第3話 変わり始める現実

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第3話 変わり始める現実

 昨日の夜に起こった非現実的な時間は嘘のように消え去り、今日も満員電車に揺られていた。強制的に他者との距離が縮められる空間に早くも嫌気が差す。  まだ一日が始まったばかりだというのに、こんな状態ではとても今日一日を耐えられそうにない。そんな弱音が心を満たしたとき、ふと昨日の散歩の時間が恋しくなってきた。  誰もいない夜の街で一人お酒を持ち、さまよい歩いた時間。その時間はまさに自由そのものであった。そして家の近くの公園で正体不明の女性に出会ったこと。女性に出会ったことはどうでもよかったが、それまでの小さな冒険は今でも僕の心を躍らせてくれた。  女性が家に戻ったあと、僕も気持ちが冷めてしまい家へと戻った。家に戻ったあとは、少しお酒を飲んでから眠りについた。理由はよく分からないが、そのときは女性の提案を忘れようとして必死だったような気がする。女性の約束に興味を惹かれる一方で、ただの冗談だから真に受けるなという反論が、僕の中でぶつかりあっていた。  そして、どうにか忘れようとしてお酒に時間を浪費した結果、昨日買ったお酒はからになり、外もかすかに明るくなり始める時間へとなっていた。それから後悔しながら布団へと潜って僅かな睡眠をとった。完全に寝不足な状態で今日を迎えてしまった。  満員電車による不快感と、寝不足が重なりコンディションは最悪であったが、今のうちにやっておかなければならないことがある。今日は午前中に会社説明会が一社、午後からはグループディスカッションが一件あるのでそれの下調べくらいは必要だ。  午前中は説明会だけなので何も調べる必要もないが、問題は午後のグループディスカッションである。選考が絡むのであれば、さすがに何も調べない訳にはいかない。題材が何になるか分からない以上、会社のことなど少しでも情報は集めておかなければいけない。  本来であればそれを昨日のうちに終わらせるべきなのだが、昨日はどうにも調べる気になれなかった。これだけ就活に苦戦しているのに、一夜漬け以上の適当さで就活をしているのだから我ながら笑える。ある種、今の状況は必然だと言えると感じた。  長いようで短い電車に揺られ、目的地に到着した。外に出ると地下鉄特有の生ぬるさがあたりを満たし、シャツに不快感をにじませた。人の流れに従い、地下鉄から地上へと昇っていく。  外は地下鉄内の湿気を嘘だとあざ笑うかのように、心地よく晴れ渡っていた。初夏の照り付ける太陽と、湿気を感じさせない陽気が再びシャツを湿らせる。  しかしそこに、先ほどあった不快感は存在しなかった。確かに暑さはあったが、それも朝の陽ざしのおかげで不愉快なものには至らなかった。むしろ照り付ける陽気が、心をいくらか軽くしているようにも思えた。  携帯を開き、再度目的地を確認する。場所はここから5分くらい歩いたところにあるらしい。受付開始時間まではまだ30分近く余裕があった。  さすがにそのまま会場に向かう訳にもいかないので、近くのコンビニで朝食を買う。そのまま近くにある公園に入り朝食をとる。  公園のベンチに座り、外の動きを見ていると、その流れがどれほど規則的であるかということを感じることができた。事前に決められたわけではないのに、進む方向に合わせて列がそろっていく。途中から入った人も、それに合わせて移動をする。  そういった人の無意識の規則性に思わず見とれてしまっていた。しかし美しいと思うと同時にどこか退屈だと感じてしまう自分がいた。結局は周りの流れに同調しているだけなのだと思うと、ふと虚しさがこみ上げてくる。 そしてつい数分前までは、僕もその流れの一部だったと思うとより虚しくなる。本当に自分の進むべき場所は今のままでいいのだろうか。目先の義務感に追われて間違えた選択をしているのではないか。思わずそう考えてしまう。  だからと言って、じゃあお前は何のために生まれてきたのだと言われたら、それこそ答えることはできない。