第5話 焦燥感

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第5話 焦燥感

 初めて女性と会ったときは、まだ涼しさが少し残る初夏であった。あれからいくらかの時が過ぎ季節は完全な夏へと移り変わっていた。連日猛暑日を記録し、外に出るのが億劫になるほど暑い日々が続いた。夏の気怠さとは裏腹に喜ばしいことも一点あった。学校が夏休みに入ったこともあり、ゼミの活動がなくなったことだ。僕が所属しているゼミには、ゼミ合宿と言う煩わしい行事もないため、夏休みの間は集まりなどは一切なかった。もちろん、研究は進めないといけないのだが、今の状況では研究を進める気力すら沸かなかった。  時間はゆっくりながら確実に進んでいるのに、僕の就職状況はと言うと相変わらずまったく変わらないでいた。内定は一向に得られる様子はなかったし、女性とは毎日のように公園で会い無駄話に花を咲かせていた。  しかし女性との時間を楽しむ中でも、僅かな変化が芽生え始めていた。本当に今のままでいいのだろうか。このままで内定をもらうことは出来るのだろうか。今までにない焦りの感情が確実に芽生えつつあった。  今までにない焦りを覚えるのは、半年近く就職活動をしているのに、一向に手ごたえが得られないからなのかもしれない。あるいは心のどこかで、今のままでは女性と対等に話せないからと感じているからかもしれない。真因は分からなかったが、焦りと劣等感は確かに心の片隅に存在していた。  今のまま内定がもらえない状態では、僕は女性と同じ立場にいられないのではという不安は確かにあった。女性の正確な年齢は相変わらず不詳のままだが、僕との話し方を見る限り社会人であることは確かだと思う。そんな彼女と対等になるには僕自身が内定をもらうことが必須だと自分の中で決めていたのだ。  女性のことを異性と意識し始めてから決めていることが一つあった。それは内定をもらったら、僕の想いを彼女に告げるということだ。女性が僕のことをどう思っているかは分からないが、僕は彼女のことが好きなのは確かでる。  しかしそんな決心を決めたところで、現実がうまくいくわけもなく、結局はずるずると就職活動を続けていた。そんな決心一つでうまくいくのなら僕だって苦労はしない。ましてやその決心が女性に対する下心からくるものなのだ。猶更うまくいくわけがない。  「おーい青年、そんな思いつめた顔してどうした」  聞きなれた涼しげな声音で女性から声をかけられる。僕がしばらく黙り込んでいたのか不機嫌そうな様子でこちらを見ている。  「いや、考え事をしていただけです」  「お、なにか悩みごとかい。それならお姉さんが相談にのってあげよう」  「いえ、たいしたことではないんで結構です。それにあなただと適当なアドバイスしかしてくれなさそうだし」   何事もないような口調で女性の提案をあしらう。さすがにあなたにいつ告白しようかと思っていたなど言えるわけがない。  「えー、あれだけ思いつめた顔していて、たいしたことじゃない訳がないよ。ほらほら、照れずに相談してみなさい。と言うより、特に話すこともないんだし、たまには生産的な話をしましょう」  「いつもくだらないことを話している自覚はあったんですね。まあ強いて言うなら、どうやったら就職活動が終わるかなって考えていたんですよ」  「それなら簡単な答えがあるよ……。ずばり、就職活動を諦めることだよ」  女性が得意げな顔をしてうなずく。真面目に相談をした結果、予想通りまともな回答は得られなかった。それでも女性の得意げな顔は妙に子供っぽく、その顔を見ていると怒る気力もなくなってしまう。  「やっぱりに真面目に相談したのは間違いでした。さっきの発言は忘れてください」  わざと不機嫌な様子で言い返すと、女性は慌てて謝りに入る。どうやら僕が本当に怒っていると勘違いしているようだ。  「ごめん、ごめん。そんな怒んないでよ。……でも君って今は何かしたいことがあるわけじゃないんだよね」  「うーん、特にはないですね。目的が明確だったらまずここまで迷わないと思いますし」  「それだったら、そんな考え込まずに、就活とかやらなくてもいいんじゃない。確かに周りと違うことするのっては大変かもしれないけど、今みたいにじっくり将来のことを考えられる時間ってこの先取れなくなってくるだろうし。