?」  電話を取るなりのその言葉に、間抜けな返事が口をついた。嘉瀬さんの声なのは分かっているが、状況が飲み込めない。 「下ってどこの下ですか、念の為聞きますが」 「お前んちの下。ちょっと下りてこねえか」 「下りて行くだけでいいんですね?」 「で、ちょっと俺の家まで一緒にタクシーに乗らねえか」 「嫌ですよ」 「じゃあ俺がそっち行く」 「分かりましたよ、行きますよ。行けば満足するんでしょう。三分待ってください」  俺は膝の抜けたジーンズにパーカーを羽織り、鍵と財布をポケットに突っ込んで部屋を出た。嘉瀬さんの用事は多岐川に関することなのだろうか。何で嘉瀬さんを怒鳴っていたか知らないが、直後に俺が呼ばれたことが無関係とは思えない。  嘉瀬さんはつまらなさそうな顔をしてアパートの下に立っていた。タクシーの後部座席は開いたまま、先に俺を乗せるのは、逃げられないようにするためか。スーツのままの嘉瀬さんとだらしない普段着の俺を乗せ、タクシーは滑るように走り出す。ネクタイをせずに隣にいるだけで、やけに心許ない気分だった。  マンションの前に着いても言葉少なな嘉瀬さんの後につき、嫌々ながらエレベーターに乗り込んだ。まるで商談に向かうときのように真剣な顔をした嘉瀬さんは、相変わらず何も言わない。部屋に入るなり嘉瀬さんは上着と鞄をソファに放り投げ、ネクタイを緩めて振り返った。 「佐宗、お前何か飲むか」 「別にいいです。それより何の用なんですか。電話で済ませてくれればいいのに」  疲れた顔の嘉瀬さんは突っ立ったままの俺のほうを向き、溜息を吐きつつ髪の毛をかき上げた。そうやって顔が露になると、この人は本当に端正な顔をしていると実感する。昼間会った多岐川も所謂格好いい部類だが、垂れ流している色気の量と質がまるで違う。 「話の流れで多岐川にお前のこと話しちまってな」 「……はあ」 「それで、部下に手を出すなんて馬鹿かって、怒鳴られた」 「怒鳴ってるの聞こえてましたよ。保奈美ちゃんなんかおろおろしながら喜んでましたけど」   苦笑して、嘉瀬さんは俺に一歩近づいた。俺は一歩離れてソファにゆっくり腰を下ろす。嘉瀬さんはまた一歩近づいて、座ってしまって下がれない俺から二歩の距離に立った。 「おまけに男に手を出すなんて、部下の迷惑を考えろ、と。偉そうに説教してやがったが」  嘉瀬さんが社内恋愛をしないというのは実は有名な話である。後々面倒なことになるのが嫌だと言って、この遊び人は社内の女性とは一度もそういう関係になったことがない。そうは言いながら実際は、というのが世の常人の常と思うのだが、嘉瀬さんはそういうところは徹底していて、だからこその遊び人でもあるのだろう。  だからと言って俺との関係が特別なんだと思ったことは一度もない。特別なのではなく特殊なだけだ。それにしても友達とはいえ話してしまっていいことなのかと思ったが、それは二人の友情の問題で俺の知ったことじゃない。 「それがどうかしたんですか」 「お前この間、聞きたいって言ったじゃねえか」  いきなり秒針の音が耳に飛び込み、俺は一瞬意識を持っていかれた。シンプルでモダンなデザインの置時計が、俺の思考の邪魔をするように時を刻む。嘉瀬さんの組んだ腕のワイシャツの微かな衣擦れの音さえ聞こえてきそうな、短くて、深い沈黙。 「一回だけだが、あいつと寝た」  低くて耳に残る声がそう呟いて、秒針の音がかちりとひとつ、耳に響いた。 「大学の時に、酔っ払ってやってみるかって話になって──お互い男に興味はまったくなかったが、女とはいいだけ遊んでたからな。好奇心と怖いもの見たさで、俺はともかく成り行きで下になった向こうは散々だったらしいが」  二歩の距離を詰めない嘉瀬さんは顔をしかめながらそこまで言って、上手い言葉を見つけられないのか口を噤んで俺の顔を見下ろした。  