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「……で、大人しく帰ると。アホか。奢り損じゃねえか」
「そんなに何度も持ち帰られないわよ。ごちそうさま」
そもそも、あの居酒屋でいくら甘いこと言われたって──近くで上司の愚痴を零しまくっているおじさんたちの声がうるさくて、全く耳に入ってこなかった。
「警戒されると思ってあの店にしたのが間違いだった。次は別のとこにする」
「大丈夫、次はないから」
じゃ、と手を振って川田に背を向けると「おい」と引き止められた。
「なによ、まだ何かあるの?」
「駅まで送る。俺、どうせこのまますすきの出るし」
少し不機嫌な川田がわたしを追いかけてきて、腕をぐっと掴んできた。あからさまに嫌そうな顔をしてやったけど、奴は「腕くらい触らせろ」なんてわけのわからないことを言う。
「仕方ないから、別の子と二次会する」
拗ねたようにスマホをいじっている川田を見ると、なんだかこちらが悪いことをしたみたいだ。
「いいじゃない、キープがたくさんいるんでしょ」
「だから、おまえより美人はいねえんだって」
いや、そんなの知らないし。心の中でそう返事をして、仕方なく川田と肩を並べながら大通駅までのわずかな道のりを歩く。
「やっぱおまえ、手強いな。……まあ、その方が落とし甲斐があるけど」
今夜の相手が決まったのか、川田はジャケットのポケットにスマホをしまい込んだ。
「だから、落とすとか落とされるか、バカじゃないの」
「あんなに感じてたくせに」
言葉に詰まり、その憎たらしい横顔を睨みつけると、奴はふっと笑って「じゃ、また誘うから」と雑踏に消えていった。気づかないうちに駅に到着していたようだ。
9月も半ばを過ぎ、夜になるとすっかり涼しい。2週間前のあの夜とは、空気の孕む湿度がまるで違う。
一度深呼吸をして、ゆっくりと地下に続く階段を下りる。まだ22時前だから、駅のマルチビジョン前はたくさんの人で溢れていた。
──よかった、今日は流されなかった。わたしはそんなに簡単な女じゃない。川田のセフレになんかならない。
改札をくぐり、地下鉄を待っている間にもう一度深呼吸をする。あの夜を思い出すと少しだけ身体が疼いたけれど、気付かないふりをした。
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