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雨海月
遠くで、波が揺れる音がした。
其れはリンリンと硝子の氷が鳴っている様でいて、いつか誰かが淹れてくれた紅茶の音色にも聴こえる。
雪に憧れた雨は、依然として止む気配は無く、雨海月を観察出来る絶好の機会。
理科室のシャーレを片付け終わると、僕は凍てつく雨の世界へと繰り出す。水滴は雫と成り、流れ落ちる球体は水晶のよう。
瞼を瞑ると、静かな海の中を揺蕩っている錯覚を、僕は覚える。ゆらゆら。酸素の在る陸で、海月を観察出来るのは、こんな時しかない。
眼鏡をしっかりと掛け直すと、気が引き締まる思いだ。セーターの上に白衣を羽織っても、矢張り寒くて、両手はポケットの中に在る。はあ、と吐き出した息は白い靄、此の街を覆う、霧。晴れ間の隙をみて、雨海月が顔を見せる。ふわり、ふわり。ゆらり、ゆらり。自慢の長いレースを靡かせる雨海月も居れば、小さな群れを成している雨海月も居る。其の光景は、不思議な筈なのに。僕は口端からこぽりと出る泡を瞳を閉じて、感じ入る。美しい、雨の、世界。時が、止まる。
嗚呼、僕の、世界、だ。僕だけの、世界だ。眼鏡を、外す。僕は、僕が何処に居るのか一瞬理解出来なくなり。そして直ぐ時間が流れ出す、まるで、大洪水の、ように。水晶の珠は、流れ落ち天から下がる天蚕糸となる。
雨海月、其れは冬の雨降りの日。僕が眼鏡を掛けている間だけ、逢える。束の間にしか、時を共有出来ぬ、不思議な海月。
天を仰いだ僕はびしょ濡れで、それでもあの世界にまた行けた、と安堵した。もう僕は、僕を辞めてしまいたい。そう思う日に必ず雨海月は現れる。其の、条件が、揃う。
何度救われたか、数え切れない。
「センセー、風邪引かない?」
生徒が残っていた様だ、濡れ鼠のまま何だか僕は目を細めて微笑んでいた。
「ねえ、君。陸の海月を、見た事は、ありますか?」
男子生徒のはてなを飛ばす顔があんまりにも可笑しくて、僕は折り畳んだ眼鏡を取り出した。
了
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