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第10話 後悔先に立たず
デートしましょうと言われた約束の日曜日。
私は午前の10時に待ち合わせと言われたイタリアンカフェで星野龍空を待っていた。
なぜかテーブルの上には赤ワインの入ったグラスとデキャンタとチーズの盛り合わせが置かれている。
かれこれ30分以上も経っているのにまだ来ない男をワインを飲みながら待っているという。
『撮影がはいっちゃったから30分くらい遅れるけど、終わり次第直行するからワイン飲んで待っていて』なんていう電話が入ったのが10時ジャストのこと。
おかげでお酒が進むこと、進むこと。
ハッキリ言って何杯目になるのかわからない。
――それにしたって解せないじゃないの?
電話を切るや否や運ばれてきたワインとチーズの盛り合わせに作為を感じる。
どこかで見ているのではないのかと思えるくらいのナイスタイミングだったからだ。
お酒は嫌いじゃないけども引っかかるのがトラウマになりそうなお戻し事件。
いろんなことをゲロって今に至っているんだから自重したほうがいいのは痛いくらいわかってはいても、一口飲んだらそれはそれは美味しくて、かつチーズの盛り合わせが恐ろしいほどワインに合っていて、その後グイグイ煽るように飲んでしまって現在に至る。
まあね。
約束の相手がこのまま来なくても、ずいぶんゆったりと優雅な休日を過ごせているわけだ。
飲んだ料金はもちろんあの男に払わせるつもりなんだけど。
チーズを口に頬張りながら、今週を振り返る。
一週間というのがこれほど長く感じたことがかつてあっただろうかというほどに、この一週間はまさに地獄だった。
『広報第二事業部』という事業部長と二人きりの部署。
けれど肝心の上司は常にお忙しい身の上でほとんど部屋にはいらっしゃらない。
一日何をするでもなく、渡された新商品の資料と睨めっこ。
部署異動になってから、出勤から出社までその部屋から出ることもない。
日課だった社食のランチも遠のき、今は囚人生活さながらの毎日を送っている。
ハッキリ言って軟禁状態。
それもこれもCM出演をOKさせろなんていう命令のせいだ。
「これが今度売り出す新商品。これがCMの絵コンテだ」
そう言って部長様が差し出す書類を丁寧に受け取りながら目を通す。
『あなたのすべてを奪いたい』
というキャッチコピーのついた商品は光沢のあるシルバーを基調にエメラルドグリーンの横ラインが印象的な繰り出し容器とキャップに包まれた口紅だ。
全6色で、見た目的にはさほどインパクトがあるものとは言い難いけれど、同時に渡された絵コンテで、それは一気に吹っ飛んだ。
「あの……これをあのホストにやらせるんですか?」
「ああ。なにか問題でも?」
「いえ……その……全裸なんですか?」
「キャッチコピーがそうだからな。ホストというイメージからも合っているだろう?」
絵コンテはこうだ。
上半身裸の男が白いシーツを巻いた裸の女性を抱き寄せる。
そこで唇クローズアップ、ばーんっ!
