第2話 時計台と女性

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第2話 時計台と女性

 風鈴の音のような透き通った声が、脳内に響き渡っていく。その声は酔いで意識が薄れている状態でも、抵抗なく聞き入れることができる心地よさをまとっていた。しかし、この意味を完全に理解することはできそうになかった。簡単に言ってしまえば、夜中の公園でいきなり女性から声をかけられた。それだけのことである。  しかし、それだけのことが異常なのである。そもそもなんでこんな所に、女性が一人でいるのだろう。こんな人気のない公園に一人でいること自体、不自然である。そしてそれが女性ときている。酔いも相まって、まったく理解が追い付かない。  さらにその人物は、ただ近くに寄っただけで声をかけてきたのだ。確かに近寄ったのは僕だが、それだけでいきなり声をかけるだろうか。少なくとも僕なら絶対に声をかけない。このような状況は生まれてこのかた、経験した覚えがない。  「挨拶したんだから無視しないでいただきたいな」  完全に思考が停止している状態で、再度声をかけられる。心地よい声に気をとられ、反応が遅れてしまう。どうやらこの女性は、僕と会話か何かをしたいらしい。  始めは痛々しい独り言なのかとも考えたが、視線がこちらを向いているし、その線もなさそうだ。さすがにこれ以上の無視は失礼だと感じ、恐る恐る返事を返す。  声の元に目をやると、暗さに慣れてきたのかその女性の容姿を把握することができた。ベンチに座っているため正確な身長は分からないが、パッと見で小柄だと分かる。  短く切り揃えられた内巻きの黒髪。薄手のパーカーの下からは淡い色のノースリーブが見える。そこから細い肩が顔を出している。そしてショートパンツからのぞく、すらりと伸びた綺麗な足。  全体的に儚い印象を発している女性は、とても幼く見えた。年齢こそ分からないが学生くらいに思える。しかし先ほど聞いた声には、どこか大人の余裕を感じられた。そのことが、彼女の正体を余計に謎に包んでいく。いっそのこと姿が見えない方が、まだ判断がしやすかったかもしれない。もっとも、そんなことは今さらな話である。  しかし訳が分からないなりに、一つだけ感じることがあった。こんな時間に女性が一人でいるのはいささか無防備ではないのだろうかということだ。いくら日本が比較的治安が良いとはいっても、絶対の安心が保証されているわけではない。  そんな中、たった一人で暗い公園に腰掛けているのだ。さらに服から微かにのぞく儚い体が、余計に不安を加速させる。一方的な偏見になるのだろうが、どう見ても危機管理力がないように思える。  そんなことを女性を見ながら考えていたが、その理由はすぐに判明した。女性の隣に大きめの袋があり、その中から複数のお酒が顔を出していた。どれも酎ハイなど軽めのものだが、すべてが空になっているあたり、相当な量を飲んでいるのだろう。  さらに耳を澄ませてみれば、上機嫌な鼻歌も聞こえてくる。何を歌っているかは分からないが、心地よい響きであるのは確かである。状況から察するに、ただの酔っ払いであるのは明確であった。  酔っ払いであるなら、今までの不可解な状況にも説明がつく。要はただの酔っ払いに絡まれているというわけだ。すでに出来上がっている僕がいうのもなんだが、ただ面倒なだけである。  正直な話、いきなり女性から声をかけられ驚きはしたが、決して嫌なわけではなかった。むしろ、今までにない体験にときめいたくらいである。  しかしタネが明かされてしまって、すっかりとそのときめきは消え失せてしまった。いくら女性とはいえ酔っ払いの相手は勘弁してほしい。そんな本能に従い僕は、早々にこの場所を立ち去ろうと背を向ける。  「なんだい、もう帰っちゃうのかい。私に要件があったんじゃないの」  僕の思惑を打ち砕くように、女性から声をかけられる。どうやら僕が女性の近くに寄ったのは、何か話があるからと勘違いしているようだ。そのまま何も言わず立ち去ることも可能だが、さすがにそれは気が引けてしまう。結局は酔っ払いであれ、女性を邪険に扱うことはできなかった。  「すみません。僕が近寄ったのは単純に先客がいることに気付かなかっただけなんです。それ以上の意図はないので失礼します」  結局は素直に理由を話して立ち去ることが一番無難だろう。そう考えて、理由だけ話して会話を終わらせる。