第8話 夢の終わり

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第8話 夢の終わり

 僕の胸に体を預けながら、彼女は自分のことを話してくれた。今の僕には彼女の話を黙って聞くことしか出来なかった。今の彼女が求めているのはただ話を聞くことだけど感じた。  僕は相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾けた。彼女が数か月の間、一人で抱え込んでいた苦悩を受け止めることしか今の僕にはできない。彼女が悩んでいる問題の解決策を僕が考えることは出来なかった。  どこにでもあるようで、どうしようも出来ない問題。人間同士の付き合いの上でどうしても発生してしまう摩擦。きっと周りにいる多くの人が似たような関係で悩んでいるのかもしれない。  前に話だけでも聞くと言ったときは、手伝えることがあったら本気で手伝うつもりでいた。しかしいざ話を聞いてみると、僕には何もできないという現実を突き付けられた。人付き合いの希薄な僕には解決の糸口さえ見つけられなかった。僕はどうしようもなく無力だったし、同時に子どもであった。  一通り話を済ませた女性は、それからしばらく黙り込んでいた。気持ちが落ち着いたのかどうかは分からないが、とりあえず涙は止まっていると思う。僕も彼女になんと声をかけてよいか分からず、静寂だけが周りを満たしていた。  「急にこんなこと話しちゃってごめんね。だけどもう自分一人で抱えこむには限界だったんだと思う」  女性から消え入りそうな声で謝罪をうける。その声は本当にか細く、今にも目の前から女性がいなくなってしまいそうな儚さが含まれていた。  きっと女性は僕にこのことを話したことを後悔している。悩みを打ち明けたことにより僕にも嫌われてしまうのではないかと恐れているように思えた。  現実を話すことにかなりの勇気が必要だったと思う。今まで互いのプライベートに深く関与していなかったのだし、さらには自分の嫌われている個所をさらけ出すのだ。どれだけの勇気が必要だったかは計り知れない。  それだけの想いで打ち明けてくれた女性に、僕からできることは何だろうか。彼女の悩みに対する答えは持っていない。そんな僕にできることはいつもと変わらぬ調子で接することだけだった。話を聞いても僕は、あなたとのことを否定しません。そういった肯定を見せることが重要だと思った。  「別にそんなことで謝らないでくださいよ。僕だって愚痴を聞いてもらっているしお互い様です。だけど今日からは僕のことをお兄さんだと思って甘えてもいいんですよ。胸くらいいくらでも貸しますよ」  僕はいつも女性がしてくれるように、おどけた口調で女性を肯定する。それを聞いた女性は控えめに笑いにながら顔をあげる。少しは不安が取り除かれたようだ。  「急に大人ぶられるのは納得できないな。私の方がお姉さんだし、甘えていいよネタは私のものよ」  「そんなネタの権利なんて知りません。それに本当にお姉さんならこんな年下の前で泣いたりしませんよ」  さらに女性をからかうと、むくれてそっぽを向いてしまった。そこにはさっきまでの儚さはなくなっていた。とりあえず一安心していると女性は小さな声で、ありがとうと口にした。  きっと今の対応では女性の問題の本質は何も変わらない。彼女の気持ちを軽くしただけで、またいつか限界は来るだろう。では今の僕には一体何ができるのだろう。子どもの脳を懸命に働かせて考える。  考えているときに目の前に時計台を眺めていたが、そこは月光が差し込む。その光景はいつも見ているものだったが、とても幻想的な空間に見えた。それを見た途端、僕の体は自然に動きだしていた。  「時計台に登りましょう」  「え、急にどうしたの。というか嫌だよ。私は目立つとこには立ちたくないの。さっきの話から察してよ」  女性は以前のように拒絶の意志を示した。多分他の人から攻撃対象として見られているうちに、対人恐怖症のようなものに陥ったのだと思う。  だけど今の僕はそれで止まることはなかった。嫌がる女性の手を引き時計台の真下に向かう。女性は頑なに拒否するので、そしたらあなたのことを嫌いになるという意味の分からないことを宣言する。  しかしその意味の分からない脅しが効いたのか、女性は渋々ながら登ると言った。