ただ早く進路を決めたって後悔しか生まれないと思うよ」  女性が一瞬思いつめたような顔をして告げる。しかしすぐに元の子供っぽい顔に変わっていた。発言もいつもの適当さは感じられなく、真剣に考えていることが伝わる。  「なにか思い当たる節でもあるんですか」  「えー、それは秘密。個人情報にあたるので黙秘します」  おちゃらけた口調で女性は話を逸らす。いつか絵本を作りたいと漏らした日から、彼女は今まで以上に自分のことを話さないようになっていた。あの日の言葉通り、反省しているのだろう。  これまでの逢瀬の中で、女性とはそれなりに親しくなってきたと思っている。そろそろもう少し互いに踏み込んだ関係になってもいいいのではないかとちょっとした邪心はあったが、女性は出会った頃から態度を変えることはほとんどなかった。  もしかしたら、僕の心境の変化を悟った彼女があえて態度を変えていないのかもしれない。そんな突拍子もない予感が脳裏をよぎる。あくまで私とあなたの関係はこの公園の中だけのものだ。これ以上踏み込んでくるのは許さないと女性から念を押されているのではないかと感じてしまうほどに変化はなかった。  女性はそんな風に悩む僕に構うことなく呑気に鼻歌を歌っている。その様子からはとても何か裏があるようには思えなかった。しかし今の僕は一種の焦りからか冷静な判断を失っていた。その焦りのせいか程よい酔いのせいか分からないが、僕は変な提案を女性にしていた。  「あの、前々から少し考えていたのですが……しばらくこの公園に来るのやめようと思っています」  呑気な鼻歌がぴたりとやみ振り返る。その表情には明らかに困惑の色が含まれていた。  「どうして。もしかしてここに来るの飽きちゃったの。私が何か悪いことしちゃった。私が変なこと聞いちゃったから?」  女性が恐る恐ると言った感じで訊ねてくる。いつもは強気に出るのに、こういう時になると途端に弱気になってしまう。相変わらず、女性の性格は捉えられそうにない。  「いえ、そういうわけではないんですけど。ただ今は就職活動に専念したいなと思いまして」  「えー、さっきのお姉さんからのありがたい助言には耳を傾けてくれないの」  「確かにあなたの言いたいことは分かります。今無理をしたところですぐに、会社を辞めることになるとは思います。だけど、今ここで逃げ出したら僕は本当にどこにもいけなくなると思うんです。だから、今はがむしゃらに前に進まないといけない気がするんです」  「なるほどね、そこまで言われちゃうと何も言えないかな。だけどそのことと、この公園に来なくなることって繋がってなくない。別にここに来ながらでも就職活動はできるよ」  女性が諦めずに食らいついてくる。どうしてそこまで止めに入るかは分からないが、一度決めてしまった以上、引き下がるわけにもいかない。  「確かにそうなんですけど、今は就職活動に専念したいので。それにここに来ながら、就職活動をうまく並行できるほど器用じゃないので。そこまで器用だったらすでに働き口は見つかっていますよ」  冗談めかした口調で本当の理由を隠した。本当は就職活動に専念したいというよりは、早く彼女と同じ立場になり、対等に扱ってほしい。そして僕の想いを伝えたいという不純な動機であるがそこは伏せて話す。  「うーん、そこまで言われると仕方ない気もしてくるなー。でもそうしたらお姉さんは誰をからかって遊べばいいのさ」  理由を聞いて少し安心したのか、女性がいつものテンションで僕に不満を口にする。無理に引き留める理由は、単純に話し相手が欲しかっただけらしい。   「そんなこと知りませんよ。そもそも僕をからかうのをまずやめてください。それにたまには僕以外の人とコミュニケーションをとった方がいいですよ。またここに来た人に声をかけたらいいじゃないですか」  「でも次にここに来る人がどこかの誰かさん見たいにナンパ青年だったら困っちゃうよ。だから君がここにいればいいんだよ」  「まだ僕のことをナンパ野郎だと思っているんですか。だったら今こうして普通に話しているのもおかしいじゃないですか」  「君は何だかんだで下心出して接して来なかったからいいんだよ。とにかく、君が来なくなったらお姉さんの話し相手がいなくなっちゃうよ」  女性はテーマパーク閉園前の子どものように駄々をこねる。しかしそこにはいつものようなおどけた雰囲気が含まれているのも分かる。