偉そうなことを考えているが、ろくに夢すら持てない僕がそれを語るのはあまりにも滑稽であった。  結局今の僕にできることは、何も考えずがむしゃらに進むことなのかもしれない。変に考えたりするから、進むのが遅くなってしまうのだ。それなら一層のこと、何も考えずに進んだ方がよい。その先になにがあるのかは、そこに行きついてから考えればよいのだ。  ふうと一息ついてからベンチから立ち上がる。体を伸ばし、朝の新鮮な空気を体内に取り入れる。そうするだけで、いくらか前向きになれるような気がした。そうして気持ちを落ち着けてから、規則的な人の流れに溶け込んでいった。  歩いて5分程度で会場には着くことができた。入口で身だしなみが崩れてないかを確認し中へと入っていく。受付の女性にできるだけ印象のよさそうな声で話しかける。自分でやっていてなんだが、ひどく媚びを打っているように聞こえて気持ち悪い。それに対して、女性の方も愛想のよい様相で返事をする。  大学名と名前を告げると、下の階に行ってくださいと言われる。近くの階段をおりて、会場に入ると100人近くは入れそうな空間に椅子が綺麗に並べてある。  前側の列にはすでに結構な人数の就活生が座っており、熱心に会社案内を読んでいる。割と時間に余裕をもって来たつもりだったが、周りとのやる気の違いを改めて思い知ってしまう。  それから10分ほど待っていると、司会の人が定刻になりましたので説明会を始めますとアナウンスをする。始めの会社概要などの説明は役員の人が担当しており、いかにこの会社が素晴らしいところなのかを、スライドを使いながら説明していく。  話だけを聞いていれば悪いところなど何もないように聞こえるが、それは表面上での話だろう。自分で勤めているところの良いところだけを話す。それなら良い会社のように感じるのは当然だろう。  本来ならもっと踏み込んだ話を聞きたいと思うのだが、相手側は嫌なところを話す素振りはまったくない。そして周りの学生も嫌な素振りを見せずに熱心に耳を傾ける。その光景が何故だが、僕には受け入れられなかった。役員の話が終わってからは、若手社員の話があり僕たちと歳が近い社員が、会社に入ってからあったことを説明してくれた。お客様に喜んでもらえたのが嬉しかっただの、始めは仕事が分からなくて大変だったが、周りの人が優しく教えてくれというありふれた話が10分ほど続いた。  そのことを妙にいきいきとした様子で話す社員が、今までみてきた就活生と重なって不快感がこみ上げてくる。どうして彼らはこうやって楽しそうな様子を前面に出しながら、話をしているのだろうか。そのせいで妙に白々しい印象を持たれているとは気付かないのだろうか。  それに話を聞いている人たちも、懸命にメモを取りながら話を聞いていると言わんばかりにうなずいたりしている。無個性な恰好に勝手にそろう動作、皆が同じような行動を無意識に行っているさまは、何度見ても慣れなかった。そういった様子を見るたびに、嫌悪感だけが増していった。  どうにか働くにはこの感覚にも慣れるしかない。そうだと分かってはいるが、なかなか慣れることはなかった。ただいつか慣れるということを信じて、ひたすらにその動作に合わせ続けていた。  気がつけば、説明会も最後の質疑応答まで進んでいた。質問があるかという質問に、前列の多数が綺麗に手を掲げる。あてられた就活生は、貴重なお話をありがとうございましたという定型文を毎回重ね、仕事のやりがいや会社の強みを聞いている。その話を聞いているうちにどんどん、気持ちが白けていくのを感じた。  働かなければ思う気持ちは強くあるのだが、いざ来てみたら気持ちが落ちていく。どこかに行きたいと思っていても、いざ動くと歩みが止まってしまう。結局自分がどこに行きたいのか、行くべきなのかがさっぱり分からなかった。  説明会終了後は、アンケートを手早く済ませて会場から出ていく。受付にいた女性に軽い会釈だけして、会社を飛び出した。外は白けた気持ちとは裏腹に、青一色に染まっていた。  どれだけ気持ちが落ちても、時間と予定だけは変わることはない。午後からはグループディスカッションも控えているので、気持ちを切り替えていく。