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第4話 デートしよ?
どうしてこんなことになっているんだろうか?
「お疲れ様~、愛希。ずいぶん長かったけど、オレのためにお化粧直しでもしてくれたのかな?」
まぶしい白い歯を目の前でこれでもかというくらい見せつけながら星野龍空こと悪魔が笑っていらっしゃる。
開いた口がふさがらないと言うのはこういうときに使っていいんだろう。
穴が開くほど龍空を見上げる私に極上の営業スマイルをこの男は降り注いでくれている。
頭がとてつもなく痛い。
すべては昨夜の大失態が招いたことゆえ、なにも言えない。
しかしだ。
それにしたってなんの罰ゲームだというんだろうか?
「ありえないでしょ、それ」
そう返したのに龍空はまったく聞いていないらしい。
「そう、それは光栄だな。ありがとう」
とんちんかんな答えしか返ってこない。
なんなんだ、この男。
スルースキルを行使してきたうえに『光栄だな、ありがとう』って一体なんなの?
たしかにそう言われて悪い気はしない。
待たせたときに返ってくる言葉は味気のないものや嫌味が一般的だ。
待たされる――ということがありえないことみたいに不機嫌な声が返ってくることが普通であって『ありがとう』という寛容的な態度も言葉も今まで受けたことがなかった。
もちろん相手を待たせてはいけないことだし、小学校で習った5分前行動というものが身に沁みついて、待ち合わせには自分が先についていることのほうが多い。
だけど少ない恋愛経験を思い起こしてみてもこういうふうにされた覚えはない。
例えば電車に乗り遅れて待ち合わせにほんのちょっと遅れたとしても今みたいな言葉は返ってこない。
いや、こなかった。
『化粧直しで遅れるのなら間に合うように化粧すればいいだけの話』と言われるのがオチだ。
だけどね。
わかってはいても、約束の時間ぎりぎりまで女は努力をする生き物だ。
ちょっとでも相手に『きれいだね』って褒めてもらいたい。
その一心であることは間違いない。
だって化粧やオシャレが苦手な私だって、なんだかんだがんばるんだから。
「しわ」
「は?」
「愛希ってば眉間にずっとしわが寄っているよ。勿体ないなあ」
『素材いいんだから』
そう言って龍空は私の顔に自分の顔をぐっと近づけた。
整った彼の顔が自分の鼻先近くに寄ってきて思わず一歩後ずさる。
「ちょっとお。警戒心強すぎだって」
くすッ。
龍空がまた笑った。
仕事を定時で終わらせてきたはいいけれど、ここはまだ社内。
しかも会社のロビーで、出入り口で、多くの人が行き交う中。
頼むから人目を弁えてはもらえないだろうか。
それでなくても昼の一件でかなりの反感を女子社員達に買ったらしい。
昼休みの後、同期の美波は口もきいてくれないくらいだ。
その上、他の女子社員もコソコソと自分をチラ見しながら噂話してくれているんだから。
困り果てている私のことなどお構いなく、龍空はニコニコ笑顔を湛えたまま今度は腕を差し出した。
「なに?」
「腕組まないの?」
「なんで?」
「だってデートじゃない?」
「同伴の間違いじゃないの?」
「愛希からお金取るつもりないよ、オレ」
「信用できない」
「っていうかさ、組みたくないの?」
「組みたくない」
「なんで?」
「なんで……って……」
龍空の顔は『さっぱり意味がわからない』と語っている。
待て。
わからないのはこっちのほうだ。
なぜ腕を組まなくちゃならないの?
なんで『デート』とかアホな言葉が出てくるの?
同伴強要したのはあんたじゃないの?
組みたくない理由がなぜわからないのかがわからないんですけど。
5時間前を思い起こす。
ランチタイムに乱入した珍客はこともあろうにこんなことを言い出した。
『約束通り『特別な関係』になりに来ました。だってさあ、愛希ったら昨日はそれどころじゃなかったじゃない?』
大衆の面前で大声上げて、参った顔でこの男はそう言った。
私がバカだった。
あの男の言葉に一瞬でもグラッと傾いてしまったことを今、死ぬほど後悔している。
こんなことならお酒を浴びるほど飲むなんて愚行に走らずに真っ直ぐ帰宅して寝てしまえばよかった。
だけどね、問題はそこだけじゃなくって、この男だ。
馴れ馴れしくも『愛希』と呼び捨てにしている。
たった一回一緒に酒を飲んだだけだというのに呼び捨てにしているのはどういうつもりなんだろう。
フレンドリー通り越してただのバカ?
