第6話 暗雲

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第6話 暗雲

 女性と会うのをやめると決めてから早くも2ヶ月が過ぎた。最期に会ったときにはできる限り早めに戻ってくると言ったが、いまだに公園に戻る目処はたちそうにない。  どれだけ必死に取り組んでいても、一向に様子が変わる気配はない。心の奥底では、就職活動だけに専念したらすぐに結果が出るだろうという甘い考えがあった。しかしその思いすら打ち砕かれた僕は本格的に追い込まれていた。  女性と会わなくなってから代わりに工藤と会う頻度が増えたが、工藤とも会わないようにした。いまだに内定が得られないのは、まだ就職活動だけに専念できていないからだという儚い期待を込めて、できる限り他の物事から遠ざかるようにした。  今までは工藤との定期的な息抜きのおかげで、かろうじて平常心を保てていた。しかしそれすら切り捨てた僕は、驚くような速さで衰弱していった。  がむしゃらに自分を追い込んでいく中で精神的に追い詰められた僕は、最終的にはお酒へと逃げ込むようになった。女性とも会わない、工藤とも会わなくなった今、頼りになるのはアルコールしかなかった。一人でいることが好きな割には、結局は人に依存しているのだということを思い知らされた。  一日の終わりになると、一向に結果が見えないことに対しての焦りと怒りがこみあげてきてすべての作業が億劫になった。寝ようと思っても負の感情が心を満たし、眠ることが出来なかった。  どうにかしてその感情を忘れて眠れるように、寝る前にお酒を飲む習慣ができた。半端な量だと意識が鮮明なままなので、度数の強いものばかりを選び意識がなくなるまで飲み続ける。そうして自分の意識を強制的に落としていった。  当然そのような飲み方を続けていたので、次の日にも影響をきたすようにもなる。朝に起きられない日が増えてきたし、起きても頭痛や吐き気に襲われ、ろくに動けない日もあった。  その結果、事前に予約していた説明会や選考を休むことを増えてきた。そうして一日を無駄にしてしまった自分に対しての、嫌悪感が芽生える。さらに焦りが上乗せされ、余計に追い込まれていく。その感情から逃げ出すようにお酒をあおる。そうした負の連鎖が続くようになった。  早く結果を出さなければという焦りが、余計に結果から遠ざけるような行動を引き起こす。心の中では矛盾していると分かっていたが、それでもお酒を飲むことをやめることはできなかった。  そうした悪循環を繰り返すうちに徐々に自分の決意が薄れてきていた。弱り切った心の片隅で女性の子供っぽい笑顔がよぎる。いつものような子供っぽい口調で無駄話をしたかった。女性に会いたい。気がつくと自然と口からそうこぼれていた。  実際に口に出してしまうと、自分の気持ちを抑えることができなくなった。結局僕は自分の決意を裏切る形で女性に会いに行くことを決心してしまった。  ただ自分で結果が出るまで会わないと言った手前、そのまま女性に報告もできない状態で会いに行くのも恥ずかしかったので、お酒を飲み酔いが回るのをまった。今回ここに来たのは酔った勢いだと言えるよう、今のうちに言い訳を仕組んでおいた。  程よく意識がまどろんだタイミングで、家から飛び出した。公園に向かう途中、初めて会ったときと同じようにウイスキーを購入して裸のまま持ち歩く。前にこうした一人で歩いていたときはひどく寂しい姿を想像したが、今は疲れ切っていることもあり、より哀れな姿に映っているような気がした。  公園に近づくにつれ、徐々に緊張が高まっていく。久しぶりに女性に会えることに対して、楽しみな感情もあったし緊張にしている感情もあった。その感情を抑え込むようにウイスキーを口に流し込む。さらに意識が輪郭をなくし緊張感が薄れる。  それから間もなくして公園の入口にたどり着いたがふと根本的な問題に気付く。女性は今日いるのだろうか。ここに来れば女性に会えると当たり前のように思っていたが、本当に今もいるのだろうか。  最期に会ってからもう2ヶ月以上が経過している。それに最後に別れたときに次はいつ来ると言うことは宣言していない。女性の方はまだ僕の内定がもらえていないと思いここにきていないかもしれない。  それ以上に問題なのは、女性がもうここに来る気がなくなってしまうということだ。あれから結構な時間がたつのだし、他になにか大切な用事が出来ている可能性があった。結局僕と女性との関係なんて、それだけ崩れやすいものなのだ。  