かっと頭に血が上ったのは、嘉瀬さんの表情を見たその瞬間だ。  恋人だろうが、遊びだろうが。  今更昔の相手の話を聞いたところで別に腹も立たないし嫉妬もしない。例え相手が嘉瀬さんでなくて女の子でも、過去に腹を立てたってどうにもならないのは同じことだ。昔の話を聞いて俺がキーキー言うと思ったなら、それこそ酷い勘違いだ。 「俺に多岐川さんの顔見せて、多岐川さんに俺を検分させて、あんた一体何したかったんです」  俺の顔を見る嘉瀬さんの表情が、どこか申し訳なさそうなそれから戸惑ったものに変わって行くのがコマ送りのようにはっきり見えた。 「佐宗、……俺は別にお前を試すような真似をしたわけじゃねえぞ。多岐川を当て馬にするつもりなんかまるでねえし、あいつが来たのは本当に」 「分かってます。そんなくだらない真似する人間なら願い下げだ」 「佐宗」  立ち上がって二歩の隙間をゆっくり埋めた。俺は嘉瀬さんのネクタイを引っ張って身体を近づけ、間近に迫った顔を見つめる。 「同じようにしてみて下さいよ」 「何?」  顰められた形のいい眉が、嘉瀬さんの内心そのままに額に皺を刻む。俺は嘉瀬さんのネクタイを解きながら一層身体を押し付けた。 「多岐川さんにしたのと同じに」 「……馬鹿言うなよ、覚えてねえぞ。一体何年前だと思ってる」 「だったら何ですか。そんなことどうでもいいから、早くやれよ。やって見せろ」  ワイシャツの襟から手を差し込み、うなじに手を当て引っ張り寄せる。鎖骨の中心の窪みに口付けると嘉瀬さんが身じろぎし、頭の天辺に微かに彼の息がかかる。 「──嫉妬ってやつなら嬉しいんだけどな。そうじゃねぇんだろ、佐宗」 「よくお分かりで」  嘉瀬さんの大きな手が俺の尻を掴んで引き寄せた。 「お前」 「何ですか、部長」 「いや──、脱げよ、自分で」  開き直ったのか、強がりなのか。嘉瀬さんが、不意にいつもの笑みを浮かべて俺を見た。下品な言葉を甘い声で囁きながら浮かべる笑みを。 「同じには出来ねえよ。あいつとお前じゃ全然違う」  口の中に吹き込まれた低く掠れた呟きが、俺の目の前を一瞬白い闇にした。両手でしっかり抱き寄せられて、脱げと言われてもこれだけ密着させられては脱げもしない。腿の付け根に当たる嘉瀬さんの感触に眩暈がする。一瞬眉を顰めた俺の表情の動きを目敏く読んで、嘉瀬さんはにやりと笑う。  わざとらしく突き上げるような動きで抱き直されて、思わず畜生、と声が出た。 「一回じゃ済まさねえぞ……佐宗」  絡みつくような低い声が、俺の背筋を撫で上げた。  聞きたいとは言ったけれど、目の前に突き付けろとは言っていない。  嘉瀬さんが寝た男の実体は、いくら平然としていてもその実平穏ではない俺の胸の内そのものを、俺自身の目の前に晒して見せた。何だかんだ言いつつも、この上司に惚れているに違いない内心を見せ付けられれば、羞恥より自分への怒りが先に立つ。  背筋を伸ばしたスーツ姿のこの上司を見て、胸がときめくことなどないというのに。 「何見てんだ? 俺の顔に何かついてんのか」 「目鼻口がついてます」 「つまんねえ冗談言ってる暇があったら頭ん中で数字詰めとけ、馬鹿」 「はい、部長」 「……素直にはいなんて、何だ、具合でも悪いのか」 「いいえ。ケツと股関節は痛いですが、他は別に」 「口が減らねえなあ、佐宗」 「すいませんね」 「今日は、その減らねえ口でしてくれよ」  にやりと笑い、嘉瀬さんはガラスの扉を押し開いた。受付の女の子が立ち上がり、うっとりした笑みを嘉瀬さんに向けてお辞儀する。  俺は思わず苦笑して、嘉瀬さんの広い背中を追って足を進めた。肩越しに振り返った嘉瀬さんの口元が僅かに歪み、悪魔のようなあの笑みが一瞬浮かんで、すぐに消えた。
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