勘弁して!
いや、そもそもこの男に名乗った覚えがない。
それなのになぜ私の名前を、しかもフルネームで知っている?
『でさあ、愛希。今日、暇? あっ、勿論、お仕事終わってからのことね』
男はなにも気にすることなく相変わらずのハイテンションで続けて質問してきた。
愛希って呼ぶな。
暇は大いにあるけど、あんたと関わる時間なんかありません。
仕事終わりになにしようっていうのよ?
これを言葉で出してしまえばいいのだが、いかんせん場所が悪い。
社内では影の薄い地味な女で通っている。
口が悪いのはあくまで心の中だけに押しとどめている。
猫を被っていると言われたらそれきりだけど、被っていない女なんか世の中に存在していません。
『で、どう? 食事でも? 仕切り直しってことで。ああ、スーツのことは気にしなくていいよ。あれ、『オーダー』で『高くて』『お気に入り』だったけど、全然気にしなくていいよ。急に立ちあがって、ちょっと気を抜いたら酒回って吐いちゃうなんてことはさ、よくあることじゃない? うん、ぜんぜんオレ、気にしてないから。後処理大変だったけど。うん、ぜんぜん気にしてない』
『気にしてない』が多いぞ、おいっ。
『気にしてない』と言いながら『オーダー』と『高くて』と『お気に入り』を強調してましたよね?
っていうか、そんな話を大声で言うな!
酔った勢いで相手の胸ぐら掴んで立ち上がり、かけられた言葉に気が抜けて、急にフラッとしたかなと思ったらクラクラ天井が回って。
そうしたらあとはジェットコースター乗り終わったみたいにすごく気持ち悪くなっていて。
……気づいたら吐いて目の前の男のお腹の辺りにぶちまけていた。
吐いたら落ち着いたけど、どうしていいかパニックになった。
財布から一万円取り出して『ごめんなさい』と汚れた手で相手の手に握らせていたことに気づいてさらにパニックになって。
とりあえず笑って逃げた。
――なんてことは死んでも二度と思い出したくない大失態だった。
それなのに周りを見回してみれば、社員食堂にいる人間の大半が興味津々の眼でこちらのやりとりを見つめている。
ああ、もう本当に最低最悪。
死にたい。
『ねえ、愛希はなにが好き? なに食べたい? 好きなもの言ってよ、奢るから。イタリアン、フレンチ? ああ、和食もいいよね~』
いつまで経っても減らない口に、私は思いっきりプチトマトを突っ込んだ。
いい加減にしろ。
勘弁してくれ。
私はあんたとなんか関わり合いたくないっていうの!
これだから軽い男は大嫌い。
誰彼かまわず誘うような男は心底嫌い。
それに図々しくて、無頓着で、デリカシーの欠片もない男は死ぬばいい!
『愛希、プチトマト嫌いなの?』
美味しいのに……と突っ込まれたプチトマトを噛み砕きながら、男はまったく方向性の違う話をしている。
違う!
おまえが嫌いなんだ!
けれど目の前の男は嬉しそうに頬に手を当てながらうっとりとこちらを見つめるんだ。
ダメだ。
打つ手がない。
どうしたら追い払えるのか?
男の話に乗ればそれで満足してバイバイできるのか?
いや、そもそも私が悪い。
それは理解している。
だけどそうは言ってもクリーニング代はきちんと払ったのだから、それで良しにしてほしかった。
それともこれはゲロまみれにさせた報復なのか?