入口で様々なネガティブなイメージが浮かび上がる。ここ2ヶ月の間に前以上に物事を卑屈に考える癖がついてしまった気がする。  そうした考えを忘れるようにもう一口、お酒を口にする。卑屈に物事を考えるようになっただけでなく、困ったときにすぐお酒に逃げる癖もついた気がする。  色々な不安を押し殺して公園へと入ったが、あれこれ悩んでいた時間はまったくもって無意味な時間であった。いつものベンチで、2ヶ月以上前とはまるで変わった様子なく、女性はベンチに腰かけていた。  僕は久しぶりにこみ上げてくる嬉しい感情に表に出さないよう女性の元へ向かう。僕の存在に気付いた女性が「やあ、青年」と初めて会ったときと変わらない言葉で声をかける。しかしその声には以前のような透明感を感じることが出来なかった。  「どうもお久しぶりです。今日もいるとは思いませんでしたよ」  「私は義理堅い女だからね。ちゃんと青年がここに来る日を雨の日も台風の日も待っていたのだよ。まるで戦場から旦那が帰ってくるのを待つ新妻のようにね」  いつもと変わらぬ口調で女性がおどける。その様子に今までの精神的疲労をいくらか飛んでいく。僕が求めていたのはこの緩い冗談であった。  「それで青年よ。ここに来たということは無事に就職活動は終わったのかな」    女性の質問に一瞬、口が詰まる。しかしすぐに答えは返していた。  「いや、それが恥ずかしい話なんですけど、全然終わりそうにないんですよ。本当はすべて終わってからここに来るつもりだったんですけど、どうにも疲れちゃってあなたに会いに来ちゃいました」      酔った勢いでここに来てしまったと言うつもりが、結局本音を言いきってしまった。何故だか女性に会えた途端、僕の中のプライドなどどうでもよくなってしまった。  「そうだったのか。まあ決まっていないものは仕方ないよ。別に先はまだまだ長いんだし、ゆっくりでもやっていけばいいと思うよ」  女性からの慰めに思わず涙が流れそうになる。思えば就職活動に専念して選考に落ちるたび、自分の存在を否定されている感覚ばかり味わっていた。お前は社会には不要な人間だと突きつけ続けられる日々が続いていた。こうして素直に自分のことを肯定されたのは随分久しぶりな気がする。  「そんな素直に慰められるとどうしたらいいか分からなくなっちゃうじゃないですか。あなたらしくないじゃないですね」  「なによー、私だって人を思いやる心くらい持っているわよ。それに最後に会ったときだって心配してあげていたでしょ」  女性がむくれた様子で反発してくる。      「まあ、そんな青年の無礼も久しぶりなので許してあげましょう。なんたって私はお姉さんだからね。それより、お話ししましょう。私も最近いろいろあって疲れているの。気分転換をしようよ」  甘えた様子で頼み込んでくる。そのしぐさは今までに見たことのないようなもので新鮮に感じた。それに女性の口から、自分のことを話題にあげることも珍しい。最期に自分のことを話したのは絵本を描きたいと言ったときである。  「自分からそんなことを言うなんて珍しいですね。差支えがなかったら話でも聞きましょうか。的確な答えは期待できないでしょうけど」  女性からこぼれ出た弱気な発言に、思わず踏み込んでしまう。口にしてから、また約束を破ってしまったなということに気がついた。この質問は明らかに個人的な内容にあてはまってしまう。  「うーん、人間関係かな。会社で色々とトラブルがあって今大変なんだよね」    予想に反して女性が理由を明かしてくれる。女性は自分が決めた約束を破っているのを自覚しているのかは分からないが、理由を話し続ける。  「まあ、細かい理由を今言う気はないけど、どこにでもありそうな話なんだよ。残念なことに人は独りでは生きていけないのよね。だからどこに行ったって、人間関係に振り回されることになるんだよ」  女性が深いため息をつく。その今まで見たことのない姿を見て、ようやく女性の異変に気付けたような気がする。  確かに口では深いところまで話すつもりはないと言っているが、明らかに自分の愚痴を聞いてほしいように見えた。それに以前に会ったときよりも、元気がないようにも見える。見た目も前に会ったときよりも少し痩せたように思える。  「おっとごめんね。なんか変な雰囲気になっちゃったね」  「別に気にしていないですよ。話して少しでも気が楽になるなら、いくらでも聞きますよ。それに話したくないなら無理に話す必要もないですしね」  「随分と恰好いいことを言ってくれるね。