なんだか女性の弱みにつけ込んでいるみたいで良い気はしなかったが今は置いておく。  おっかなびっくり時計台を登り始める女性をエスコートする。そもそも時計台と言っても子ども用の遊具なので高さは大したことはない。時計台の真下まで来てもせいぜい3メートルくらいだ。僕たちはすぐに真下まで登ることができた。 僕は前にも時計台にも登ったが、やはり景色はそれなりに綺麗なものだった。特別な絶景とは言えないが、心を落ち着かせるものがあった。それに時計台に差し込む月光がスポットライトのような役割を果たし、ここが特別な場所のように思えた。  僕より少し遅れて時計台に登った女性も、時計台から見える景色を無言で眺めている。だけどその表情に怯えはなく、思ったより平然とした顔で眺めている。  「どうですか。絶景とまではいかないけど、悪くない景色でしょ。それにいざ登ってみたら、そんな大したこともないでしょう」  「確かに登ってみたらそんな気にならないものだね。私の悩みもこれくらい大したことじゃなければいいんだけどね。だけどもしかしたら大変だと思っているのは私だけで、実際はどうでもいい問題なのかもしれないけどね。なんだか空を眺めてたらそんな風に思えてきちゃった」  女性が月を見上げながら呟く。僕も女性につられるように空を眺め、今日の話を振り返る。  前から願っていた、女性のことを知りたいという僕の願い。それが今日叶った。そしてそれと同時に今まで僕の胸に引っかかっていた違和感の正体も知ることが出来た気がする。  女性との距離が近づくのを望みながら、実際に近づくと感じる違和感。何かが違うと思うような感覚。  あの感覚は一種の警告だったのだと、今なら思える。これ以上の進展は、2人の形を変えてしまうと。今の心地よい関係が大事なら一線を超えてはならなかった。  それと同時に、以前工藤から言われたことを思い出す。関係の築き方を間違えると嫌な思いをする。嫌な思いというと違う気がするが、概ね同じような感じだと思う。  工藤がここまで予想出来ていたなら、恐ろしい話だ。人付き合いは嫌いなくせに、恐ろしく人の機微には聡いのだろう。  では僕達はどうすれば良かったのだろうか。そしてこれから、どうしていけばいいのか。それらの問題を考えているうちに、これからの僕達の関係の終着点が見えてきた気がする。  今思いついたことを女性に伝えなければいけない。だけどその一言がなかなか出てこない。答えは見えているが、そこに行きつくのには最後まで抵抗があった。  だけどこのままではいけない。答えが見えたからには、たとえ嫌な時でも進まないといけない時がある。止まっていた自分の時間を動かす時が来たのだ。  「あの、少しいいですか」  女性がなあにとこちらを振り返る。その表情はとても穏やかなもので、僕が言わんとすることを察しているようだった。  「……この公園で会うのは今日で最後にしませんか」  「あら、じゃあこれからは公園の外で会いましょうってお誘いかしら。それとも愛の告白かな」  女性がからかうような口調で尋ねてくる。もちろんそんな意図で僕が言ったわけがないというのは気付いているだろう。  「からかわないでくださいよ。もうこうやって二人で会うのをやめましょうって言っているんですよ。今のまま会ってたらダメだと思うので」  あたりは静寂に包まれている。遠くにエンジン音が聞こえるだけで、世界には僕達しかいないような感覚に陥る。  「そう、寂しいことを言うのね。……だけど君がそのことを口に出さなかったら、私からそう言おうと思っていたところ」  やはり女性も同じことを思っていたようだ。僕の悩みと女性の悩み。二人の悩みを互いに理解したことにより、僕たちの関係には終止符が打たれたのだと思う。僕は女性の話を聞いて感じたことを素直に口にした。  「僕はあなたが何かに悩んでいると聞いたとき、心の底から力になりたいと思いました。そして今日、その願いが叶いました。だけどあなたの話を聞いて分かったのは、僕にはあなたの悩みを解決することなんてできないということでした」  女性は僕の拙い話も穏やかに受け止めてくれた。  「正直な話、僕にはどうしたら良いと言ったアドバイスすら、することが出来ません。だけどそれと同時に分かったのが、あなたのその悩みは誰にも解決することは出来ないと言うことです。この問題はあなたが自分の手で解決するしかないということです。