第二話

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第二話

 さて、私の性格とこの事件が起きた背景はそのようなものである。これ以上自分の愚行を説明しても恥を上塗りするだけなので、控えさせてもらいたい。そろそろ、そんな単純で愚かな自分が出くわした不思議な話に移ろう。  その日、私はいつも通りに船橋駅の総武線ホームで電車を待っていた。天気も良く、風当たりも良好で、その日は気分も悪くなかった。しばらくすると、電車はダイヤ通りにホームに入ってきたため、この時点で焦りやストレスを感じることはまったくなかった。落ち着いた余裕の心持ちで、降りる乗客を先に通し、車内に乗り込んだ。混み具合はそこそこといったところで、席はほとんど埋まっていたが、つり革を持って立っている乗客はそれほど多くはなかった。混んでくるのはこれから先なのである。私はなるべく車内の端っこの方に陣取って、来るべき大混雑のための警戒態勢に入った。  電車はやがてゆっくりと動き出し、船橋を出て、順調にレールの上を進み、西船橋、市川を過ぎる頃には、車内は完全に満員の混雑となっていた。私の身体も周囲の乗客にぐいぐい押されていた。車内にいる乗客が身動き一つできない状態に陥っても、駅に到着するたびに、乗客は後から後から仏頂面をして乗り込んでくる。次の電車を待とうかなどと考える賢い人間はほとんどいない。皆自分の都合を優先させる。自分の居場所は車内には得られないとわかっていても彼らは乗り込んでくるのだ。そのたびに、車内にすでに乗り込んでいた乗客たちは悲鳴をあげる。自分を後ろから押している何者かに向かって、『ちっ』と舌打ちする者もでてくる。早朝から溜めに溜めてきたストレスが怒りに変わってくる頃合いである。そんなとき、乗客たちの決して良くない精神状態をさらに逆なでするように、いつもの車内放送が流れる。 「ただいま、お隣の新小岩駅で非常停止ボタンが扱われました。しばらく、この駅で停車いたします。お急ぎのところ、電車が遅れまして、皆様にはご迷惑をおかけいたします」  本当に反省しているのか、本当に頭を下げているのかわからない、原稿を棒読みしただけのような以上のようなメッセージが流れてくると、乗客の怒りはさらに高まっていく。すでに一瞬即発だ。ちょっとした、身体の一部や荷物のぶつかり合いで何が起こるかわからない。だいたい、この総武線はほとんど毎日遅れている。ほとんど毎日、どこかの駅で非常停止ボタンが扱われている。千葉から三鷹まで、50キロ以上に渡る距離を2分おきに走る電車で繋いでいるのだから、その数万、数十万の乗客たちが全員おとなしく、トラブルを起こさないようにしていることは、法律に誠実な行動をとる、さすがの日本人でも難しいらしく、停止ボタンが扱われるようなトラブルが起こることも仕方のない面もあるのだが、狭い車内にぎゅうぎゅうに押し込められた乗客たちの爆発寸前の厳しい心理状態も容易に測れるのである。狭い空間に押し込められ、私自身も苦しかったが、自分の周囲にいる乗客の顔を見渡し、他人の苦痛を楽しみ、心中では悦に浸っていた。そんなとき、この電車の車掌から二度目のアナウンスがあった。 「繰り返しになりますが、申し上げます。総武線各駅電車は隣駅の新小岩で、車内トラブルがあったために非常停止ボタンが扱われ、現在、各駅に電車が停車しています。お急ぎのところ、たいへん申し訳ありません。もうしばらくお待ちください……」  長時間続く押し合いへしあいで、呼吸も苦しくなっている、乗客たちの半数程度は『車内トラブルって何だ? もっと詳しく説明しろ!』と考えており、もう半数の人間は『もういいから黙ってろ!』と考えている。事件の説明をしている車掌が怒りの対象になってしまっているのである。私はこういう時、痴漢で逮捕されるスーツ姿の男性や、何らかの車内トラブルによって、鼻血を出しながら殴り合いをしている若い複数のサラリーマンを勝手に想像して楽しんでいる。他人の不幸やトラブルを想像することで自分の苦しみをやわらげられるのだ。それが性格が悪いと表現されるならば、それはその通りなのだろう。そして、この自分が乗っている車両のどこかで、同じようなトラブルが起きてくれないかとひそかに願ってもいる。  休日でゆっくり寝た後、行楽地に向かって家族と一緒に電車に乗っている時であれば、押されたとか、肩が当たったとか、そんな細かいことで喧嘩にまで発展することはまずないだろう。どちらかが頭を下げれば、それで済む話である。長時間に渡って、仲間のいない状況で狭い所に押し込められ、息も苦しい状態が続く、そして、いつ電車が動くかわからないこのような状態だからこそ、人は怒るのである。そして、私は普段冷静なサラリーマンたちが怒りだす、その瞬間を見たいと思っている。  ほとんどのサラリーマンは、外部からは見えない爆弾を常に抱えている。それを爆発させないように生きている。火薬の部分の詳細はといえば、そもそも納得いくように収まらなかった自身の就職活動であり、結婚以来、上手くいかなくなった妻との関係であり、平然と親に逆らうようになった生意気な子供との関係であり、無茶なスケジュールで安い仕事を押し付けてくる顧客との関係であり、いつになっても上昇気流に乗っていかない自分の寂しい給料明細書、納得がいかないほど高い税金や保険料や年金その他の雑費……、それらを誰にも助けてもらえない自身のみじめな境遇であり、その導火線の先にさまざまな種類の車内トラブルがあるのである。