しかし、女性にはその意図が伝わっていなかった。  「なんだ、そうだったの。残念。……あ、じゃあ私の話し相手にでもなってよ。私今暇してるとこなの」  しばらくの間ができた後、女性は提案してくる。完全に酔っ払いに絡まれた構図である。今や見知らぬ女性に声をかけられた喜びは完全に失せ、ただ面倒だと考えるばかりである。むしろ先ほどのときめきを返せという、理不尽な怒りさえこみ上げてくる。  そんな僕の態度に気付いてか、気付かぬかは分からないが、女性は態度を変えることなく、子供をたしなめるような口調で話しかけてくる。  「さっきから、むっつり黙ってばかりでつまらないぞ青年。私は話し相手になってほしいと言ったんだぞ」  「話し相手になるなんて、言った覚えはまったくないですよ。そもそも僕は酔っ払いを相手にする気はありません」  「おやおや、せっかく見目麗しゅう女性が話しかけてきたのに、それはあまりにも冷たすぎないかい」  自分でそれを言うのかと思いもしたが、そのセリフはあながち間違いでもなかった。容姿の幼さを含めても、かなり整っているのだしそう言われても反論する気にはなれない。  それに女性の口ぶりからするに、本気でそう思っているとは考えにくい。言葉の隅から冗談だと感じる気配を感じる。そこまで自信過剰な性格ではないようだ。  「ではその見目麗しゅう女性が、こんな時間になぜ、一人でこのようなところにいるか聞いてもいいですか。酔っ払いの女性が一人でいるには、似つかわしい場所だと思うのですが」  結局は女性の意図通り、話し相手になってしまっていた。そもそも始めに無視をして立ち去れなかった以上、話し相手になるしか選択肢はなかったのだ。それならせめて、適当に話し相手になり満足してもらうのを待つ他ない。  「おや、随分と嬉しいことを言ってくれるね。もしかして私に一目ぼれでもした?」  相手の冗談に合わせただけなのに、このリアクションはあんまりである。とりあえずもう面倒なので、これは無視を貫く。女性はその姿勢を気にすることなく話を続ける。  「それにさっきから私のことを酔っ払いと言っているが、別にそこまで酔ってはいないよ、ちゃんと意識はあるもん」  始めはよくある酔っ払いの戯言かと思ったが、理由を聞くとそうでもないと感じることができた。女性は己の正しさを証明するためにこう切り出し始めた。  「要するに君は、これだけ綺麗な女性が一人で夜中の公園にいることを心配しているのでしょう。だけど前をみてもらったら分かるだろうけど、すぐ近くには大きな幹線道路もあるし、人通りもそれなりにはあるんだよ。だから君みたいなナンパさんに絡まれても、大声を出せば平気という訳だよ」  女性は説明を終えた達成感から、自慢げに鼻を鳴らす。その動作だけで、一瞬だけあがった評価が再び下がる。  女性の言う通り、それなりには自分の安全は確保していると言ってもよいのかもしれない。もっとも、声すら出させてくれない状態になったらどうするのだろうとは思ったが、そこは触れないことにした。確かに、酷く酔っ払っている感じはしないが、子どもみたいな自慢の仕方のせいで、素直に関心する気持ちが薄れてしまう。  そして何よりも、僕のことをナンパと同列に扱う姿勢が許せなかった。話し相手になれと言ってきたのはそっちなのに、それを僕から進んで残っていると言うのだ。完全にあらぬ誤解である。  「別に僕はナンパ野郎ではないので、そんなこと言われても困ります。これ以上、いらない誤解をされても迷惑なのでこれで失礼します」  そう言って改めて女性に背を向けると、「冗談だから怒らないでー」とたしなめるような声が返ってくる。  そのいかにも、僕をからかっていますよと言わんばかりの姿勢が、さらに僕の機嫌を損ねていく。そうやって怒ってしまうことが、女性の狙いだと考えると余計にストレスも溜まっていく。  「あ、もしかして右手に持っているのは、お酒じゃない? お姉さんにも一口ちょうだいよ」  僕に構うことなく、女性は次々と話題を切り替えていく。その自由奔放な姿勢が、酔っているからなのか、元来の性格なのかは分からない。それでもなぜか、先ほどの怒りがどうでもよくなり、女性の言われるがままにウイスキーを差し出す。  「ウイスキーって初めて飲むな。これってどうやって飲むの?」  女性が瓶をじっくりと眺めながら訊ねてくる。そこには大人の余裕などは一切感じられない。どちらかと言うと、好奇心旺盛な小学生のように思えた。  