行き先が分からないまま、ひたすら進み続けるしかない。そうやって自分をだまし続けていた。  それからは昼食を済ませて次の会場に向かった。その後、一時間近くグループディスカッションをして会場を後にした。外に出るころには夏の暑さは落ち着きをみせ、空はうっすらと夜へと染まろうとしていた。その一方で、心は午前中以上に疲れ切っていた。  グループディスカッションの結果は言うまでもなく悲惨なものだった。もはや結果を聞かなくとも、どうなるかは想像がついていた。  定刻の15分前ほどについて、会場に案内されると、すでに二人が席についていた。片方は眼鏡をかけた男性で、真面目という言葉だけがくっきりと浮かんでくるような男性であった。もう一人は女性で、採用の人がいるからか不自然なほどに明るい雰囲気を出している。  席に着くと、女性から明るい声で自己紹介をされる。私は社交性がありますよと言わんばかりの積極性で、声をかけてくる。確かに採用の人もいるのだし不自然なことはないのだが、どうにも身構えてしまう。女性はこちらが明らかに引いているのに関わらず、話を続ける。そんな時間が選考の始まる3分前まで続いた。  今回は3人でグループディスカッションをやるのかと思ったが、選考が始まる直前にもう一人男が入ってくる。その男は悪びれる様子もなくどさっと席がつく。見た目もいかにも遊んでそうな風貌で、僕が言うのもあれだがやる気があるのを疑うくらい適当な雰囲気を出していた。  最終的に真面目そうな男と、適当そうな男、それから不自然に明るい女性と僕の4人になった。ぱっとメンバーを見ただけで、嫌な予感がしたが、その予想は的中したとすぐに分かった。  グループディスカッションの内容は、「働くことの意味」という、典型的な内容だった。時間は1時間で時間配分などはこちらに任せるという内容だった。始まるとさっそく口を開いたのは女性で、司会やタイムキーパーを決めたいとのことだった。これもお決まりのような展開だったので、誰も否定せず話は進んでいく。  こういう場面も採用の評価になるかは分からないが、ここで積極的に動く人は多かった。現に就活のガイダンスなどでも、そういった場面には積極的に動いて、好印象をもってもらえという話をよく聞いた覚えがある。  案の定、提案者である女性が司会をやりたいと言い出す。そう言われたからには誰も断ることができず、女性が司会になる。それからは女性の仕切りで話が進んでいき、真面目そうな男がタイムキーパー、僕が書記になった。  役割が決まってからは、まずは一人ひとり考えてみるということになり、10分間時間を設けると女性が決めた。それからはタイムキーパーの経過時間を言う時以外は、静かな時間が続いた。  実際に自分でも働く意味について考えてみる。しかしこの問題も、自分の夢と同じように答えなどいえそうにない。僕が仕事をしたいと思うのは、ここではないどこかに辿り着きたいという思いからである。働くというのはあくまでもその手段であり、そこに意味などは考えてもいない。  もちろんそんなことを言えば、この場が凍りつくのは間違いないので言うつもりはない。しかしそうなると、なんと言えばいいか分からないのも事実だ。結局は気の利いた答えが浮かばない10分間を過ごした。  それから各々が自分の意見を述べだす。答えに迷った僕は、社会的常識や個人のスキルアップと言った我ながらつまらない回答に逃げた。僕が話している間、面接官がなにかを書いているのが見えたがそれは気にしないようにする。  眼鏡をかけた男も僕と同じようなことを言っていた。そして女性は、今までお世話になった社会への恩返しだの、感謝のためだとうすら寒いことをはきはきと話している。ある意味ではここまでの回答は予想することはできた。  最後に不真面目そうな男性の回答であったが、これは意外なものであった。自分にはこうしたいという目的があり、そのためにこの会社で働きこのスキルを身に着ける。それを身に着けてから自分で独立していくということを淡々と話している。  これを聞いていた面接官が感心した声を出し、紙に何かを書いていく。