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2
高度を上げた太陽の白い光が、閑散とした駅のホームに影を落としている。 これから更に濃さを増していくことだろう。
僕は制服の内ポケットからスマホを取り出して、時間を確認した。
午前十時。 五本の電車を見送ったことになる。
車掌に乗車の有無を訊かれた時、僕は腹痛を起こした人間を演じ、ホーム傍にあるトイレの個室へ駆け込んだ。 発車を待たれたらどうしようかと憂慮したが、個室内で発車音を聞いて杞憂に終わった。
僕はそれから個室で凡そ二時間こもり、今はこうしてホームに戻って来ているのだ。 親は仕事に出払っているからから帰っても良いのだけど、改札の駅員に制服姿を見られても困る。 腹痛の演技も下手くそで余計に怪しまれるだろうし。
だから、正午になるまでホームとトイレを行き来して時間を潰すつもりだった。 のだけど。
「──少年、こんな時間に一人で何してるんだい?」
ベンチに腰掛けて無心でいた僕の鼓膜に、若い女性の声が震えたのだ。 思わず、というより、学校をサボったことを咎められるのではないかと恐れを抱き、僕は声の聞こえた方を見た。
そこには僕が声質から予想した通り、大学生くらいの女性が立っていた。 しかし彼女の格好は、ジーパンにグレーのパーカーといった非常にラフなもので、さしずめ人を咎めるようとする雰囲気は感じ取られなかった。
たまたま僕を見付けたから暇潰しに声を掛けただけ。
どこかそんな風に感じて、僕は警戒心を示す。
「な、何でしょう」鞄を抱いて、遠慮がちに訊き返した。
「その前にさ、横に座っても良い?」
女性は、隣の空席を指差す。
「は、はあ……別に良いですけど」
女性との距離が拳一つ分になり、僕は更に警戒心を強めた。 女性は肩で切り揃えた黒髪に指を通すと、危害加えないって、と柳眉を八の字にして苦笑した。
無論、それだけで僕の気が緩まる筈もなく、
「それで、何の用ですか」
「さっきも言った通り、君がここで一人だったから声を掛けたの」
「……ひょっとして、そういう組合の人なんですか」
「そういう組合って、例えば?」
「迷える者を救いたい怪しい宗教団体とか、高校から秘密裏に雇われたカウンセリング団体とか……」
僕が例を挙げると、女性は腹を抱えてうわははっと豪快に笑った。
「何それっ。 わたしがそんな組合の人間に見える?」
「……見えは、しないですけど」女性の格好を改めて眺めて答える。
「安心して。 わたしはただの一般ピープルだから」
「一般人が赤の他人に声を掛けるとは思えないんですけど」
「そうかなあ。 ま、わたしには他人でも人見知りせずに話ができるっていう長所があるんだけどね」
誇らしげに語る女性に、僕はクラスの明るい女子を思い浮かべた。 男女関係なく話が出来て、明るい性格で、スクールカーストの上位にいるのだ。 その何某さんと目の前の女性を重ね、警戒心より嫌悪心を強めた。
「あの、もう良いですか」
トイレへ戻ろうと腰を浮かしたその時、女性は何の躊躇もなく僕の手を掴んだ。
「ねえ、少しだけ遠くに行かない?」
「は?」手を振り解こうとしても、案外力が強かった。
「君、何か悩みがあるんでしょ。 相談に乗ってあげるよ」
「赤の他人になんて嫌ですよ。 それに突拍子もなくて気持ち悪いですし」
「ヒドっ! まあでも、君に悩みがあるのは裏書きされたね」
僕は墓穴を掘ったことに、それでいてこの訳の分からない女性の存在に舌打ちする。
「嫌です。 僕、帰るんで」
今度こそ手を振り払って、鞄を強く抱く。 くるりと女性に背を向けて歩き出すと、
「駅員さんまだ居るよ。 正午まではホームとトイレを行き来して、ここを離れないつもりなんでしょう? それならわざわざサボった君の行動は誤りになっちゃう」