形では駄々をこねているが、そこまで落ち込んでいるようには見えなかった。  女性のいつもと変わらない態度に安心した。しかしそれと同時に少しだけ寂しい思いがこみ上げてきた。これからしばらくこの穏やかな時間がなくなると思うと、悲しくもなってしまう。その感情は意識の底に沈め、女性に優しく声をかける。  「ここに来ない代わりに、就職活動に専念しますので安心してください。今は夏休みですのですぐに終わらせるようにはしますよ。そしたらまたここに来るので、その時に無駄話に花を咲かせましょう」  「じゃあ君がまたここに来るまで毎日待っているから」  「いや、さすがにそんなすぐには無理ですよ。せめて2ヶ月くらいは時間をくださいよ」  「だってすぐ終わらせるって言ったじゃん。それに私が待っているって分かっていた方が早く終わらせる気になるでしょ。君は私のことが大好きだからね」  女性がふふんと胸をそらす。女性はふざけて言っているのだが、それが的を得ているため言い返すことができない。  「分かりました。可能な限り早く終わらせてすぐに戻ってきます」  僕が折れたのを確認して満足そうにうなずいた後、小指を僕の前に出す。   「じゃあ指切りげんまんで約束して」  女性が笑顔でおねだりする。どこまで幼稚なんだとあきれながらも、僕は女性の指に自分の指を絡めた。  「指切りげんまん、嘘ついたら……ここで飲むお酒代は全額青年がおーごる。指切った!」  「……なんか僕が知っている指切りげんまんとは違ったようなんですけど」  「そんな細かいことは気にしちゃだめだよ。それとも本当に針千本飲む方がいいの。私だったらお酒代出す方が全然いいけどね」  「確かにそうかもしれないですけど、何も本当に針千本を飲むわけではないでしょ。嘘をつくのはそれくらいダメだと言う戒めみたいなものでしょ」  「そんな細かいこと気にしないの。いちいち揚げ足を取っていたら内定なんてもらえないぞ」  これ以上反論する気にもなれず結局、女性との約束を飲む形で落ち着いた。理不尽な約束だが、約束を守ってしまえばいいだけの話である。それから少しだけ無駄話をしているうちに、いつもの別れの時間がやってきた。  「じゃあ僕はそろそろ帰りますね。次に来るときは内定をもらった形で会いに来ますね」  「うん、お姉さんに良い報告をできるように頑張りたまえ。それとあまり時間がかかったら、今後のお酒代は全部君持ちだからね」  「そうならないように善処します」  「善処するんじゃなくて、すぐ終わらせるんだよ。だけどあまり根を詰めて体調を崩さないようにね」  「珍しく僕の心配をしてくれるんですね」  おどけたように言いながらも、僕のことを気にしてくれたのは内心とても嬉しかった。  「私を何だと思っているの。それくらいの配慮は大人の女性だしありますよ。じゃあ、あと内定決まったらなにかお祝いで買ってあげよう。だから頑張るのだよ」  言いたいことを言ってから、女性は立ち去っていった。女性に言われたことは胸の奥底に大切にしまい込み、明日から頑張ろうと気持ちを切り替えていく。  それからというもの、僕は宣言通り公園に通うことをやめ、ただひたすらに就職活動に専念した。学校も休みになっているので、来る日も来る日も会社説明会や、選考に顔を出す日々が続いた。  本来であれば学校が休みの間にも、卒業論文は進めなければいけないのだろうが、こちらは就職先が決まってからでもよいだろうと最初から切り捨てていた。女性にも話したが、二つのことを同時に行えるほど僕は器用ではなかったし、早く就職活動を終わらせたい焦りから、研究に打ち込む余裕はまったく存在していなかった。  その結果として、文字通り就職活動だけに取り組むことが可能になった。朝起きてから説明会に向かい会社の話を聞く。ある時は面接やグループディスカッションの採用に参加。予定がない時間は履歴書の作成や次に受ける企業についての調査など空いている時間をすべて就職活動にあてるようにした。  それ以外のことをする時間を作らないよう、限界まで自分を追い込んでいった。当然の帰結かもしれないが、その集中力は長くは続かなかった。  意識は切り替えたところで自分の本質まで変わるわけではない。相変わらず周りの雰囲気には慣れないし、説明を聞いていても心が惹かれる様な企業に出会うこともなかった。  