お姉さん惚れちゃいそう。じゃあ気が向いたらまた愚痴でも聞いてもらおうかな」  女性が軽口をたたくが、それが無理をしているのは何となく理解できた。そんな女性の姿を見ていると思わず手を差し伸べたくなってしまう。   話くらいならいくらでも聞くと言ったのは、もちろん女性に対する点数稼ぎという下心もあった。しかしそれ以上に、今の姿を見ていられないというのもあった。女性の弱音を吐く姿に違和感のようなものを感じたのだ。  「今日は久しぶりに青年と会えたことだし、二人で思いっきり話し込もうじゃないか」 女性が明るい声で仕切りなおす。それからは二人で無意味な話に花を咲かせた。完全に元の調子とまではいかなかったが、先ほどの落ち込みようはだいぶなくなってきたように見えた。  僕自身、久しぶりに味わう女性との時間に心が安らぐのを感じた。そうした安らぎを覚えるのと同時に、今までやってきたことがすべて馬鹿らしく思えてきた。僕の中で一つの考えが膨らみ始める。  それからの時間はあっという間で、気付けばいつも解散する時間を少し超えていた。そういえば予定の時間を超えるのも今回が初めて気がする。  「今日は久しぶりだから話しすぎちゃったよ。そろそろ解散しようか」「そうですね。……あの、明日もこの公園に来ますか」  口にして思ったが、こうして直接明日以降のことを聞くのは初めてかもしれない。今までは約束もなしに公園に向かい、いたら一緒に話す程度のスタンスであった。あくまでも偶然上の関係であり、二人の間に約束というものはない。明日来なければそれまでの話だった。その関係すら変わろうとしていた。  「もちろん私はここにいるよ。だからお姉さんのことが恋しくなったら、いつでも会いにくるといい」  女性が両手を広げて、どんと来い胸を張る。もう少しお酒に酔っていたら迷わず飛び込んでいた気もするが、さすがにそこまで意識は朦朧とはしていなかった。  女性と公園で別れた後、まっすぐ家に戻りすぐさまパソコンを立ち上げる。そして今現在予定に入っている就職活動の予定を全部キャンセルした。次の日にも予定があり、それはキャンセルすることはできなかったが、それは無断で休めばよいだろうと自分で決め込む。  そして予定が真っ白になったカレンダーを見て気分がよくなり、もう一度お酒を煽った。それから心行くまでお酒を飲み、意識は自然と落ちていった。  この日を境に僕は就職活動を一切行わなくなった。  昔から特別仲の良かった友達はいなかったが、まったく友達がいなかった訳ではなかった。特に幼い頃は最低限度の社会適合性は持ち合わせていたので、複数人で遊ぶこともあった。  僕たちの世代になると、遊ぶ時に外で体を動かすというより、誰かの家に行きゲームをやるということの方が多かった気がする。もちろん僕も例外でなく、よく誰かの家に集まってゲームをやっていたものだ。  その数少ない友達の中でも高校まで一緒の学校に通うことになった幼馴染が一人いた。その幼馴染の家は教育熱心ということもあり、ゲームを買い与えてもらえていなかった。僕たちには身近なゲームでも、やはり親からすればゲームはよくないものだと考える親が多かったのも事実だった。  家にゲームがなかったその子は、家でゲームができないこともあり、一緒にゲームをやっているときは誰よりも熱中していた。帰る時間になってもゲームから離れようとしなかったことを今でも覚えている。  そうやってゲームをずっと禁じられていたその幼馴染は、高校に入ってからようやく自分のお金でゲームを買うことができた。すると今まで自由にゲームをできなかった時間を取り返すように、ゲームに没頭するようになっていった。  同じ学校に通ってはいたが、その頃には疎遠になっていたからほとんど話すことはなかった。ただゲームを買ったと聞いてから、彼が学校に来る回数は確実に減っていった。そして卒業を迎える時には、その場に彼はいなかった。周りの話を聞く限りだと、不登校になり最終的には中退したようだ。  彼の親は我が子のことを思い、ゲームをやらせないようにしたのだろう。しかしそうやって押さえつけた結果、自由になってからの反動が大きくなり彼の人生を狂わせた。結局、相手のことをいくら思っても必ずしもそれが良い結果に繋がるとは限らない。  そんなことを、布団に横たわりながら考える。どうしてそんな昔のことを今更思い出すのだろうか。外では前まであった熱気が消え去り、過ごしやすい日も増えてきた。季節は確実に秋へと移り変わろうとしている。  ぼんやりと考え事をしている中で、昔のことを思い出した理由が分かった。