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 クレマチス。  名とあわせて、〝怒れる魔法(クレーマジー)教団〟における修道士長だと名のってきた。  黒い修道着は珍しい物ではなかったが、腰紐の赤まだら模様は宗教者らしからぬ趣味だ。  ロードデン・ド・ロン公国は宗教には寛容である。  宗教全体を白眼視するグランド・レイヴンハートを恐れて首都グロワールに流れ込んできたフェード教の会派は、大小あわせて三〇を超えた。  レジアス大公は〝信ずる者は争うなかれ〟を宣言し、国内における宗教間の争い、政府が認めた公共場以外の論争を禁じた。宗教家たちはそれに従った。  それから公都グロワールに荘厳な大聖堂の建設が認められると、〝神〟の庇護を受けた公都の繁栄は王都フルハウスを凌いだとも謳われた。  その中で〝怒れる魔法教団〟という会派は、フェリーヌも聞いたことがなかった。  だが、グレゴリオ聖学会の下部組織だと言われて、少しだけ納得した。  レジアス大公がグレゴリオ聖学会のニコラ大司教と昵懇(じっこん)だったからだ。  その場は納得したフェリーヌだったが、クレマチスの薄気味悪さと快活なニコラ大司教とがいっこうに結びつかなかった。  そんな折に、公国に驚天動地の事件が起きたのである。   §  §  § 「あいかわらず、閣下の周りは獣臭(けものくそ)ぅございますなあ」  再びフェリーヌの前にやってくるなり、クレマチスは鷹揚に言い放った。  幻惑の元だという香炉を片付けて、近衛総出で換気も充分にさせている。 それでなお臭いがすると言ったのは、この修道士の厭味(いやみ)だ。 「貴様は、わが軍の天幕設備に文句を言いに来たのか。  なら下がれ。そして、二度と来るな」 「これは手厳しい。わたくしなりに場を和まそうと試みたのです。  そう目くじらを立てずともよろしいではありませんか」  フェリーヌは断言できる。  この男は、場末の娼妓館ですら、女にモテない。  地下水路で白いワニと踊ってればいいのだ。 〝森幻香〟というマヤカシも、この男が香炉に投げ込んだに違いない。  だが侍従長デミアンは慎重だった。 「陳情のあと少し間があったけど、ボクたち四人だけだったよね。  料理を運んだのだって、ガッティだし」  この天幕には、フェリーヌ。ダミアン。マルコ。砂金袋配りの近習ガッティである。クレマチスを逮捕するだけの状況と物証が微塵もなかった。  屈辱だ。マルコの肩に刺さったナイフが自分の投げた物だっただけに、 フェリーヌは敵を見つけなくては気が済まなくなっていた。 「早く用件を言え。これ以上、余の機嫌を損ねれば行軍の士気に関わる」 「では、申し上げます。──あと三日で、王都フルハウスに取りついていただきたいのです」  フェリーヌはあえてワイングラスを手に取り、まるで聞こえなかった顔をした。 「王都へおくった通告期限は二週間だ。それまであと一週間ある。  その約定を早めて、わざわざ余の面目を失う理由がないな」 「しかし三万の軍勢の行軍でございますれば、戦費もかさみましょう」 「ほう。貴様の導師様はお優しいのだな。公国から至宝を盗んで質とした挙げ句、三万の兵で王都へ攻めかけろと命じた。  その一方で、今度はこちらの金の心配か。〝怒れる魔法教団〟は、自分のしでかした罪の重さがわかっておらぬようだな」 「来たるべき日が来たのでございますよ。王国ダリアは変わるのです。  歴史に名が残るのは、あなた様の御名だけかと」 「ふふふ……その言葉、忘れぬぞ。クレマチス」  フェリーヌは昏い声音で目の前の修道士を呪った。 「左様に、怖い眼でそれがしを睨まれますな。  まだ話は終わっておりません」 「耳を悪くしたのか、クレマチス。  さっき、早く用件を言えと言ったはずだが?」 「殿下より交誼(こうぎ)をいただきましたる、このクレマチスに妙案がございます。導師様にはまだお伝えしておりませんが、代案とするには充分かと」  もったいつけた甘言の中に、恩と貸しをありったけ売りつけようという魂胆が透けて見えた。そう見せて、この怪僧の上司はこっちが本題なのかもしれない。  フードの中で、闇がニチャリと陰湿な笑みを浮かべた気がした。 「レイヴンハート家の双子を、導師様に捧げるのです」
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