つまり、爆発しているのは自分の半生である。トラブルが起きても火薬を持っていない人は何も爆発させずに済むのである。テレビで日常茶飯事に流される通り魔や放火事件のこともこの理屈で大方説明できるように思う。 そんなとき、私は、自分が詰め込まれているこの車内でも異変が起こりつつあるのを感じていた。私自身は車両の一番先頭側の席の前につり革につかまって立っていたのだが、そのちょうど後方で知らぬうちに口論が始まっていたのである。 「おまえ、さっきから押してんじゃねーよ!」  今度は若い男性の声ではっきりとそう聞こえてきた。私はちらっと後ろを振り返ってみた。すると、つり革の輪の上まで頭が届きそうなほど背の高い、しかも体格のいい20代後半の紺色のスーツを着たサラリーマンふうの男性がその斜め後ろにいる薄いコートを羽織った商売人ふうの男に因縁をつけているようだった。私の位置からではこの男性の顔まではよく見えないが、角刈りで恰幅がよく、こちらも迫力のある体型だ。どうやら、商売人ふうの男が雑誌を読んでいて、そのために彼の肘がサラリーマンふうの男性の脇腹に何度か当たっているらしかった。若い男はそのことに腹を立てているのだろう。 「おまえの肘がさっきから当たってて、いてーんだよ!」  若い男性が顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、商売人ふうの少し年配の男も、「混んでるんだから、仕方ねーだろうが!」とやり返した。一度頭を下げてしまえば済みそうな一件だが、こちらもまったく引くつもりはないらしい。周囲の乗客もこの二人の迫力に飲まれていた。この間に電車は次の駅でのトラブルの処理を終えて、ゆっくりと走り出していた。 「おまえ、謝れよ! あやまらねーと殺すぞ!」  若い男の口からは、ついにこんな乱暴な言葉が飛び出してきた。完全に頭に怒りが浸透していて、もう後には引けなくなっているらしい。他の乗客は冷静を装って、なるべくそちらの方を見ないようにしているらしいが、本音では私のように、この言い争いをひそかに楽しんでいるのかもしれない。このちょっとしたトラブルが、非常停止ボタンを扱うほどまでに発展してしまうことを恐れている人が、この時点でどのくらいいただろうか。私はこの喧嘩の結末を見られるのであれば、多少電車が遅れてもかまわないとまで思っていた。先ほども一度述べたが、こういうトラブルは本当に愚かな行為である。なるべくなら、自分が関わりあわないように、避けながら生きていくのが望ましい。だが、私にはこの状況は楽しく感じられる。自分のストレスを他人の怒りの爆発によって発散することができるからである。しかも、事態がどんなに荒れても自分には実害はない。何度も言うが、これが性格が悪いという証拠だろう。余計な仲介に入って巻き込まれる気はさらさらなく、自分の身近で起こったこの難事に、少し怯えた顔つきをしていても、心の中では『もっとやれ、もっとやれ』と念じていた。  電車は数分の遅れを取り戻そうと、普段よりスピードを上げて走り、その振動で喧嘩をしている二人の身体はかなり激しくぶつかりあった。それが余計に二人の怒りを増幅させているようだった。電車が大きく揺れた拍子に私の立っている位置も少し右横にずれて、二人の顔立ちがはっきりと見えるようになった。肘をぶつけられて怒っている若い男性は、角刈りの男性を上から鋭い眼で見下ろし、今にも殴りかかりそうな雰囲気だった。だが、顔の迫力では角刈りの男も負けていない。眉間に何本ものしわを寄せ、自分のしてきた行為がまったく悪くないと信じている様子で、この一件が、血みどろの殺し合いにまで発展しても一向に構わないという表情だった。二人とも、周りの乗客の迷惑のことや、この一件で自分の社会的地位が大きく変わってしまうという危機感はまったく持っていない様子で、殴り合いの喧嘩に向かって一直線の様相だった。  この二人が言い合いを続けている間に、電車は錦糸町を越え、浅草橋を越えて、『まもなく、秋葉原に到着します~。電車遅れまして、大変申し訳ありませんでした~』という車内アナウンスが流れた。  そのとき、若い背の高いほうの男性は角刈りの男のコートの襟元をぐいっとつかみ、「おまえ、次の駅で降りろや……」と地獄の底から湧いてきたような低い声でつぶやいた。角刈りの男もそれに応じて、若い男の腕をつかみ返して、「ああ、降りてやるよ!」と叫んだ。もう、この二人を止めることは説得の神様でもできそうにない。他の乗客も皆下を向いてしまった。こんな状態で止めに入っても、先に殴られるのが自分になるだけであり、たとえ停止ボタンを押して車掌を呼んでも、余計にことが複雑になるだけのような気がした。ここで降りない乗客にしてみれば、これ以上、この電車が遅れる方が困るのである。しかし、私はこの状況に興奮していた。秋葉原は自分の降りる駅ではないが、この二人の喧嘩の行く末を見守るために一緒に降りてやろうかと考えていた。
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