エアコンが効きすぎた部屋で、自堕落に過ごす自分と、ゲームにはまり過ぎて学校に来なくなった幼馴染が重なっているように思えたのだ。 2ヵ月以上も就職活動だけに力を入れてきたが、その反動が返ってきたかのように今の僕は無気力に日々を過ごしていた。もちろん僕以上に努力している人間はいるのだろうが、僕はそこまでストイックに自分を追い込めなかった。  あれほどにまで、どこか遠くに辿りつきたいと思っていた焦りは消失し、何事にも関心が持てないからっぽの側だけが残った。昼過ぎまで惰眠を貪り、起きてからもじっと天井を眺め時間が過ぎていくのを待った。  就職活動と言う大きな目的を失った僕に残っていたのは、女性との逢瀬だけだった。その時間だけが僕にとってのすべてであり、それ以外の時間はただ経過を待つだけの退屈なものになっていた。   もちろん実際にはやらなければいけないことはいくつもあったが、その全てをないものとして扱った。夏休みも終わりゼミは再開している。そこにも顔を出さず、ひたすら家に引きこもっていた。 本来なら欠席連絡の一つでもしなければいけなかったが、それすら僕は行っていない。それでも教授から直接こちらに連絡が来ることはなかった。  これは単純に僕が教授から忘れられたのではなく、工藤が気を使って教授に報告をしてくれているからである。  就職活動をやめてからも、変わらず工藤からご飯やドライブの誘いはあった。僕はそれすら無視し続けていた。しばらく連絡は続いたが、僕が無視を貫いていたら、次第に連絡の回数は減ってきた。 それからは最低限度の事務連絡だけが来るようになった。工藤なりに今のやり方ではいけないと察したのだろう。しばらく放っておこうと決めたのだと思う。    その事務連絡の一環にゼミがもうじき始まることや、来ないなら適当に欠席理由を取り繕っておくという連絡があった。もちろんこの連絡にも返信はしていないが、それをゼミに来ないと解釈したようで工藤の方から適当な理由を教授に説明したという事後報告が入ってきた。   あの淡泊な工藤がどうしてそこまで僕に気を使っているかは不明であったが、その理由など今はどうでもよかった。形の上では問題なくゼミを休めているという事実にしか関心はない。それに仮に工藤がこうした気づかいをしなくても、僕は無断でゼミを休んでいるだろう。今は女性といる時間以外のすべてに興味が沸かなかった。  そうして女性のことだけを考え、夜が来るのを待ち続けた。女性と二人でいる時間は瞬く間に過ぎていくのに、こうして夜が来るのを待っているのは恐ろしいほど長く感じた。  時間は必要と思う人には短く、不要だと思う人には長く与えられるものだと感じた。最もそんなのは個人の感覚であって、時間そのものは絶対的な平等であるのだが。  昼間の時間が苦痛になる代わりに夜が来たときの喜びようは、日増しに強くなっていった。女性のことを思う時間が増えるほどに、余計に他のことに考えが回らなくなった。  一見悪循環のようにも思えたが、それでも僕は構わない。いっそのこと落ちるところまで落ちたいとまで思うようになっていた。   そうして一人、思考の渦に飲まれている内に日は落ち約束の時間が近づいてきた。本来であれば予定より早く公園に向かい、女性に早く会いたいという想いもあった。それでも僕は、あえて早く公園に行くということはしなかった。  今更な話な気がするが、女性にあまり熱心に会いたがっていると思われるのが恥ずかしかった。あくまでも暇つぶしの一環でここに通っているという体裁で公園に向かっていた。毎日来ている時点で、楽しみにしているのはばればれだろうが、それを隠さずにいられるほど僕は大人ではなかった。  早く公園に向かいたい意思を抑え、目的の時間になるのを待つ。そして時間になったのを見計らって家を出発する。これが毎回の流れになっていた。お酒やつまみは日中の暇な時間に買っているので、真っすぐ公園を目指す。文字通り全ての時間を、女性との時間のために使用していた。  いつも通り公園に辿り着くと、女性はすでにベンチに腰かけており、一人でお酒を飲んでいる。僕のことに気がつくと、大げさに手を振ってくる。様子から察するにすでに結構の量を飲んでいるのだろう。  「もう、遅いぞ青年。社会人は3分前行動が基本でしょ。そうじゃないと働いていくことなどできないぞ」  「別にまだ社会人じゃないんで問題ないですよ。就職活動もしばらくはお休みです」   酔っ払いのような絡みに、できる限りそっけなく見えるように返答する。  