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痛む頭を堪えながら僕は起きだす。夜明けの白がカーテンの隙間から差し込んでいた。
(水が、飲みたい)
もつれそうな足で台所に向かう。
コップを棚から取り出し蛇口を捻った。その水を飲み下した時、僕は恐ろしい衝撃を受けた。
彼女、だ。
飲み下す水の中に。吸い込む空気の中に。
そこかしこに彼女が散らばっている。
目に見えない粒子になった彼女の欠片が、僕の周りに満ちている。
蛇口から流れる水から、彼女が飛び散っていた。
僕は駆け足で外に出た。
僕は彼女を探した。あの美しい微笑み、無条件に僕を求める愛おしい生き物。
もちろん、彼女の姿はどこにも見えなかった。
マンホールから下水へ落ち、衝撃で肉を飛び散らせた彼女は、そのまま水の中に溶け込んだのだろう。
彼女が溶けた水が行きつく場所。僕はすぐに、走った。
早朝の道に、時々、自転車や自動車が通り過ぎた。
わっ、なんだあれは、気持ちの悪い。僕のことを言っているのに違いない言葉が耳に飛び込んだが、もう僕は構ってはいられなかった。
早く。一刻も早く。
彼女の最後の欠片が、海に流れてゆく前に。
町外れの小さな橋に、僕は汗だくになってたどり着く。明るい色が雲に滲み始めている。
(抱きしめたい)
許されざることをした僕を、嬉しそうに彼女は抱きしめてくれた。僕も彼女を抱きしめたかった。包み込むように。
なにかをはぎ取るのではなく、護るように、抱きしめたかった。
欄干から川の流れを見送る。まもなく海へたどり着く美しい流れの中に、彼女が微笑んでいる。
涙を流していると、まるで水の妖精のようにひとつの幻想が川から浮き上がり、悲しむ僕の前で首をかしげた。
人魚ではなく、ごく普通の女の子の姿で。
腕を広げて抱きしめた瞬間、確かに彼女は僕の中にいた。だが朝の風が冷たく通り過ぎ、我に返った時、僕の腕の中にはなにも残っていなかった。
さらさらと歌うように川が流れてゆく。
朝が、町を照らし始めていた。
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