それならば。
『付き合えばいいのね?』
『付き合ってくれるわけ?』
『今日だけよね?』
『今日だけじゃなくてもオレはぜんぜん構わないよ』
ニコニコと笑顔のまま龍空は答えた。
噛みあわない。
ぜんぜんかみ合わない。
相手の笑顔に戦闘意欲がごっそり削ぎ落とされていく。
無駄だ。
この男に正面から向き合うだけエネルギーの無駄だ。
『5時に終わるから』
『了解。愛希の会社のロビーで待ってるよ』
そう言うと龍空はすくっと立ち上がった。
クルリと背を向け歩き出す。
が、一歩踏み出したところで『アッ』と言って立ちどまって、もう一度こちらに向き直るとツカツカと寄ってきてチュッ……と頬にキスをひとつ落としていった。
『忘れ物しなくて済んだ』
鼻先すれすれのところでキラキラ笑顔を振りまく男に反射的に平手が伸びた。
だけど、その手はスッと身を引いてかわされた。
『臭い上に痛い思いはご勘弁~』
そう笑って軽い足取りで去って行く後ろ姿を、私は唖然と見送るしかなかった。
でも、地獄はその後だ。
龍空が出て行った社食内が騒然となった。
至極当然の結果ではあるけれど『あれって星野龍空本人だよね?』とかざわざわざわざわ。
しかも背後からものすごい威圧的なオーラが立ち上っていた。
向き直ってみれば、眉間にこれ以上はないほどしわを寄せた美波がいた。
『どういう関係なの?』
『えっと……』
『龍空に興味ないって言ってなかった?』
『それはそうなんだけど……』
『じゃ、あれはなに?』
『さあ?』
『キスするほどの仲なの?』
『わかんない』
楽しいランチタイムは美波の質問責めで終了し、満足に食事もできなかった。
仕事しているときも美波他、社員という社員の凄まじい視線が降り注ぎ、落ち着いて仕事もできない。
そりゃ、そうだ。
社内メールでこの騒動が一気に回ってしまったのだから。
なんで?
なんで私が責められなくちゃならないの?
本当に興味ない。
できれば替わってあげたい。
いや、ぜひ替わっていただきたい。
定時になって矢のような視線から逃げるようにしていそいそオフィスを出てロビーへ向かえば、人だかりのど真ん中に龍空はいて、取り囲む女子社員相手に名刺を配って営業活動をしていた。
そんな中で私を見つけるなり大きく手を振って、またしても同性の敵を増やしてくれたわけで。
この現実から早く身を隠したい。
「じゃぁさ、百歩譲って腕は組まなくてもいいからさ。せめて隣歩かない? これじゃ会話成立しないじゃない?」
龍空の姿を二歩後ろで眺めながらついていく私に向かって、龍空はそう提案をもちかけた。
会話なんかしたくないっつーの。
そんな心の声がだだ漏れだったのか、龍空は小さくため息をこぼすと。
「じゃ、オレが愛希の隣ついていく」
そう言って二歩後退。
「隣歩いてくれるまで、オレも下がり続けるけど。そんな無駄なことしたい?」
したくないよね?
オレ、しつこいよ?
そんな視線をこちらに寄越しながら龍空は笑う。
「わかったわよ」
しぶしぶうなずく。
すると龍空は上機嫌にまた笑う。
この男、落ち込むとか凹むとか、ないんだろうか?
「でさ、なに食べようか?」
「別に」
「そう? じゃ、オレ決めていい?」
「どうぞ」
「どうもありがとう」
『ありがとう』という言葉が口癖みたいにスルリと出てくるのはホストゆえの職業スキルというやつなのか?
ぼんやりと見つめる私の前で、龍空はスーツのポケットからスマホを取り出すと、手慣れたようにどこかへ電話をかけた。
「あ、星野です。そう、うん。個室がいいかな。ん? そうだな。お任せってことで」
それだけ言うと通話を切り、こちらににっこり笑顔を向けた。
「予約できたから行こうか?」
「どこに?」
「お任せでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「じゃ、黙ってついてくる、ね?」
瞬間、龍空はパッと私の手を取って走り出した。
「ちょっと!」
慌ててついていく。
ヒールの低いパンプスと言っても、走ることにたけた代物じゃない。
龍空は長身の上に股下一歩がでかい。
そんな相手の速度に合わせるのは大変なことだと言うのに、彼はご機嫌な笑顔に鼻歌まで混じらせて走っていく。
誰でもいい。
この男の頭に鉢植えでも落としてくれまいか?
しばらく走った後、龍空は肩で息をする私の左手ごと自分の右手を上げると
「タクシー!」
とやってくるタクシーを呼び止めた。
っていうか、どうしてこういっつも大声なのよ!
