3 幸と不幸についての見解

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3 幸と不幸についての見解

 そうして兄が兄ではなく恋人になって、一ヶ月が過ぎた。  兄弟から恋人になったところで、大いなる変化は訪れないものだ。  世界は相変わらずともに暮らすマンションの扉で区切られ、カーテンは開かれることなく部屋は薄明かりのまま。  けれど甚大ではないが、変わったこともある。  一つ。兄が静寂と快感を共有するようになったこと。  キスは数え切れないほどしていた。  絶対に人目のない場所を見つけるのは静寂のほうがうまく、警戒し、もしもの場合の言い訳や後始末を考えるのは兄がうまい。  静寂が高校に上がるとともに、兄は地方の大学へ進学。  それについて行き、通信制の高校に通いながら二人で暮らす。  二人きりの生活が始まるとほとんど毎日、兄は静寂に触れた。  まだ成熟しきっていない十代の体を思う様調律し、どこを触っても甘い媚声を奏でるように改変した兄。  それでも抱いてはくれなかったのに、恋人と関係を改めてからは求めるがまま奥深くまで全てを呑み込ませてくれる。  これは目に見えた変化だった。  それからもう一つ。  愛の言葉が恋人らしく変化した。  これまで兄は『愛してる』とは言わず、『好きだ』と言っていた。兄がそうだから、静寂も『愛してる』とは言わずにいた。  おそらくこの国の兄弟だと、愛してるという言葉はよくないのだろう。それが恋人となると、いくらでも愛してると告げ合える。  どちらの変化も、静寂にこの世の全てを慈しめるような穏やかな心地をもたらした。  部屋の中での二人の時間は確実に糖度を増したし、なにより兄が毎日幸せでたまらないとばかりの笑顔で日々を生きている。これ以上ないくらいの素晴らしい生活だろう。  ──ではなぜ、自分はこうもとろ火であぶられるような息苦しさを感じているのか?  この問は頭のよくない静寂には解けず、あの日から一ヶ月、ずっと頭の片隅に居座りじっとりとした気味悪い視線を向けているのだった。  本日は晴天なり。  登校する日、静寂はいつもランチを一人で取る。晴れているといつも座っている場所が曇り空より心地いい。  一通りの少ない機械棟の倉庫へ続く道。の、脇の雑木林。の更に、植木の影。ここが静寂の定位置である。  一般的な情緒に溢れた自分は、やはり晴れが好きだ。木漏れ日の下で食べる兄の手作り弁当は格別だから。  薄まった太陽光ですら恨みがましく呪ったことなど記憶から抹消している静寂は、陰鬱とした雰囲気を纏う顔を、僅かに緩めてランチを楽しむ。 『卵焼き、辛子味噌。ウィンナー、黒胡椒増量。温野菜、マスタードをたっぷり。枝豆サラダ、一味唐辛子。おにぎりは明太子、焼き海苔巻き。全部食べて帰ってこい、な?』 『うん。兄ぃ、愛してる』 『やり直し』 『あ……喧騒、愛してる』 『オーケー。愛してるよ、静寂』  今朝のやりとりを思い出す。  名前を呼んで言い直すと、笑顔だけで愛情を表現できる兄は更に愛してるのキスをくれた。  兄がああも嬉しげならば、静寂はまだ慣れないが、いつか間違わずに名前を呼び続けられるようにならないといけない。  パクリとウィンナーを食み、そんなことを考える。  愛しい人を幸せにしたい。  望みを叶えてあげたい。  離れたくはないし、もしも今後兄が静寂に飽きるようなことがあれば、もう二度と愛してるなんて言われないだろう。 「……今の間に、いっぱい言われないと。ちゃんと、兄ぃを兄ぃから解放しないと」  言い終わり、咀嚼する。  今日のブロッコリーは、マスタードが効きすぎていたようだ。  静寂にとって兄とは、霜川 喧騒ただ一人。  しかし兄はそれを鎖と表現した。  静寂を愛するために不必要な、拘束具であると。それが兄弟だと。  兄を冷たく太い鎖が縛りつけている様を思い描くと、なんとも不快な気持ちになった。それにとても、哀れに思えた。  愛する人を縛りつけるなんて、そんなイカレたことはしない。  自分はいたって正常な人間であり、いたぶる趣味も悲しませて喜ぶ性根も持ち合わせていないのだから。
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