一向に変化の兆しが見えない日々に僕の心は摩耗していたし、苛立ちも現れていた。この不快感は真夏に来ているスーツがもたらすものなのか、変われない自分に対する苛立ちなのかは分からない。 そうした苛立ちがピークが達したころ、タイミングを見計らったように工藤から連絡が入った。内容は「飯を食いに行くぞ」というシンプルなものだった。  工藤からこうした呼び出しをもらうことはたまにあるが、気分転換をしたいと心の片隅で思った途端に来るのはある種の怖さがあった。もちろん僕からするとありがたい申し出であったので、二つ返事で返したいところだったが、女性に就職活動に専念すると言った手前、工藤の誘いに乗るわけにいかなかった。そんな時間があるなら、少しでも履歴書を書かなければいけない。  結局、今は就職活動に専念したいからまた後日にしてくれと返信を送った。その返信をした1分後に工藤からの着信が入る。  「別に飯に行くくらいで就職活動の結果なんて変わらないだろ。だから時間を空けておけよ」  「いや、時間的にはそうかもしれないけど気持ちの問題だよ。今は就職活動にだけ集中したいんだよ」  「そんな取り組み方をしたってまともな成果なんて得られないだろ。とりあえずいつもの店で8時に待っているから来いよ」  言いたいことを言いきってから、着信を切られる。あの様子だとどれだけ行かないと主張しても店に行ってそうだ。結局は工藤の一方的な言い分に押し切られ僕は店へと向かって絵いた。  工藤に押し切られた形で店に向かったのが一番の理由かもしれないが、僕自身気になることもあった。今回の誘い方は工藤にしては少し強引すぎる気もした。 僕と工藤の双方が過剰な交流も嫌うこともあり、基本的には無理だと言われたらそれ以上誘うことは今までなかった。僕も何度か時間があるときに工藤をご飯に誘う時もあるが、断られることの方が多い。それでも僕はそれ以上誘うことはしなかった。また逆もしかりである。  しかし今回の誘い方は明らかに今までのやり方と異なっていた。その点が気になって工藤と会ってみたいと思ったのだ。それに心の底ではやはり気分転換を欲していたのも事実だった。  自分から就職活動に専念すると言っておきながら、結局工藤と会うことになったことに対して女性に対する罪悪感もあった。しかし工藤からの強引な誘い方のおかげで、僕の気持ちはそこまで悪い方向に蝕まれることはなかった。  そもそも女性に対して、そうした罪悪感を抱くこと自体おこがましい話である。だが工藤とご飯を食べる時間があるなら、この時間を有効に使って早く公園に行きたいと思うことくらいは許されるだろう。気がつけば僕にとってあの場所は貴重な心休まる場所になっていた。    しばらく歩いているうちに、いつもの中華屋に辿り着く。店の中に入ると、夜ということもありいつもの時間よりは少しは人が入っていた。明らかに常連であるような雰囲気で、いつも無口な店主と楽しげに話している。その常連以外は工藤しかいなく、工藤はいつもの席でぼんやりとメニューを眺めている。「こんないきなり呼び出して飯代くらいは出してくれるんだろうな」  強引な誘いに対する抗議も込めて、皮肉を込めた口調で声をかける。それに対して工藤はいつも変わらない調子で否定をする。  そのあまりには代わり映えしない様子に、どこか拍子抜けしたような感覚に陥る。あれだけ強引にご飯に誘ってきたのだから、何か大切な話でもあるのかと思っていたが、今の工藤からはそういった雰囲気を感じられなかった。  「今日は何か話があるんじゃないのか」  僕が思ったことを素直に聞いても、いつもと変わらない口調で特に理由なんてないと返ってくる。その口調からも特に違和感のようなものは感じられなかった。  「別に暇だったから、飯でも食べに行こうと思っただけだよ。お前と無意味な話でもして時間を潰そうと思っただけだ」  結局どれだけ追及しても、工藤からこれ以上の回答を得ることはできなかった。それからも何か大切な話をするわけでもなく、いつもと変わらない調子で話をしてお開きとなった。本当に今回は暇だから呼び出されたようだったが、その工藤らしからぬ行動に対する違和感は残り続けた。  それから数日間は再び就職活動に専念する日々が続いたが、次の休みの日の夜にまた工藤から連絡が入った。今回はいきなり電話がかかってきて、「今お前の家の前にいるから飯に行くぞ」というさらに一方的なものであった。  