「ロックだったり、水や炭酸で割ることが多いですけど、今は何もないです。もし飲むならそのまま飲んでください」  一通り説明を終えると、女性はためらうことなくお酒を口に運んだ。そんな勢いよく飲めば間違いなく咽るだろうと思ったが、止める気にはならなかった散々からかわれているのだし、これくらいの仕返しは構わないだろう。  当然の結果だが、目の前で女性が盛大に咽かえっていた。人気のない公園に、かわいらしい咽声が響き渡る。  一通り落ち着いた後に、涙目でお酒を睨みつけている。そこには、怖さというものは一切含まれていない。  「あー、喉いたい。こんなに強いなんて知らなかったよ。もう少し早く教えてくれてもよかったんじゃない」  「勝手に飲んだのはあなたですよ。そこまでの責任はとれません。そもそも瓶に度数が書いてあるんだし、そっちで確認してください」  淡々と自分の正当性を口にすると、「ケチ」と口にしながら顔を背けられる。それでもお酒を手放すことはなく、ちびちびと口に運び続けている。痛い目を見ても飲むこと自体を諦めた訳ではないのだろうが、一口飲むたびに顔をしかめている。  始めはもう帰ろうかと思ったのだが、さすがにお酒を渡して帰るわけにもいかない。こちらも裕福とは言えないので、ただで見知らぬ女性に貴重なお酒を渡す余裕はない。結局は女性の意図に従う形になってしまった。  「あれ、青年は帰るんじゃなかったの」  しばらくお酒を楽しんだ後、女性がおちょくるような話し方で訪ねてくる。  「そのつもりなんで、さっさとお酒を返してください」  「それはできない相談だ。私が満足いくまでお酒は返さないよ。という訳で何か話でもしましょうよ」  人のお酒を飲んでいるとは思えない尊大な態度で女性が言う。聞いているだけで頭が痛くなってくる。とはいえ、貴重なお酒を取られている以上、従わない訳にもいかない。  僕はすぐに帰ることを諦め、隣の席に腰かける。しかし、欲しいのはお酒だけなので、会話をしようとは思わなかった。隣でひたすら沈黙を貫き続けた。  しばらく会話のない時間が続く。その時間に先に耐えられなくなったのは女性の方だった。尊大な態度を見せるわりには、こういった雰囲気は苦手らしい。  「ねえ、何か話してくれないかな。お姉さん寂しいよ」  「別に僕はお酒が欲しいだけなので、話す気はないんで」  「じゃあ私の方から話をしてあげよう。なんで青年はこんな場所に一人でいるの?」  妙に弱気なところがあると思ったとたん、この変わりようである。僕の中でこの女性の存在がさらに分からなくなる。  「気が向いたから来ただけです。他意はありません」  しっかりと返答するのも面倒なので、適当に返事を返す。しかし女性は、それを気にする素振りなく質問を続ける。本当に自由奔放である。  「今は何歳なの?」  「教えるつもりはありません」  「家は近くなの?」  「個人情報なので黙秘で」  「今は何やっているの? 学生?」  「ご想像にお任せします」  立て続けに浴びせられる質問をすべて適当に返す。それから再び沈黙が流れる。さすがに女性も気分を悪くしたかと思ったが、そんなことはなかった。隣から心地よい笑い声が聞こえてくる。  「ちょっと! いくら何でも適当すぎるでしょ。もうちょっと真面目に答えてよ。お姉さん傷ついちゃうなー」  傷つくと言っているわりには、随分と上機嫌である。理由はよく分からないが、どうやら愛想のない態度が女性には受けたらしい。そのまま上機嫌な状態で話を続ける。  「ねえ、これは真面目な提案なんだけど……。これからもこうやって、この公園で私の話し相手になってくれない?」  「なんでですか?」  「単純に君のことが気に入ったんだよ。他意はありません」  女性が先程の僕の言葉を真似して、自慢気に言い放つ。とことん僕のことを挑発したいらしい。  そもそも初めて会った見知らぬ男に、話し相手になってほしいとは、完全に酔いが回ってしまったのかもしれない。そんな突拍子もない提案は断ろうとしたが、女性は口を挟む時間すら作ってくれなかった。  「だけど条件をいくつかつけたいの。まずは時間と場所。時間は日付が変わる手前……そうだね、大体11時半くらいから一時くらいの間だけ。そして場所も、この公園でしか会わないこと。さらにもう一つは、互いのことを詮索することは禁止。お互いに私生活に関することは一切聞かないこと。