これは僕の今の悩みも同じだと思います。僕も就職活動がうまくいかないことをあなたに愚痴っていましたが、これだって僕の手で解決するしかないんです。だけど、二人とも悩みを抱えきれなくなった時に、たまたま近くに同じような境遇の二人が出会ったしまった。僕たちは互いの悩みの肯定してもらうことにより、問題を先送りにしていただけなんだと思います。だけどその関係ももう終わりにしないといけない。だから今日で最後にしようと思ったんです」  僕は胸に抱え込んでいた、わだかまりをすべて吐き出した。女性は少し寂しそうな表情をしていたが、僕のことを責めることはしなかった。  「やっぱり君も同じこと考えていたんだね。きっと私達が先に進むには、ここから離れないといけんだね。……あーあ、青年に振られちゃったな。お姉さん、君のこと結構好きだったのにな」   女性が残念そうに口をとがらせる。女性が僕に好意を寄せてくれていたという事実は、かなりの喜びと後悔を引き起こした。もしかしたら、このまま一時の感情のままに一緒になり、二人で支えあっていくという道もあるのかもしれない。 だけどそうしたいという願望があると同時に、その関係は長くは続かないという確信のようなものもあった。  「そんな別れにくくなることを言わないでくださいよ。僕だってあなたのことが好きなんですから」  僕からの予想外の告白に女性はかなり驚いていた。僕の好意にはまったく気づいていなかったらしい。話を聞いていて思ったが、彼女は自分に対する感情の動きを読むのが極端に苦手なのかもしれない。  「僕はあなたが、自由奔放にこの場所で過ごしている姿が好きでした。それに容姿もかなり好みです。正直、この前抱きつかれた時はかなりどきどきしました。そして何より、あなたがこの公園で現実に縛られることなく、過ごしている姿はとても魅力的でした。だけどちょっとずつ互いに踏み込むようになって小さな違和感のようなものを覚えるようになったんです。多分それはあなたの自由奔放な姿が損なわれることに対しての恐怖心だったんだと思います」  自分で話していて、その説明がどれだけ適切な表現かというのを改めて実感することができた。僕にとって、ここで会う女性は自由の象徴みたいなものだった。僕にはない将来のビジョンを持ち、それに向かって努力を続けてきた彼女はただひたすらに美しい存在のように見えた。  「これは僕のわがままなんでしょうけど、あなたにはその自由な姿のままでいてほしいんです。公園の外で会って、その幻想が壊れてしまうのが怖いんです。……ここは僕にとって夢の中のような場所なので」  この公園での女性との逢瀬は夢の中にいるような心地良さがあった。現実的な要素が何もないこの空間は、嫌なことから逃げ出すには絶好の場所であった。だからこそ互いにここに惹かれたのだと思う。  「夢の中のような場所ね。なんだかいい響きだね。詩人みたい」  女性がからかうように笑いかける。女性もその表現が気に入ったらしく満足そうに頷いている。  「確かにそんな風に思えるね。だったら仕方ないか。青年のために私は夢の中に出てくる女神様でいてあげよう」 女性が自由の女神と同じポーズをとりおどけてみせる。その姿はいつもの女性そのもので安心感が芽生える。  「いつもと変わらない調子に戻ってくれて安心しましたよ。じゃあ今日で最後なんですし、いつも通り無駄話に花を咲かせましょうか」  それからは女性といつも通り、とりとめもない話を語り合った。お酒がないからと僕が持っているお酒を奪われたが、それもあまり気にならなかった。そう言えばこうして他愛もない話だけで会話が弾んだのは随分久しぶりな気がする。   ここしばらくは互いの愚痴が会話の主になっていたので、どこか会話の雰囲気も暗くなっていた。それがないだけでも、かなり気が軽くなり話はいくらでも沸いてきた。  いつもなら一時間近くも話せば解散するようにしていたが、今日はどちらとも帰ろうとは言い出さなかった。僕がふざけて明日に響きますよと言ったら、明日のことは明日になったら考えるさと笑顔であしらわれた。僕もその言葉に習い、今の時間を楽しむことにした。  今日でお別れだと互いに分かっていたが、特別何かをすることはなかった。時計台の上で話しているという以外は、何も変わりがない。だけどこの方法が一番適切なのだと僕は確信していた。  