「もうこの時期だったら、夏休みも終わっているでしょ。けど、また前みたいに就職活動に集中されてほったらかされるのも寂しいからいいけどね。また気が向いたら始めたらいいんだよ。それよりも早く座って君も飲もうじゃないか」      女性が甘えるように手招きしてくる。内心舞い上がりそうなのを抑えながら、女性の隣に腰をおろす。それからつまみに買ったスルメを広げると、女性がすぐさま手をのばす。この流れもすっかりお決まりになってしまった。  「しかし前に言ったと思うのだけど、君のつまみのチョイスはいまいち親父臭いよね。もう少し私に気を遣って可愛らしいつまみにしてくれてもいいのだけど」  「文句があるなら食べないでくださいよ。と言うよりたまには自分で持ってきてください。それにスルメを頬張っている姿も様になっていますよ。いい塩梅に親父臭くさくて」  「ちょっと、それがレディに対して言うことですか。そんなんじゃモテないわよ。……まあ、お姉さんは大人なのでそれも許してあげましょう。それより最近は学校はどうなの」  再び女性と逢瀬をするようになってから、いくつか変わったことがある。一つは今のように僕のプライベートに対して踏み込んだことを聞いてくるようになったことだ。僕が女性に対して踏み込んだことを聞くことを禁止されたように、女性自身も僕の私生活について尋ねてくることはほとんどなかった。  その二人で会う上のための前提が崩れてきていた。これが女性が意図して行っているのか、約束を忘れてしまってそうしているのかは分からない。  正直な話、今の僕にはその約束のことなどどうでもよかった。僕自身、前ほど女性に自分のことを話すことに抵抗がなくなっていた。それよりもむしろ距離が近づいていると感じ、嬉しいくらいである。  「最近は学校もさぼってますよ。就職活動が夏季休暇なのでそれに合わせて延長中です」  僕がふざけた口調で話すと、女性がうわーと言いながら笑う。  「青年は不良だね。これからは青年じゃなくて不良青年と呼ばなきゃね」  「別に周りの人に迷惑をかけていないので不良ではないでよ。不真面目なだけです」  「じゃあ不真面目青年と呼ぼう。それで不真面目青年は学校を休んでも平気なのかい」  「いや、正直なところ微妙なラインですね。もともと卒業論文はそこまで熱心にやっていなかったので、そろそろ本腰入れないと危ないかもしれないです。だけど、どうしても学校に行く気になれないんですよ。こんなのただの甘えなんでしょうね」  思わず弱音が漏れてしまう。自分で話しながらどんどん気持ちが落ち込んでいくのが分かった。改めて現実を知ると、落ち込まずにはいられなかった。  「そんなに深く考えなくても大丈夫だと思うよ。前にも言ったかもしれないけど、そうして自分のことで悩んだりできるのは今しか出来ないことだと思うしね。それに一年くらい留年したって学費以外は困りはしないさ」  最近は女性に対して弱音を吐くたびに、こうして慰められている気がする。毎回こうして慰められると分かっていながら、つい弱音を吐いてしまうのかもしれない。こうして女性が僕のこと心配してくれることがただ嬉しかった。  また女性に僕のことを肯定してもらうことで、自分の行っていることは正しいのだと錯覚することができた。これが間違いであると分かっていても、楽になる方法があるためにそちらに意図的に逃げていた。  「それに自由に休んだり出来るのも学生の特権なんだし、今のうちに使っておいた方がいいよ。大人になると休みたくても休めなくなってくるし」  僕が弱音を吐くと、女性もつられるように弱音を吐露する。  「私も職場の関係でかなりぎくしゃくしちゃっているのよ。休めるものなら私も夏休みにしたいよ。けど社会人になると仕事の関係上で休めなくなっちゃうのよね。本当にもう人間関係にはうんざり」  女性が心底うんざりした表情で呟く。僕のことを聞くようになっただけでなく、女性自身も自分のことを前よりも話すようになっていた。僕がいない間に女性の方でも色々と問題が起こっていたのは明確であった。  「前も人間関係って言ってましたけど、どんな問題なんですか」  「うーん、それは青年とはいえ話したくはないかな。簡単にしか説明できないけど、職場内での男女トラブルなのよ。しかもその問題の渦中にされちゃっているの。本当に迷惑な話よ」  「そうなんですね。……問題のことはよく分からないですけど、あなたに非があるとは考えられないですよ。確かにふざけた人ですけど、周りの人に迷惑をかけるような人ではないですしね。