この二つを条件にしたいの」  僕の返事を待つことなく、彼女が矢継ぎ早に条件を言っていく。はっきり言って彼女の提案の意味がさっぱり分からなかった。単純に話し相手になれというなら、まだ理解の余地はあった。しかし、こうも不可解な条件が重ねられると彼女の意図が完全に読み取れなくなってしまった。  なんにせよこうも不可解な条件を飲む必要はない。こう全体が見渡せない怪しいものには乗らないに限る。だけど、どうしてか素直に断りきるということが僕にはできなかった。  「いきなりそんなことを言われても困ります。僕にだって自分の生活があるんで、そんな簡単にどうするとは言えませんよ」  結局僕の口から出てきた言葉は、完全否定とは言えない、煮えたぎらない返事であった。そして女性はその返事を咎めることはしなかった。  「別に今はそれでもいいよ。君が来ようと来なかろうと私はここにいるだけだから。だけど、君はまたここに来るよ。それはお姉さんが保証してあげよう」  どこか大人の雰囲気を孕んだ笑顔を見せながら、女性が予言めいた言葉をつげる。公園の薄暗い空間と相まって、その言葉は絶対に外れない未来予知のように感じる。  本来であれば、そう言われると反射的に反論したくなってしまうのが僕の性格なのだろうが、今回はそうする気にはなれなかった。  そうして僕が呆気に取られているうちに、女性は席から立ちあがり、僕の手元に何かを返す。手を見てみると、今まで女性に取られていたウイスキーが本来の持ち主の元に戻っていた。幸いなことに中身は大きく減っているということはなかった。  「じゃあ、私はもう帰るよ。今日は楽しかったよ。また明日会いましょう」  彼女は一方的に別れをつげ、公園から去っていく。その足取りは軽やかで、スキップまでしている。そのまま真っすぐと、公園の外へと消えていった。結局僕は、その上機嫌な女性を目で追うことしかできなかった。  女性がいなくなった公園は、想像以上にも静かで、どこかから控えめに虫の声が聞こえてくる。周りの木々は風に揺られ、どこか不気味さを醸し出している。なんだかその不気味さが今は心地よく、僕はしばらくこの場から動けずにいた。  一人になったベンチに腰掛け、ウイスキーを口元に運ぶ。覚醒しかけた意識に再びフィルターがかかる。程よい酔いを維持したまま、夜の公園を一人で堪能する。  遠くにある街灯と月光以外には侵入する光がない空間。外部からの音は遠く、自然の音以外はほぼ聞こえない。何故あの女性がこの場所を気に入ったのか、なんとなくわかった気がする。世界から完全に孤立したわけでなく、どこか距離感をとった空間。そんな適度な距離感が安心感を生んでいるのだろう。  とは言え、あの女性が何者なのかはさっぱり見当もつかない。話してみた感じ、年上なのだろうと感じたが、それ以外の情報はほとんど不明である。強いて分かっているというなら、お酒好きということとやたらなめられているということだ。  あの女性は何者なのか。どこで働いているのか。何故ここに一人でやってきたのか。先ほどの質問攻めと同じだが、気になることはたくさんあった。しかし、それを聞き出すことは条件の中で禁止されている。そもそも、禁止されている理由すら分からないのだ。本当に分からないことだらけだ。  気がつけば、僕は女性と再び会う方向に物事を考えていた。そう考えた瞬間、心の中が急激に醒めていくのを感じた。酔いのせいか完全に冷静さを失っている。  そもそも、今日初めて会った人の話し相手になるなんて馬鹿げている。こんな不可解なことを真剣に言ってくるわけがない。酔った勢いで言ったか、たちの悪い悪戯のどちらかだろう。  これでいざこちらが本気にしたら、冗談でしたと笑われそうな予感しかしない。そもそも明日も、女性がここに来る確証すらないのだ。そんな提案に少しでも、乗ろうとしていた自分が無性に恥ずかしくなってきた。  冷静に自分が置かれている状況を考えると、すっかりと興ざめしてしまった。先ほどまで魅力的に感じたこの空間も、急に虚しさだけが満ちた場所のように思えた。程よい孤独感を感じさせてくれた場所が、急に世界から孤立した場所へと姿を変えた。  そろそろ帰ろう。明日のことを急に思い出し、げんなりとしたまま家路へとついた。少し前まで一緒にいたはずの女性は、そのころには記憶の片隅に追いやられていた。
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