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2 世間体と兄についての見解
霜川 喧騒は植戸 静寂の兄であった。
短く整えた日に透けない濃黒の髪。「静寂」と笑って兄が近づくと、いつも整髪剤のシトラスの香りがした。
彼は身なりに気を遣い、大学では〝好青年〟として光の当たる地位を確立している。
人当たりのいい美形であり、成績優秀で実家が資産家。両親が医者。生家が同じでもなければ、普通、静寂とは縁のない存在だ。
素顔がどうであれ出来のいい仮面を持っている兄に対して、静寂は仮面を作ることすらままならない男だった。
髪が細く染めていなくとも赤茶けてあちこちに跳ねる髪。身だしなみは最低限で、物静かな性格から口数が少ない。
実家からは勘当されている。
籍を母の従兄弟夫婦に預けられていて、姓も変わった。
行くあてのない静寂を、当然のような顔で自分の住むマンションへ囲ったのは、それらを全て仕組んだ兄であった。
もちろん、静寂は丸ごと承知の上でついて来たのだが。
兄は体面に大きな傷をつけずにいたいが、それでいて静寂を諦めることもできない。静寂とそれを両立させるために、手段を選ばなかった。
おかげで静寂は長く、学校で酷いいじめにあっていた。首謀者は実の兄。静寂は家に引きこもるようになった。
両親は兄とは違う方向で、世間体を気にする人たちだった。
頭も要領も悪く更に引きこもりになんてなってしまえば、静寂を勘当するのは時間の問題だったわけである。
決め手も兄は用意した。
なにも知らない静寂に買い物を頼み、カバンへいつの間にやら店の商品を入れていたのだ。それも幾度も。
バレる程度にバレないような、クソガキらしい悪意をわざと覗かせて。
脳足りんの静寂がギリギリやりそうなレベルのそれは、さも〝静寂が手癖の悪い問題児だ〟と主張するようだった。
社会不適合者の上に犯罪者。
こうなってしまえば、もう縁を切って家名に泥を塗らないように籍を変え、遠くへ追い出すしかないだろう。
仮にも実の子どもにそんなこと、と思うかもしれないが、そんな両親だった。
そんな両親にこんな弟で、あんな兄だったから、きっと自分は常識はずれへ走り出すブレーキを生まれながらに備わらなかったのだと思う。
静寂は兄の行動の全てが、とてもとても、嬉しかったのだ。
〝これほどまでに自分を愛してくれる人は、この世で兄以外にはいない〟
強く思い、深く感動した。
そしてこれほどのことをされても嬉しいと感じるような人も、兄以外に考えつかないと思った。
兄でなければ、静寂はその相手にずっと呪詛を吐き続けていただろう。
証拠の残る報復ではないが、笑顔で愉快に呪ったはずだ。
例えば人気のない場所で「いつか必ず殺すよ」と言って、相手の行動範囲の及ぶ場所で不規則に姿を目撃させただろう。
そして一度だけ殺意を見せて、自分は綺麗さっぱり相手を忘れてやる。
静寂の報復は、そういうやり方である。
他者へ向ける感情を排除することで静寂は静寂として生きていけた。
けれど兄が相手だと、まるきり違う。
『おはよう、兄ぃ。学校に行こう。今日もいっぱいいじめてほしい』
『おはよう、静寂。学校に行くとも。もちろんたくさんいじめてあげる』
『おやすみ、兄ぃ。制服がだめになったから学校に行けない。ごめんなさい。俺は明日からひきこもるよ』
『おやすみ、静寂。それなら勉強は俺が教えるよ。卒業のために試験は受けないと。だけどテストは白紙だぜ』
『ちゃんと警察に捕まったけれど、黙ってたんだ。これで俺、捨ててもらえるかな? そうしないと、兄ぃに拾ってもらえない』
『いいこだな、きっと大丈夫。捨てられた静寂は、俺が一生離さない』
『兄ぃ、大好きだ』
『静寂、大好きだ』
別々の部屋なのに、壁に耳を当て毎晩睦みあった。
そんな思い出も、今はただの昔話だ。
二人を知っている人がいない遠方。
兄弟でルームシェア。
同じ大学に通っているが時たま一緒にいるくらいで、特別仲が良さそうには見えない。
とうに成人を迎えている大人の兄弟がまさか一つのベッドで毎晩抱き合って眠っているなんて……映画やドラマの中の世界にすぎないじゃないか。
周囲の人々の想像を〝まさか〟に仕立てたのは兄である。
兄には従順な静寂は、ストップをかけられていなければ片時も離れないだろうし、人目も気にせず絡みついただろう。
そういう意味では過去も現在も、兄が作り上げた安全な世界だ。
頭の悪い、もっと言えばイカレたと他称される静寂だけでは、早々に淘汰されてどこかの施設に詰め込まれていた。
大学になんてどうしても入れなかっただろう。生きていたかすら怪しいところだ。
そうでなくても兄共々、周囲に遠巻きにされおもしろおかしい話題の種になり、好奇と嘲笑の綯交ぜになった視線で穴だらけに殺される。
静寂に理解できない、他人の評価を気にする思考。
もしかしたら、兄がそれを重んじるその理由は──静寂を守るためなのかもしれない。
正解は定かではないが、そう考えれば幾分静寂の胸がすいた。
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