正直面接官がいる前で独立宣言をするという発言はどう考えてマイナスイメージを持たれると思ったが、具体的な目的と手段が開示されていることが大きかったのだろう。かなり好印象をもらえたようだった。  僕自身、彼の話を聞いて今まで感じていたイメージが大きく変わった。思い切りの良さにも驚いたが、なにより目標が明確なことに関心を覚えた。ただ周りのように夢を語るのでなく、その夢のために必要なことを冷静に話す。これは自分の目指す場所が明確でないとできないことだと思う。そういった芯の強さに一種の憧れを抱いた。  それぞれの意見が言い終わったのを機に話し合いが始まる。僕自身としては全く自分の意見に思い入れがなかったので、男性の意見に賛成する形でいいのかなと思っていた。少なくとも自分の意見や、女性の言った感謝などよりはかなり好感を持てる。  しかし話し合いが始まってしまうと、そんなことを発言する気にもならなくなってしまった。より正確に言うなら、僕の主張が通ることが一切なかった。  これで意見が出揃いましたね。と女性がその場を仕切り始める。それから、まず私から意見を言わせていただいてもいいでしょうかと提案される。司会ならそこは譲るべきではないかと思ったが、特別意見が言いたかったわけでもないので気にしないでおく。  しかしそこで、女性に発言権を与えたのが間違いであった。女性は、皆さんの意見はそれぞれ素晴らしいものだと思いましたと切り出す。ただどの意見においても、その根底には感謝が含まれていると私は思いました。感謝があってこそスキルアップをしたいと思うのだろうし、夢や目的があるのだと思います。だから最終的には私の言った、社会への感謝が大事になると思うんですよ。どう思いますか皆さんということを、べらべらと話し続ける。  話を聞きながらこの人は何を言っているのだと思い周りを見てみたが、他の二人も同じような顔をしている。要は私が正しいと思うけど、どうかなということだろう。こんなのもは話し合いにもなっていない。女性が自分の意見を正したいだけのエゴだ。  さすがに周りもまずいと思ったのか、眼鏡をかけた男性が、それを一色淡に考えるのはどうなのだろうと提案する。それに対して女性は、スキルアップをした結果、社会への恩返しになるのだし本質では同じだと思う否定していく。  僕自身も感謝があるのはいいとして、それがすべてだというのは、違うのではないかと言ってみる。それに対しては、結局は大切なのは感謝だ。個人はあくまでも、感謝の中の一部分でしかないという意味の分からない反論をくらう。あまりにも自分本位の意見に、反論する気もなくなってしまう。  最後に残った男性も、確かに感謝の念もあると反論を切り出す。ただ自分の目的の中に感謝があるのであり、一番大切だと思っているのは自分の夢を叶えることだという。個人の夢を達成できて、初めて感謝にもつながるのだと意見を述べる。  もちろんその意見に対しても女性はやんわりと否定を述べていく。順番はどうであれ、感謝の気持ちがあるならそれでいいじゃないかと、もはや支離滅裂な発言を繰り返す。  話は聞いているような振る舞いはしているが、結局は自分の意見を変える気はないようだ。これではディスカッションというより、女性の一人舞台であった。  周りも引き続きささやかな反論を繰り返すが、どれも女性の意見覆すことはできなかった。それに伴い、真面目に反論するのも馬鹿らしくなり口数は減っていった。  女性は口数が減ったのは自分の意見を認められたからと思ってか、さらに自分の意見を話し始める。今の人には感謝がないだの、皆が感謝の気持ち持てば社会はもっと良くなるなどうすら寒いことを目を輝かせて話す。  人の意見を聞かないことはもちろんだが、自分の意見は絶対に間違えていないという驕りが強く伝わってくるのが無性に気に入らなかった。なにより悪いことが、それを無意識のうちに行っていることだ。人を陥れるための意見ならまだ納得の余地はある。しかし女性にはそんな意思を一切感じない。無意識な驕りほどやっかいなものはない。  