半信半疑で外に出てみると、家のすぐ近くの道路に車を停めぼんやりと空を眺めている工藤がいた。よく空をぼんやりと眺めていることがあるが、大人しく空を眺めている姿は絵になった。元々容姿も整っているので、皮肉を言わなければ結構人気が出そうだけどなと思わず考えてしまう。  僕が近くまで寄ると、何も言わず車へと乗り込んでいった。そのあまりにも自然な様子に僕は断りを入れる余地さえなかった。  「今日はどこに行くんだよ。というより急にどうしたんだよ」  思惑通り乗せられてしまった車の中で工藤に尋ねる。車内にはラジオが流れ、まったく知らない洋楽が流れていた。その雰囲気が例の中華屋の雰囲気を感じさせ、心が落ち着いた。  「目的地なんてないよ。とりあえずどこかで飯でも食べてドライブにでもいくぞ」  「また目的なしかよ。なんだかこれだけ連続で意味もなく会いに来るなんて気持ち悪いぞ。前にも言ったけど、今は就職活動に専念したいんだけど」  「それが分かっているからこうして休みの日に来たんだろ。それに休みの日にまで説明会をやっている企業なんてほとんどないだろ。仮にあったとしたらそんな企業受けない方がましだぞ。それに前からこうしてドライブに行くことは何度かあったし、別に不自然なことはないだろう?」  工藤の言い分はもっともであった。確か休みの日にまで説明会をやっている企業は基本的にはない。ただ合同の企業説明会などは行われてはいるし、何もなくたって企業を探したり履歴書を書くことはできる。結局は貴重な時間をとられたことには変わりない。  それに僕が問題視したのは、ドライブに行くことではなく、今までとの頻度の差である。工藤が話の論点をずらしているのは明らかであった。  どうしても工藤のその態度に納得のいかない僕は、再度どうしてこうやって僕を誘うのか聞いてみた。けれど相変わらず、気が向いたからの一点張りで話は通された。  最終的には僕の方が折れ、工藤の気分転換に乗る形に落ち着いた。どうせ夜通しドライブをするなら、朝に市場で朝食を食べたいと僕が言うと、工藤も賛成してくれた。とりあえず海の方に行こうということになり、夜ご飯を食べてから海へと向かった。  しばらく車を走らせ海についたが、もちろんやることはない。夏の夜ということもあり、花火をやっている人間でもいるかと思ったが幸いにも先客はいなかった。  月明かりに照らされた海は、波の音以外のすべてを吸い取っていた。真っ暗な地平線の上には月だけど明確な存在感を示しており、不必要な視覚情報を極限まで削ってくれる。  その静寂と孤独感が心地よくて二人でぼんやりと波の音に耳を傾けていた。それにも飽きると、海に落ちているものを手当たり次第に海へと投げ込んでいった。  そうして時間を無駄に浪費していき、明け方に市場へと車を走らせた。それから早朝の市場で豪華な朝食をとり、周りが活動を始めた時間帯に僕たちは解散をした。  久しぶりに夜通し無意味な時間を過ごしたことになったが、結果としてとても良い気分転換になった。結局は工藤に感謝する形になり、そのまま眠りへと落ちていった。  こうした工藤からの誘いは、次の週も同じように続いた。平日のどこかでご飯を食べ、休みの日は工藤の車でどこかへ夜通しドライブに行くという形が、一つのサイクルになっていった。  これだけ工藤からの誘いが続くことは今までなかったし、明らかに様子が違うのか確かであった。しかしどれだけ理由を聞いても、僕を誘う理由は答えてはくれなかった。最終的には工藤も鬱陶しく思ったのか、「俺が無意味な時間を過ごすための道連れだ」というよく分からない意見で話をまとめた。  結局このときの本当の理由が分かったのは、僕が社会に出て働くようになってからだ。本当の理由を聞いた時は、僕はなんて周りに恵まれているのだろうと少し感動したが、その当時はそんな人の機微に気づけるほどの余裕は一切なかった。  もちろん余裕がないのは精神面だけでなく、肉体面でも同様であった。精神的なストレスは着実に肉体面にも負担をかけていき、体が重いと感じる日が増えてきた。  そして重くなった体は、さらに精神面を悪化させていく。そうした負のスパイラルが、ゆっくりだが着実に僕の環境をより悪い方向に誘っていった。
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