本質的には優しい人だってみんな分かっているんじゃないですか」  「あら、随分と素敵なことを言ってくれるのね。だけど、自分でそうしようと思わなくても周囲を険悪にしちゃうこともあるんだよ」  女性が少し表情を明るくして、諭すように話してくる。問題の全容は見えてこないが、女性が何かをして問題になっているわけではないようだ。どちらかと言うと、巻き込まれたという形なのだろう。  それから少しして、これは私を慰めてくれたご褒美だといって、優しく頭を撫でてくる。こうしていつかの僕の思惑通りに、女性と僕の距離は確実に近づいてきていた。僕も女性も出会った頃よりは、互いのことを話すようになっている。 しかし女性のことを理解していく中で、不自然な感情のようなものも芽生えてきていた。女性が自分のことを話してくれるのは確かに嬉しかったが、それと同時に胸の内に違和感を覚えるようになっていた。  その感情は指先に刺さった棘のように体に違和感を与えていたが、結局その感情の正体を知ることはできなかった。今はその違和感よりも、女性が僕のことを信頼してくれているということの方が印象に残っていた。  こうして、女性との関係が少しずつ変わっていく中で逢瀬は続いていった。その間も変わらず僕は、就職活動も学業も放置していたが、今はそんなことどうでもよい。あの公園で女性と一緒にいる時間以外に価値を見出すことができなかった。  互いのことを話すようになったこと以外にも変化は起こっていた。日に日に女性のお酒の量が増えてきていたし、飲む種類も度数の強いものに変わっていた。 今までは缶チューハイなど比較的度数の低めのものが主であったが、今は焼酎や日本酒、ひどいときはウイスキーをストレートで飲んでいるときもあった。前に冗談で言った、親父臭さが本当に出てくるようになっていた。  それだけお酒を飲む量も増え、度数の強いものを飲むようになったので、明らかに酔っ払っているようなときもあった。ある時は公園につくなり大きな声で僕を呼び、大げさに手を振ってきた。それから女性の方から僕の元に近づいてきたが、その足取りはおぼついていなかった。  初めて会ったときにそこまで酔っていないと言っていたように、今までは軽口をたたく余裕は持っていたし、足取りも怪しいところなど見たことがなかった。  しかし余裕な表情で接していた女性の姿を見る頻度が徐々に減っていった。足取りがおぼつかないほど酔うことは少なかったが、明らかに呂律が回っていないときや、不自然に明るい日が増えていた。  それとお酒のせいかもしれないが、二人の物理的距離も近づいてきていた。二人でベンチに座っているときは一人分の感覚はあけ、その空間につまみなどを置いていたが、女性が少しずつ僕の方に近づいてきていた。  僕が食べ物の置き場所がなくなりますと注意をしても、じゃあ君の膝にでも置いといて甘えた声音でおねだりする。結局彼女の提案を断りきれず膝の上に食べ物を置くと、それを食べるため彼女が一気に体を寄せてくる。ふわりと触れた彼女の体はまるで氷のように冷え切っていた。  外気とは異なる彼女の体温が、すぐそばに彼女がいるのだと存在を助長させ、僕の心拍数を上昇させる。僕は反射的に体を反らしてしまう。すると女性は一瞬、悲しそうな顔をするが、すぐに表情をいつものおどけた様子に戻した。  「なに、お姉さんが近くにいてドキドキしちゃったの」  そのまま、はいそうですと言うのも癪に障るので、どうにかして強がってみせる。  「ええ、これだけ綺麗な方と密着しちゃうとドキドキしちゃいますね。ドキドキしすぎて思わず抱きしめたくなっちゃいます」  「それは困っちゃうかもな。それなら先にお姉さんから抱きついちゃう!」      それだけ言って本当に僕に体を巻き付けてきた。なけなしの強気を見せたが、思った以上に酔っていた女性はそれを真に受けてしまったようだ。抱き着いてきた拍子に女性の髪からシャンプーの爽やかな香りがただよってくる。細身ながらどこか弾力のある感触が全身をやわらかく包み込む。恥ずかしさの沸点を容易に飛び越え、頭での処理が追いつかなくなる。  僕は乱暴にならない程度に女性の体をほどき、時計台の上に逃げ込む。抱き場を失った女性は意気地なしーと僕のことを罵った。しかし言い方はおどけたもので、ふざけているのは目に見えている。   このまま元の場所に戻っても、また女性に抱きつかれるのは分かりきっていたし、戻るわけにもいかない。正直、喜ばしい状態であるはずなのだが、酔いの勢いを使って女性との距離を近づこうとはまだ思えなかった。