第9話 光

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第9話 光

 女性と公園で別れた後、僕もまっすぐ家路へとついた。いつもは夜中に通る帰り道も、朝方に通ると全く別の道のように思える。駅へと向かう人並みに逆らって、一人家に向かうのはとても心地よかった。  今はまだ彼女と会えなくなったという実感など沸かず、晴れやかな感情だけが心を満たしていた。きっとこれから何度もこの日のことを後悔することになりそうだが、今は気にしないようにする。  家についた後は、吸い込まれるように夢の中へと落ちていった。さすがに夜通し話しただけあり、疲れも溜まっていたのだろう。次に目が覚めたときには、部屋には夕日が差し込んでいた。  一日中寝たこともあり体はかなり楽になっていた。これだけ体が軽く感じるのは随分久しぶりな気がする。それから溜まりに溜まった洗濯物を干し、部屋の掃除をした。  掃除が終わった頃にはすでに夜になっていたが、終わったときの達成感は大きかった。綺麗な部屋を見ていると、まるで自分自身が生まれ変わったように思えた。  部屋がきれいになった後は夜ご飯を食べに行き、風呂に入ってすぐに眠りにつくことにした。さすがに一日中寝ていたこともありすぐに眠れなかったので、少しだけお酒を飲み眠りについた。久しぶりにこれだけ健全な一日を送った気がする。   次の日には学校にも顔を出した。教授のところに向かい、今まで欠席していたことを謝り、卒業論文についての相談もした。僕が真剣に謝っていることに気付いたのか、教授もそこまで僕を咎める様なことはしなかった。  論文に関するアドバイスをもらった後は、そのまま図書館に向かい必要な資料を借りていった。資料を借りた後は就職課に向かい、今まで就職活動を休んでいたことと、どこか勤め先についての情報はないかの確認を取りに行った。  そこで一通りの話を聞いたあと、家に戻り各会社へのエントリーを再開した。もう秋に入ったこともあり、大きな企業は募集を終了していたが、それでもまだ募集を行っている企業は多くあった。  女性と別れた日を境に、ようやく勉学と就職活動に本腰を入れることが出来るようになった。それからの日々は目まぐるしく過ぎていった。  ゼミにも久しぶりに顔を出し、他の学生にも論文のことを相談していった。始めは周りにも驚かれていたが、徐々に周りの人も僕のことを受け入れてくれた。   工藤にも今まで休んでいたことの謝罪と、今までのフォローをしてくれたことのお礼を述べる。工藤はいつもと変わらぬ口調で、ご飯を奢れとだけ言ってきた。僕がゼミの中でなじんでいくのに伴って、工藤も周りの人と関わりを持つようになっていった。  あの日を最後に、僕の周りの環境も大きく変わっていった。工藤には女性との間で行った話を一通り話している。それを聞いた工藤は、周りの環境が変わったのではなく僕の考え方が変わったのだと言っていた。僕の姿勢が変わったから、周りの人も僕との付き合い方を変えたのだと。  確かに前よりは物事を前向きにとらえるようになったし、今まで抱えていた卑屈さというのもいくらかなくなったと思う。しかしいざ面と向かって変わったと言われるとなんだかはがゆくなってしまう。   女性の話を聞いた工藤は、結局その人がお前にとって疫病神だったのか恩人だったのかよく分からないと笑っていた。確かにどちらともとることは出来るだろう。女性と一緒にいたから就職活動をやめていたのも事実だし、彼女のおかげで前を向くようにもなれた。  だけど僕は工藤の疑問に対して、迷わず後者だったと宣言した。僕たちが過ごして時間は現実逃避といった不純なものから始まっていた。それでもその時間があったからこそ、自分たちの問題と向き合うことができたし、それに立ち向かうこともできた。  客観的な間違いだからと言っても、必ずしもそれが絶対的な間違いとは限らない。間違えた関係から生まれる、正しさもあるのだと今の僕は思っている。   そういえば、女性と合っていた頃に、やたらと工藤がご飯に誘ってきた時期があったが、あれだけ強引だったのは何故か知ることもようやくできた。  2人ともゼミにも馴染んできて、ゼミ内での納会を行った際に、互いにかなりの量のお酒を飲んでしまい、その勢いでようやく理由は教えてくれた。  酔いもあって順番は支離滅裂であったが内容としては、あの時の僕の頑張りようは周りから見ていると危なげに見えていたらしい。傍から見ると明らかに無理をしていると分かった。  今まではただ流されるままに生きていたのに、それが急にがむしゃらに頑張り始めたのが見ていて不安になった。無気力な人間がいきなり頑張り始めると、どこかで必ず異常を起こす。だから定期的に息抜きをさせるために誘っていた。そんなことを工藤にしては珍しく饒舌に語っていた。   なんだか馬鹿にされていると思い文句を言ったが、工藤はああやって流されて生きていくことも難しいことだとよく分からないフォローを入れた。