恥かしいじゃない!
行き交う人の視線が私たちに降り注がれる。
それもこれもこの男のバカみたいに大きな声のせいだ。
「ねえ、あんまり大きい声出さないでよ! 注目浴びるじゃない!」
タクシーに乗り込んですぐにそう伝えると、龍空は「ん?」と首を傾げた。
「あなたが大きな声出すから人の注目浴びちゃって困っているって言ってるの! わかる?」
「ん~?」
さらに龍空は首を深く傾げた。
バカなの?
理解力ないの?
これ以上どう説明しろっていうのよ!
すると龍空はこんなことを言い出した。
「それって声が大きいからっていう理由じゃないと思うんだけどねえ……」
意味がわからなかったのはこっちのほうだった。
声が大きかろうと小さかろうと注目されるっていうの?
どれだけ自信過剰な男な……
「あッ……!?」
重大なことに気づいて思わず口元を手で押さえてしまった。
そうだった。
すっかり忘れていたけれど、この男、有名人だったんだ。
芸能人じゃないけど、同様レベルでメディアに取り沙汰されている有名人だということがすっかり頭から抜けていた。
だからいつも注目を浴びるんだ。
「すごいなあ、愛希は。オレ、そんなこと言われたことなかったんだよね。だから、なんだろうなあ。新鮮?」
「意味わからん」
「そう? オレ、マジで愛希とお知り合いになれてうれしいよ」
龍空が嬉しそうにコロコロ笑う。
それにしてもよく笑う男だなと思う。
例えて言うならあれだ。
犬だな。
しかも誰にでもなつくうえに躾がなされていない。
「ねえ」
「なによ?」
「このまま手、繋いでいてもいいの?」
龍空が繋いでいる手を持ち上げた。
「こ……断る!」
「意地悪~」
だけど龍空は無理強いしなかった。
そっと手を離すとそのまま私から顔を背けて、外へと視線を移す。
沈黙のまま二人して違う窓の外を眺めていた。
渋滞しているからタクシーがちっとも進まない。
だから余計に息苦しくなってしまっていた。
嫌いな男と初デート。
ぜんぜんドキドキなんかしないのに。
ぜんぜん嬉しくもないのに。
なんでこんなにも緊張しているんだろう?
今までだって手くらい繋いできたじゃない?
それに考えてみれば、この男と手を繋いだのは今が初めてのことじゃない。
昨日だって握っている。
そう、しっかりと。
ゲロ塗れだったけど。
それにも関わらずなぜこんなことぐらいで信じられないくらい緊張しまくっているんだろう?
――コイツ、こんなに男っぽい手だったんだ。
思わず龍空が握っていた手に視線が落ちてしまう。
肉厚の温かな男の手の感触がまだそこに残っていた。
見た目はごつく見えないのに、だ。
「あ……ッ、そこ右行ってもらえる?」
耳元近くでそう声が聞こえて、思わずピッと背筋が伸びた。
視線を向ければすぐそこに龍空の顔がある。
彼は私と目が合うとニコッとまた笑みを作った。
ドキンッ!
不意だったから。
本当に不意だったから。
思いもかけずに鳴ってしまったのは鼓動。
「やっぱり手、繋ごうか?」
『寂しいでしょ?』
そんな言葉も添えて、龍空が自分の右手をひらひらさせる。
――寂しい?
彼の言葉に思わず視線が両手に落ちる。
――寂しい?
「ね?」
ほらっと差し出されるのは龍空の大きな手。
「お……お断りよ!」
パチンと差し出された手を払って、プイッと大げさなくらい顔を反対方向へ背けた。
もう一度窓の外に目を向ける。
「もう、愛希ったら恥ずかしがり屋なんだから~」
『そういうところ、可愛くて好きなんだけどね~』
――これ以上、人のことからかうな!
そう言いたかった。
だけどドキドキしている心臓の音のほうが気になって。
龍空に聞こえてしまったら……そう思ったらそっちを向けなくて。
先ほどよりはスムーズに走り始めたタクシーの速度と同じ速さで流れていくビル群たちを眺めながら、これ以上心臓がドキドキ言わないように、ギュッと胸元を両手で抑え込んだ。
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