女性が一人で演説を続けるなか、遊んでそうな男性だけが女性の話にうまく割って入っていく。どれだけ頑張っても意見を変えることはできないが、うまいこと自分の意見を入れていき、話し合いに参加しているような雰囲気を作り出していた。そういった器用さにも思わず感心してしまった。  結局話し合いに大きな変化が訪れることはなく、女性の独壇場で話は終わりを迎えた。気がつけば、僕は相槌をうつだけでまったく話し合いに入っていなかった。  面接官の人から終了の声かけが発せられる。それから発表する人を一人選んでくださいと言われ再び時間が設けられる。  いうまでもなく、女性が私が発言したいと名乗り出てくる。ここまでふてぶてしいともはや笑えてくる。どうでもいいという意もこめ、どうぞと肯定する。周りも諦めてか否定をする様子はない。  それから女性が話し合いの結論を話し始めるが、それがまた笑えるものであった。始めに僕らが出した意見のことはまったく触れず、自分の意見だけを話していく。しかも全員が私の意見に賛同してくれたという虚構までそれられている。  さすがにここまで滅茶苦茶なことを言うと、面接官も愛想笑いをしている。面接官ももう少し周りの意見がなかったか、女性に聞いてみる。それに対して女性は、少しはあったがさして重要なものではなかったので説明を省いたと言い張る。  それを聞いた面接官がメモを書いてから、やんわりともう結構ですと告げる。女性は満足そうに席についた。あの話からどう自信を持てたかは不明だが、女性的には納得のいくものだったらしい。  選考がすべて終わった後に今後の選考の流れを説明される。通過なら一週間以内に連絡が来て、もし不合格なら連絡がないというシンプルなものであった。正直もう受かるとも思ってなかったので、何も書かず適当に話を聞きながした。  選考についての話も終わり、ようやく全行程が終了する。面接官とメンバーに形だけのお礼をして足早に会社から出る。とりあえず今は、一秒でも速くこの場所から立ち去りたかった。  茜色が失われつつある空を見ると、なぜだかどっと疲れが押し寄せてきた。3月から就職活動を始めて、もう4ヶ月は経つがいまだに選考に慣れることはない。1日が終わると、毎回似たような疲労感に襲われる。  疲れ切った体に鞭をうち、帰りの電車に乗り込む。夕方ということもあり、電車の中は人で溢れかえっている。しかし朝とは違い、一日が終わった充実感に満たされている人と、疲労感から殺気立っている人の二極に分かれている。僕はいうまでもなく後者の方である。いまだに内定が決まらないという焦りと、今日の内容を思い返すだけではらわたが煮えくりかえってくる。どうしてあんな身勝手な人間と一緒になにかをしないといけないのか。そんなことが脳裏をよぎり、心底人にうんざりしてしまう。あれなら一人で何か仕事をした方がましである。  そうして疲弊しきった精神にこの人混みである。自分で言うのもなんだが、これで正常でいろと言う方が無理な話である。考えがマイナス方向に働けば働くほど、気持ちは暗くなっていく。そうなってしまうと後は荒んでいく一方だ。周りにいる人間すべてが憎悪の対象になっていく。  せっかく長い一日が終わったと言うのに、気持ちが晴れることはなかった。電車から家に帰る道のりも、周りに対する不満と苛立ちが付きまとい続けた。  永遠にも感じられる道のりを経て、ようやく家に辿り着く。このままだといつまで経っても気が晴れそうにないので、とりあえずシャワーを浴びることにする。なにも考えずに熱いシャワーを浴びていると、汗とともに体に付きまとう感情も流されていくような気がした。シャワーを浴び終えたころには、だいぶ気持ちがすっきりしていた。  そのあとにすぐに強い眠気がやってくる。自分では気づかなかったが、想像以上に疲れていたようだ。その欲求のままに布団へ倒れこみ、眠りへと落ちていった。  それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。再び目を覚ましたころには疲れや気分の落ち込みはほとんどなくなっていた。外を見るとまだ暗く日が変わっている様子もない。