工藤なりにあの頃の僕のことは評価していたらしい。  その本当の理由を聞いて、工藤が頑なに理由を話さなかったことにも納得がいった。僕のことが心配だから誘っていたなんて口が裂けても言う訳がないだろう。そもそも工藤にそんな気遣いをする心があるということを当時の僕は知らなかった。  僕自身は全く気付いていなかったが、傍からそう見えていたということは、かなり無茶をしていたのは確かなのだろう。女性にも最後に会ったときの別れ際、「無理はしないでね」と言われていたし、その当時の僕は相当追い詰められていたのだろう。   こうして周りとの関係を改めたことにより、今まで見えてこなかったものが見えるようになってきた。工藤にこんな人を気遣う一面があるなど考えたこともなかった。  自分には恵まれた友人がいたんだなと思うのと同時に、女性の寂しげな姿が思い浮かぶ。彼女が今どうなっているかは分からないが、僕でいう工藤みたいな存在がいたくれたらということを心の片隅に願う。  それからも時間は目まぐるしく過ぎていき、気がつけば年が明けていた。僕はどうにか卒業論文を提出することが出来た。内容は稚拙なものであったが、なんとか卒業は出来そうだ。そしてそれとほぼ同じタイミングで小さな印刷会社から内定をもらうことが出来た。  どこか遠くにたどりつきたいと思っていた僕がいきついた先は、本に関わる会社だった。印刷会社に入ったのは、彼女の影響なのかもしれない。いつか絵本作家になりたいと言っていた女性と会えるかもしれない職場を、無意識に求めていたのかもしれない。  だけど今の僕は、そこまでして女性と会いたいとは思っていなかった。確かに何度か女性ともう一度話したいと思う日はあった。けれど一日として僕が公園に向かうことはなかった。それに彼女も、もう公園には行かないだろうという核心めいた予感もあった。  僕と女性が過ごした時期は、あの期間だからこそ意味があったのだと思う。上手くいかない現実に悩みながら過ごしていく日々に出会ったからこそ、貴重な時間になったのだと僕は考えている。  今彼女と会ってしまえば、その時間が崩れそうで怖いと思う感情がある。だけど会いたいと思う時もある。結局この二つの感情が行き交いながら日々は流れていき、気付けば社会人になっていた。  社会人になってからの日々は、本当に目まぐるしく流れていった。今まで関わりのなかった分野の仕事のため、覚えることは多く連日遅くまで仕事が続いた。  人間関係だってゼロから始まるのだから、それに対する気疲れも出ていた。学生の頃のように好き勝手やっていては、すぐに会社の輪から外されてしまう。いくら人付き合いが良くなったからといって、すぐさま性格の根本が変わるわけでもない。  興味のない飲み会に参加し、適当に話を合わせる。周りの人は普通にやっているであろうことを行うのに、ひどく苦労した。そのことがより、自分の精神を疲弊させる。  そうして目まぐるしく時間が流れて行くうちに、女性と一緒にいた時間、自分がどこかに辿り着けるという想いが薄れていった。一日一日を生きることに精一杯で、他のことを考える余裕などなかった。  そうしているうちに気がつけば3年の月日が過ぎていた。業務量は変わることはないし、かと言って環境に慣れるわけでもない。結局は微妙な状態のまま惰性で毎日を生きていた。  昔の出来事を振り返っている間に、会社の最寄り駅が近づいて来ていた。電車の中には駅に着くと言うアナウンスが流れている。なんだか長い夢の中から現実に引き戻されたような感覚がする。  そんなことを考えていると、雲の隙間から日の光が顔を出す。暗い空から差し込む光は、時計台で女性と眺めた朝日と同じような輝きを放っていた。今まで昔のことを考えていたから、その光景と重なったのかもしれない。  その光を見ていたら、今までの自分の積み重ねがどうでもよくなってしまった。女性が仕事をさぼると高らかに宣言した気持ちが今なら分かる。電車は会社の最寄り駅についていたが、僕はその駅に降りることはしなかった。  なんだか無性にあの公園に行ってみたいと思った。女性と同じ立ち位置になった今の僕が、あそこに行ったら何を思うのだろうか。あの時、女性が見ていたものが、もう少しはっきりと分かるかもしれない。  一瞬、自分が今日しなければいけない仕事が思い浮かんだが、すぐに心の片隅に押し込んだ。後々の説明なども大変だろうがそれも気にしない。今は久しぶりに身体を満たしているこの感情を大切にしたかった。  ドアが閉まるのを僕はとても穏やかな気持ちで眺めていた。それから電車は、僕を思い出の公園へと運ぶためにゆっくりと進みだしていった。  雲の隙間から差しこむ朝光は、女性との別れの日と同じように、僕の歩む道を照らしているような気がした。
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