自分でも笑ってしまうが、変なところで律儀である。   結局戻る場所を失った僕は、そのまま時計台のてっぺんまで上ることにした。公園の中心にあるお城のような時計台は滑り台やロープなどが併設されており、一つの遊具のようになっている。中心にそびえる時計の真下まで登っていくと、高さは3メートル近くはあった。  特別高いわけではなかったが、公園に中心にあることもあり景色はなかなか良いものであった。公園を囲む木々は秋の気配を纏い始めた風で心地よく揺られている。その木々の隙間からは月光が差し込み、さらに奥には公園の横を通る道路がよく見えた。  いつも下からしか公園を見ていなかったので、上から眺める景色は新鮮に感じられた。また幻想的に思える空間も思った以上に現実の間近にあるのだと改め感じる。 僕が時計台から公園を眺めている間、女性は上に上がってくることもなく下でずっと文句を言い続けていた。寂しいとか話し相手になりなさいと機嫌を損ねていたが、時計台に上ってくる様子はなかった。ただ不機嫌に下から僕を見上げている。  「あなたも上に来たらどうですか。下からだとあまり高くないように見えますけど、結構高いですよ。それに見晴らしもいいから気持ち良いですよ」  僕が何気ない口調で女性を誘うと、穏やかだった彼女の表情が陰る。今までの笑顔が消え去り、表情は今までに見たことのないような弱々しいものになる。  「私、そこには行きたくない」  今までの酔っていたような口調が唐突になくなり、冷静な声で拒絶する。急に態度が変わったことに違和感も覚えたが、僕は大したことではないだろう思考を停止させ女性をからかう。  「もしかして高所恐怖症とかですか。それならここにいれば、安全と言うことですね。そんなに僕がいなくて寂しいならここまで登ってくるんですね」  僕が得意げに話している間も、女性の表情が変わることはなかった。  「私にはそんな高いところに上る勇気はない。それだけ高いところにいたら嫌でも目立っちゃうでしょ。私はこれ以上目立ちたくないの。人から注目されることなくひっそりと生きていきたいの」   女性の今までに見たこのない表情と声音に、ようやく様子がおかしいことに気がつく。雰囲気の違いも気になったし、女性からここまで負の感情をイメージさせる言葉が出たことが衝撃的であった。自分のことを話すようになり愚痴の頻度は増えていたが、そこまで卑屈な発言を聞いたのは初めてだった。  今すぐにも消えてなくなりそうな儚さに僕の中に漠然とした不安がよぎる。このまま幻のように、彼女そのものがいなくなってしまうのではないかと思わせるような儚さが彼女の周りに漂っていた。   その漠然とした不安に駆られるように、僕は女性の元に駆け寄る。近くに寄るが彼女はうつむいていて表情を見ることができない。だけど消えてなくなってしまうということはなかった。  そのまま少しの間、無言の時間が流れていった。駆け寄ったのは良いが、ここからどうしたらよいか僕には見当もつかない。そのままどうすればよいか迷っていると、既視感のある感触が体を包み込む。  「やっと捕まえた! ふふふ、私の芝居にまんまと引っかかったわね。そんなにお姉さんのことが心配なのだね。お姉さん冥利につきるよ」  思いっきり抱き寄せられ、頭を撫でられる。先ほどまでの雰囲気は完全に息を潜め、いつもの女性に戻っていた。女性は僕を捕まえて満足しているが、先ほどの女性の姿が脳裏に焼きついてしまい、抱きついてきた体をほどくことができなかった。  女性は演技だと得意げに話しているが、僕にはとてもそう見えなかった。このまま離れたら本当に消えてなくなりそうな予感がした。それに女性はおどけて接することで、言外に今のことは聞かないでと言われているような気がした。 結局、適切な接し方が分からない僕はそのまま女性の気が済むまで体を預けることにした。少しして満足したのか、女性はベンチに戻りまたお酒を飲み始めた。 それからはいつもと変わらぬ調子で時間が流れていった。2人の距離は近くになっていたが、本当にこれで良いのだろうか。完全にお酒の力に流されているだけのような気もする。  しかし今は女性から、説明のし難い脆さのようなものを感じるのでそのことには触れないようにした。このまま女性から離れると本当に消えてなくなりそうな危うさがあったので、しばらくは女性のしたいようにさせようと思う。  そして時間が来て女性と別れる。帰路の中で、先ほどの女性の発言のことを思い出す。目立ちたくない、ひっそりと生きていきたい。