全てを見透かしたような声が背中にぶつかった。
思わず立ち止まって顔だけ振り返ると、女性はシニカルな笑みを浮かべていた。 僕が訊かずとも、女性は勝手に話を続けた。
「まず、君の制服から芳香剤の香りがしたの。 それがこの駅のトイレにある奴と同じ匂いだった。 でも単純に用を足すだけじゃそんなに匂いは付かない。 特に男子ならね」
「腹を下した場合なら個室にこもるでしょ。 それなら匂いくらい制服に付きますよ」口を突いて反駁していた。
「わたしは次にそう言おうとしたよ。 即ち君は個室で用を足したって。 但し『用を足す』っていうのは、ここでは生理現象のことを示すんじゃない。 君は個室で何もせず──かどうかは定かではないけど、時間を潰していただけなんだ」
「どうしてそう言えるんです?」
「だって、君はこの時間まで居るじゃない」
女性はぽかんとしていた。
僕は、上手く理解出来なかった。
「仮にもだよ? 君が生理現象で個室にこもっていたとして、たかが五分ほどじゃないかな。 それなのに、この時間までホームに残っているのはおかしいよ」
「それだけ調子が良くならなかったんだとしたら? 回数を分けていたんだとすれば?」
「回数を分けたていた場合、その香りは空気中に霧散してここまで匂いは残らない。 つまり長時間こもっていた。 前者は言わずもがな、君は調子悪そうに見えない」
「調子の悪さを隠している可能性は考えないんですか」
「君の話し方から隠してるように見えない。 よって、生理現象は起きていないと見る」
「そんな無茶な」僕はこめかみを掻いた。
「無茶じゃないさ。 言ってるでしょ、君がこの時間まで残っているからだって。 激しい腹痛だったなら、君はどうして家に戻らない? 家族を待っていたにしても、待合室にいない理由は? ホームでベンチに座ってる場合じゃ無いだろうに」
「それは……」
「答えは単純。 君は腹痛に見舞われていないから。 それじゃあ改めて」女性は唇を舐めた。 「君は腹痛ではない。 トイレにこもっていたのは時間を潰すためなんだ。 学校をサボったとわたしは考える。 仮にそうだとしても、直ぐに家に帰れなかった。 制服姿で平日の午前真っ只中に改札を通るのは憚れるからだ。 腹痛の演技にも自信が無かったのかな。 だから駅員が休憩を挟む正午まで、ホームとトイレを行き来しようとしていた。 行き来の理由は、これから二時間弱もホームに居続けるのは怪しまれちゃうからね」女性は一通り話し終えると、「当たってるかな?」計算式を解いた子供のように相貌を輝かせた。
「……何者なんですか」
「おっ、その様子だと当たりなんだね! そうだなあ、その話は電車の中ででもしようか」
「はい?」
その時、遠くの方からガタガタ音を立てて電車が近付いてくるのが見えた。 女性は立ち上がると、
「学校をサボったとしても、君には背徳心や良心の呵責があった。 サボりの常習犯なら駅員の目なんて気にしないし、そもそも学校に行こうとすらしないからね。 君は、突発的にサボることにしたんだろう? それだけ学校で嫌なことがあったに違いない」
電車がホームに到着する。
「どうだ、わたしに相談の一つでもしてみないか。 まあ嫌だとしても、少し遠くまでは行こうじゃない。 案外、気分は晴れるもんだよ」
「だけど……」
「ホームの防犯カメラに君の怪しい挙動が映るのと、どっちが良い? 大丈夫、費用はわたしが持つから」
女性の強い意志に、僕は根負けした。 彼女に心を許したのではなく、防犯カメラに映ってしまうことが、一番の要因だった。
「……分かりました」
「ぃやった! それじゃあ早速乗り込もうか!」
僕は女性に手を取られ、ほぼ無人の電車に乗り込んだ。
僕なんかより、よほどこの人の方が怪しい挙動に思えた。
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