時計の方に目をやると夜の23時過ぎを示していた。  23時。そういえば何かの時間だった気がする。寝起きでぼんやりしている脳で考える。しばらく考え込んでから昨日の出来事が浮かんでくる。昨日の夜公園で出会った謎の女性。彼女は23時半から0時半くらいの間に公園にいると言ってことを思い出す。  そのことを思い出すと、本当に女性がいるのか確かめたい思いに駆られる。昨日はどうせ悪戯だろうと決めつけていたのに、急に行ってみたいと思うのも皮肉な話である。  もしかしたら寝起きで思考が定まらないせいで、正常な判断が出来ていないのかもしれない。もし昨日の話が悪戯で、公園に誰もいなくても今なら笑い話として受け入れられそうだ。  結局僕は、女性の宣言通りに公園に向かおうと決めていた。あの人の言う通りになっているのは気に入らない気がしたが、今は考えないようにする。それから昨日買ったウイスキーを片手に家から出ていく。  外に出てみると、昨日と同じく心地よい空気が体を包み込む。その感覚が昨日と同じで、女性がいるのが真実のように思えてきた。  昨日の行動をたどるというわけではないが、そのあと近くにあるコンビニへと立ち寄る。シャワーから出たあとすぐに寝たこともあり、すっかり空腹になっていた。コンビニで軽い夜ご飯とつまみを買い、店から出る。  コンビニを出て5分程度で例の公園へと辿り着く。昨日きたばかりであることと、家の近くということもあり、道に迷うことはなかった。  公園に入り、昨日女性が座っていたベンチへと進んでいく。相変わらず周りは暗くはっきりと確認することはできなかったが、ベンチに腰掛ける誰かがいるのは分かった。  ベンチに近づくと「や、待っていたよ青年よ」と昨日と変わらない口調で声をかけられた。女性は昨日と同じようにラフな恰好をしており、隣にはいくつかの缶が入った袋が置いてある。  「やっぱりお姉さんの予言通り、君はここに来たね。私占い師になれるかも」  女性は嬉しそうに自分のことを褒める。来ると思っていたと宣言する割に嬉しそうに見えた。多分だが本当に来るとは思ってもいなかったのだろう。僕自身だって正直、ここにきた理由をうまく説明することはできない。  「昨日は絶対来ると言ってた割には嬉しそうですね」  嫌味っぽく言ってみると「別に、そんなことないもんね」と女性もわざとらしく膨れて見せた。なんだかその姿が馬鹿らしく思えて自然と力が抜ける。  力が抜けてきたことにより、自分が空腹状態だということに気がつく。そのまま女性の隣に腰掛け袋からおにぎりを出して食べ始める。  「あ、今日はお酒じゃなくて食べ物になってる。今日はお酒飲まないの。あと私にはお土産はないの」  「まだ夜ご飯を食べてなかったから、先に食べているだけですよ。お酒だって昨日の残りがあります」  そう言いながら、女性に適当にいくつかおつまみを渡す。女性は嬉しそうに受け取るが、すぐさま微妙な顔になる。どうやら内容に不満があるようだった。  「もうちょっと甘いものはないの。なんだかどれもおやじ臭いよ」  「酒のつまみなんですから、塩気がある方がいいじゃないですか。文句があるなら自分でチョコでもなんでも買ってきてください」  「えー、ひどいこと言うなー」  女性は文句を言いながらもつまみの袋を開ける。それからつまみを食べながらお酒を飲み続ける。確かにお酒飲むなら塩気がある方がいいかもねと、結局は美味しそうにつまみを食べている。  文句を言ったかと思えば、それを美味しそうに食べる。本当に気分がコロコロ変わる人だなと改めて思う。そんなことを考えている間に晩ご飯が終わる。僕も女性に合わせお酒を飲み始める。  「それで今日は何の話をしようか」  僕がお酒を飲み始めるのを待っていたのか、女性が話を切り出す。  「君はなんかいい話のネタある。あ、でもプライベートな話は禁止ね」  「そうやって話を振られると、なかなか出てこないですよ。そもそもプライベートな話が禁止って具体的にどれくらいのものがダメなんですか。まずはそこらへんを決めないとどうにも話しにくいですよ」  「プライべートな話はプライベートな話としか言いようがないよ。