変に別れを意識してしまうと、今のこの時間すら楽しむことが出来なくなる。そんなこと互いに望んではいなかった。僕たちは残りの時間を楽しむかのように、時間を無意味に浪費していった。   結局ら無駄話は夜明けまで続き、月光は消え去り、代わりに朝日が昇り始めていた。虫の鳴き声は鳥のさえずりに打ち消され、空はすがすがしい青空を覗かせ始めた。公園の外の幹線道路に目を向けると、駅に向かう人たちも増えてきて、完全に朝の街並みへと景色は変わっていた。  朝日が差し込み、公園にも光が灯される。月光ではなく朝日が差し込んだ公園は、爽やかな朝の匂いにつつまれている。僕と女性はその匂いを静寂の中で味わった。心地よい静けさが周りを包む。   しばらく朝の気配を無言で堪能した後、何の突拍子もなく女性が大きな声で決めたと言い放った。  「よし、決めた! 私今日は会社をさぼります! 今日は一日だらだらと過ごす!」  いきなりの発言に面食らったが、あまりにも清々しい発言に笑いしかこみ上げてこなかった。  「そんなことして平気なんですか?」        「もちろんダメに決まっているでしょ。そんなことしたら周りから非難殺到だよ。だけどこれだけ清々しい気分の時に仕事なんてしたらダメになっちゃう。それに人生まだ先が長いんだし、一日くらい不真面目になったっていいでしょ」  「これであなたも不真面目の仲間入りですね。……じゃあ僕も今日は何もしない日にしましょう。今日は気の向くままにのんびり過ごすことにします。お揃いですね」  僕が笑いかけると、女性も嬉しそうに微笑んだ。今日は一日自堕落に過ごして、明日から真面目に行動しよう。後ろ向きな発言に思えるが、不思議と活力が芽生えてきた。こんな感覚は随分久しぶりである。  だけどその活力を活かすためには、いつまでもここに残っているわけにもいかない。ここでいつまでも公園に残っていたら、また女性に甘えてしまう。もう2人でいる時間も終わりだ。  「じゃあ今日一日だらだらすると決めたところで解散しましょうか。さすがに夜通し話したら眠くなってきましたね」      「うん、そうだね。さすがに一日ここにいるわけにもいかないもんね。じゃあそろそろ帰ろうか」  2人並んで時計台から降りる。僕たちの別れは驚くほど淡泊に終わりそうだ。そのまま2人で並んで公園の入口まで歩く。自分で別れを切り出したが、いざ別れの時間が来ると寂しいと言う感情が顔を出し始める。これが正解だと分かっていても、いざ時間が来ると惜しくなってくるものだ。  そんな僕の思いも虚しく別れの時間はすぐに訪れる。公園の前にはすでに人通りが出来ており、朝の活気に満ちていた。さすがにいつまでもここにいるわけにもいかない。  「じゃあ、これでお別れだね。今までありがとう。楽しかったよ」  女性から改めて別れの言葉が告げられる。しかしそう言っただけで、女性が動き出すことはなかった。結局いつものように自然な流れで別れることは出来なかった。もしかしたら女性も別れを惜しんでくれているのかもしれない。  「あの……。やっぱり最後に名前だけでも教えてくれませんか」  結局僕も別れを惜しむように名前を聞いてしまう。最後になって少しでも女性のことを記憶に刻みたいという欲が沸いてしまった。あれだけ決意を固めたのに、随分と簡単に揺らいでしまう。それがまた自分らしくて情けない。  女性はしばらく逡巡する。どうするか悩んだ後にぱっと表情が明るくなる。女性はゆっくり僕の元に歩いてきて口に指を添える。  「それはだめだよ。さっき君が言ったように今までの時間はすべて夢の中だったの。夢が覚めたらすべてを忘れるように、ここであった今までのことを忘れないといけないの。だから私は最後まで名前を教えない。今まで良い夢をありがとう」  女性が今まで見せてきた中で最も可愛らしい笑顔を向けて公園を去っていく。そのまますぐに角を曲がってしまい女性の姿は見えなくなった。  最後の最後にすべてを断ち切られ、あっけない形で僕と女性の時間は幕を閉じた。最後まで僕をからかうような話し方をする人だったが、それのおかげで後に引きずることもなく別れることが出来た。  こうして僕と名前すら知らない女性との3ヶ月近くの逢瀬は幕を下ろした。
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