拾い猫

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「おかえりなさい」  顔を上げた番頭の(より)が、眉間に皺を寄せた。(からす)の……という表現がぴったりの真っ黒な髪に、整いすぎた細面は、そうした顔をすると途端に凍えそうなほど冷たい印象になる。  最も、依が相好を崩しているところなど、とんと見たことがない。 「ただいま。どうしたんだい? 依。そんな怖い顔をして」 「旦那、随分とご機嫌ですね。どこぞで良い猫でも見つけましたか?」 「鋭いね。私はそんなに顔に出ていたかい?」  ため息混じりに立ち上がった依が、茶の用意を始めた。人を入れるのは嫌だというので、ここでは女中のような仕事もすべて依自身がやってしまう。 「聞いてくれるかい?」  熱い茶を一口飲んで見上げると、相変わらず不機嫌な依が、それでも帳簿を閉じて私を見つめた。 「先月だったか、雨の酷い日があっただろう?」 「旦那が濡れ鼠でお帰りになった日ですね」 「そうそう、その日だ。親不孝通りの端に茶屋があるだろう? その路地に痩せ細った猫がうずくまってたんだ」 「子猫でしたか?」 「成猫になったばかりというところだ」 「それで、拾ったというお話にでもなるのでしょうか?」 「いいや、食い物を出してやると腹を空かせていたのか、勢いよく食らいついてな。見事な食べっぷりだと感心したら、腹の具合が良くなった途端、逃げられてしまった。」  それでは話が終わってしまうじゃないかと、非難めいた視線の依が茶を口に運び、しまったという顔で軽く口を開いた。依は大層な猫舌なのだ。  ふぅふぅと熱い茶に息を吹きかける様は、なかなかに可愛らしい。 「逃げられる直前、一瞬だけ触れたんだが、どうも三毛(みけ)だったみたいでな。これは惜しいことをしたと落ち込んだものだ」 「三毛の雄だったんですか?」  わずかに茶を含むことに成功した依が、綺麗な黒目を丸くして驚いた。  三毛猫の(オス)は大層珍しい。  すごいだろうと頷いて見せると、依はなぜ逃がしたんだと、今度は別の非難を顔に載せた。 「それでさっきの話に戻るんだ」 「旦那のご機嫌な理由は、」 「その通り。また会ったんだ。その猫に」  一度逃がした野良に会えるなんて思ってもみなかった。 「風呂に入れてもらったのか随分と毛並みが良くなっていた」 「どこにいたんですか?」 「谷町の風呂屋だよ」  それを聞いた依が少しだけ、不快を顔に出した。一応、妬いてみせるくらいの情は持ってくれているらしい。 「三毛でしたか?」 「間違いないね」 「それなら大層な高値を吹っかけられたんでは?」 「それが、風呂屋の連中、その拾い猫が三毛だと気づいてないときた」 「不甲斐ない連中ですね」  せっかくの宝の価値が分からないなど阿呆にも程があると依が嘲る。依はこうした、冷たい立ち居が大層様になるのだ。ついつい見蕩れていると、私の視線に気づいたのか、依りすぅっと視線をそらしてしまった。 「それで」 「ん?」 「菊花の具合は試したのですか?」 「いいや」 「そういえば、お連れにもなっていませんね」  眉を顰めた依に、少し申し訳なさそうな顔を作ってみせた。 「買い取ってきたのはいいが、随分な暴れ具合でな。あれでは店で給仕をさせるわけにもいかない」 「……それで、今はどこに?」 「秦田の別宅においてきた」  依が今日一番の怖い顔で私を睨んだ。 「まさか、旦那……」  嫌な予感だと、依が早くも話を切り上げるために帳簿を広げ始めた。 「三毛猫の躾は依に頼もうと思って。おまえはそういうのが得意だろう?」 「お断りします」 「私も手伝うから、な?」 「二人がかりでとは、随分なご執心じゃないですか」 「だって三毛の雄だよ?。おまえも興味があるだろうに」  そう言うと、依はわずかに押し黙った。満更でもなかったのだろう。 「店に出られるようになるまで、いいか?」 「仕方ありませんね」 「助かるよ。依」  空になった湯呑みを片付けた依が、私の前に戻って、軽く膝に乗ってきた。 「三毛もいいですが、他の猫のこともお忘れになりませんように」  そう釘を指した舌先が、ちろりと首を舐める。 「もちろんだ」  私はそう請け合って、依の喉を撫でてやった。依が甘く喉を鳴らす。  美しい黒猫が、心地良さに目を細めて懐く様は何ものにも替えがたい。 「情けがいるかい?」  意地悪く聞いてやると、依がわずかに睨んで目を伏せた。 「猫たちが支度を始めるまで、半時ほどです」 「少々足りないが、今はそれで我慢するとしよう」  そう嘯いて、私は抱き上げた依を、革張りのソファへと横たえた。
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