例えばどこに住んでいるとか、何の仕事をしているとか。あまり個人に深く関わる内容は基本禁止かな。あとは個人の判断でってことで」  「随分と曖昧な定義ですね。でもそうなら、あなたが昨日僕にした質問攻めは全部禁止という訳ですよ」  「お、痛いところついてくるね。けどあれはまだこの条件を提示する前だったからセーフだよ」  女性がよくわからない理論を述べながら得意げになる。なんだか詐欺師が使いそうな手法で逃げられたような気がする。  「……じゃあ何でこんな公園でお酒を飲んでいるんですか。これくらいの質問は大丈夫ですか」  「うーん、その質問は黙秘かなー。あ、でもお酒は最近飲むようになったんだ。今までほとんど飲んでなかったんだけど、飲んでみると意外といけるものだね」  なんだか質問の本質を反らされた気がするが、気にしないことにする。  「青年は何かおすすめのお酒とかある。せっかくだから色々飲んでみたいと思ってるんだよね」  「僕は基本的にウイスキーとかしか飲まないですよ。後は日本酒とか焼酎とかくらいですね」  「なんだかおやじ臭いよ」  「こんなところで一人でお酒を飲んでいるあなたに言われたくないですよ。それにお酒飲むときは、早く寝たいときやイライラしているときが多いから必然的に度数も上がってくるんですよ」  そう自分で言っていて改めて自分のことを把握できた気がする。確かにお酒を飲むのは、忘れたいことがある日や、イライラしている日が多い気がする。そもそも人とお酒を飲むことがあまりないので、どうしても不健全な飲み方になってしまうのだ。  「なんというか、心中お察しします」  よほど思いつめた顔をしていたのか、女性から慰めの言葉を受ける。  「別にそんな不幸だと思ったことないでよ」  「そっか。それはいいことだ。それにお姉さんと出会たんだし君はむしろ幸運なのかもしれないね。これからはお姉さんが一緒にお酒を飲んでしんぜよう」  女性がおどけた態度で話を続ける。その提案に、こんな身元不詳な人とは飲み仲間にはなれないと適当にあしらう。女性はわざとらしくふくれて見せ、また別の話を切り出す。  そうやって他愛もない話をひたすら繰り返した。女性が冗談を言い僕がそれを適当にあしらう。約束通り互いの素性には踏み込むことはなく、生産性のない話をひたすら続けていった。  最初はわけの分からない提案だと思ったが、実際にやってみると思った以上に楽しんでいる自分がいることに気がついた。思うにどうでもいいことしか話していないから、思考を空っぽにして話せるのが良いのだろう。  また互いのことを全然知らないことにより、無理に取り繕わなくてよいという点もよかったのかもしれない。そういったある種の生ぬるさというものが今の僕には必要だったのかもしれない。  彼女との時間はあっという間に過ぎていった。気がつけば一時間近くが経過しており、約束の時間になっていた。  「おっと、もうこんな時間か。そろそろ私は帰ろうかな」  女性がどっこいせとおやじ臭い声を出しながら立ち上がる。今日もそれなりにお酒を飲んでいたが、特別酔っている雰囲気はなかった。初めて会ったときに言っていたように、本当にお酒には強いのだろう。  正直もう少し話してみたいという気持ちは残っていた。しかし、ここでもう少し話しませんかというのも躊躇われる。会って二日目にして、すっかりこの時間にはまってしまっていると思われるのも嫌だし、何より僕自身がそんな軽い人間だと思われたくなかった。  結局僕もじゃあ帰りますね、そそくさと公園を後にした。後ろからはじゃあまた明日ねーと軽い声が聞こえてくる。僕は気が向いたらまた来ますと、強がった返事をした。  しかし自分の中でも、これは形式的な反論にしか過ぎないということは分かりきっていた。僕はそれが女性に悟られないよう、後ろを振り向かずただ真っすぐに家への道を進んでいった。家についたころには、一度家に帰ったときにあった嫌悪感はすっかりなくなっていた。
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