なにがあって女性はそう思っているのだろうか。  何か理由を考えてみたが、答えを見つけることはできなかった。職場のトラブルが原因なのは明確だが、問題の本質を見抜くことは出来なかった。  確かに前よりは色々と話すようになったが、それでも女性のことで知っていることは、社会人であること、この近くに住んでいること、将来は絵本作家になりたいこと、今は職場のトラブルで困っていることくらいである。結局は分かったつもりになっているだけで、2人の距離はほとんど近づいていないのかもしれない。  そう思ったが、すぐにその考えは霧散していく。今日の出来事が顕著な例だが、二人の距離は確実に近くなっている。それはお酒のせいでもあるが、女性が僕に好意を抱いていることは感覚で分かる。  それと同時に胸の中に、最近良く感じる違和感がまた渦巻く。この違和感の正体は結局分からないままだが、気のせいだと振り切ることにした。  大丈夫、うまくいっている。違和感は確かにあるが、時間をかけていけば僕たちはもっと先の関係に踏み込める。そうすればこの違和感もなくなるだろう。   しかし今にして思えば、それはただの問題の先送りであった。都合のよい解釈をすることで自分の感情と向き合うことから逃げていたのだと思う。  そして思ったよりも早い段階で、僕はこの違和感の正体を知ることになった。   その日も僕は、無意味に時間を消費しながら夜が来るのを待った。ただ待つだけの時間は永遠のように長く感じられたが、女性のことを考えていればその時間を耐えることができた。  昨日みたいに抱きつかれるのは困ると思いながら心の奥底では期待していたり、どうすればもっと彼女との距離が近くなるかなど下心が胸の奥底で渦巻く。また自分の悩みを聞いてもらって、優しい言葉で慰めてもらうのもいい。   そうして女性と過ごす時間のことを考えているうちにいつもの時間になる。僕はお酒とつまみを持って家を後にした。外はどんよりと重たい雲がかかっていて、どこか暗い印象を植え付けてくる。しかしその時の僕は気持ちは女性へと向いていて、そんな些細なことまで考えていなかった。  そのまま公園に到着し、いつものベンチに目を配るが女性の姿が見えなかった。何か嫌な予感がした。さっきまで気にならなかった空の重さが急に体にのしかかる。  しかし冷静になり、もう一度ベンチを見てみると人影のようなものが見える。目を凝らしてみると女性のようなシルエットが暗闇の中ぼんやりと見える。   嫌な予感は杞憂に終わりほっと胸をなでおろす。しかし気になる箇所がある。いつもは明るい色のパーカーを来ているので遠くからでも一目で気付くことができた。暗闇に溶け込むような服でも来ているのだろうか。  人影へと近づいてみると、少しずつ輪郭がくっきりとしてくる。細身のシルエットからして女性であることは間違いなさそうだ。さらに近づいてみると、女性がスーツ姿だと分かった。女性が働いていることは聞いていたが、スーツ姿を見るのは初めてだった。  さらに女性のそばに近寄る。いつもなら僕を見かけると明るく手を振ってくれるが今は下を見つめたまま動く気配が見られない。また最近、量が増えているお酒もどこにも見当たらなかった。  今までとはまったく異なる雰囲気にどうしてよいか迷ってしまう。声をかけると、女性がゆっくりと顔をあげる。目元は腫れていて、表情も生気が抜け落ち、いつもの明るさの欠片も見られなかった。  その姿は前にも時計台から見た表情と同じで今にも消えてしまいそうな儚さを纏っていた。原因も分からず困惑していると消え入りそうな声で「隣にきて」と呼びかけられる。  そのあまりにも弱々しい声に逆らうことはできなかった。そのまま言われた通りに隣に腰を下ろす。その直後に女性が僕の体に抱きついてくる。僕の肩に顔をうずめたまま動こうとしなかった。   いきなりの事態に体が硬直してしまう。何か言う必要があるのは明確だが、適切な答えが出てこない。  「何があったか分かりませんが、良ければ話してみてください。話を聞くくらいならできますよ」  悩んだ末に出てきた言葉は、頼れるのだか、役に立つかよく分からないような言葉であった。女性からは何も反応がない。 ただ言葉は届いているような気がした。  そのままどうしてよいか分からずにいると、肩から鼻をすする音が聞こえる。その状態のまま女性が消え入りそうな声で今まで起こったことを話し始めた。
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