キスすれすれみたいなコマ割りで、これは健全な青少年にはあまり見せられないんじゃと危惧するくらい、とてもエロティックな内容になっている。
確かに女性を食い物にするホストには打って付けだろうが、それにしても別に他にイケメン俳優ならいくらでもいるのだし、特にあの男でなくても構わないんじゃないかなあと意見したくなるくらいエロ全開なんだから。
PTAからクレーム来てCM放送できなくなりそうな予感がする。
「あの部長……CM出演をOKさせれば別に恋に落ちるとかそういう回りくどいことしなくてもいいんじゃないでしょうか? ちゃんと出演交渉してみれば、出たくないなんてあのホストが言うとは思えないんですが……」
すると高嶺はクッ……と黒縁眼鏡を押し上げて「断られた」と言った。
「は?」
「交渉はした。だがあの男は断った。契約金も必要ないと言ってる。あと俺はアイツに嫌われている」
眉をこれでもかというほど引き寄せて、怒りさえもそこに漂わせている高嶺の姿に背筋が自然に伸びる。
――へえ、断ったんだ。
契約金もいらない、CMも断ったなんて意外だ。
ホストやっているよりもよほど莫大なお金が一気に手元に入るだろうに。
それに有名になったのなら、そんな話だってくるだろうし。
「部長みたいな一流の営業マンが口説けなかった男を私が口説けるとも思えないのですが……そもそもあの男に拘らなくても他にたくさんイイ男もホストもいると思いますし、なんなら部長でも……」
そう続けると高嶺はキリッとこちらを一度睨んだ後で「確かに」と続けた。
「美人局としてもキミは地味で、色気もなく、魅力的な女性とはお世辞にも言えない。だが唯一、あの男が執着する女という点ではキミ以外に適任者がいない。それだけだ。それからキミの言うとおり、あの男に拘らなくても男ならたくさんいる。社長がどうしてもアイツと言うから仕方ないから引き受けただけだ。キミは黙って自分の仕事をしてくれればいい。余分なことを考える暇があるのなら、どうやってあの男を口説くかをもっと真剣に考えろ」
ずいぶんなことを真顔でバッサリ言ってくる男だ。
星野龍空にもずいぶんズバズバ付け込まれたが、高嶺はさらに容赦がない。
淡々としていて、ビジネスな匂いがプンプンする言い方するから嫌われるんだよ、この人。
この人と比べたら龍空が神様に見える。
あっちはあっちで問題多いけど、こっちの人はこっちの人でかなり問題だから。
――女に困らない男はろくなヤツがいないわ。
容姿端麗な部長様は社内の女性にワーワー、キャーキャー噂されたり、褒めちぎられたり、うっとりされている。
冷たい態度も言葉もそそるらしい。
普段ツンツンした男が特別な女にだけ見せる優しさがいいのよ――は幻だと思うんだけどね。
「美人局って、ずいぶん古典的な手法じゃないですか?」
「古典的だが、一番引っかかりやすいだろう? 相手は女が好きな男なんだから」
星野龍空は有名になるほどのホストで数多くの女を相手にしてきている、いわゆる女性のエキスパート。
そんな男にいかにも美人局だと思わせるような美人で、スタイルが良くて、魅力に溢れた女性を宛がっても、逆に警戒して上手くいかない。もしくは逆にこちらが取り込まれる可能性がある。
けれど、相手が心を許している相手なら、たとえそれが美人ではなくとも美人局だとわかりやすい女性よりは成功率が上がるはず――というのが高嶺の持論らしい。
理論的には納得できる。
しかし、残念ながら龍空が自分に心を許しているとも思えないし、女性のエキスパートというのも怪しい。
所詮はホスト。
ちやほやされたい、構われたい、はべらせたい……なんて女の自己欲求を満たすだけの相手に女性の全てをわかってたまるか!
くそくらえッ!
「会う約束はしたのか?」
「あ……まぁ……日曜に」
「どこで待ち合わせだ?」
「まだ決まっていません」
「決まったら報告しろ」
お忙しい上司様にはなにかあれば常にメールでご報告。
そして今日のこの待ち合わせの場所も昨日すでに報告済み。
しかし、そんなことを聞いてあの上司様はどうしようというんだろうか?
まさか誰かに監視させている?
周りをゆっくり見回してみる。
まるで映画の中のスパイに追われる主人公にでもなった気分だ。
若いカップルや友達同士のグループで賑わうカフェに自分を監視するような怪しい人物は見当たらない。
黒服姿の黒縁眼鏡かけた仏頂面のイケメンなんてものも紛れ込んでいない。
――考えすぎかあ。
それにしてもまだ来ないのか、あの男。
デートに誘っておきながら30分以上も待たせて、へらへら笑って来ようものなら叩き切ってやる。
そんなとき、視界の隅に入ってきたのはラフなシャツ姿のカジュアルでオシャレな長身男の姿だった。
そんな男が颯爽と入って来たものだから、女性客という女性客は皆、その男へと視線を走らせる。
惜しげもなく顔を出して、バーゲンセールみたいに笑顔を振りまいている男が思いきりこちらに向かって手を振って超絶アピールしてくる。
――あのバカっ!
遅れた上に待たせているのだから、もう少し反省しながら入ってこいよ。
なんだその能天気さは。
アウト確定。
お仕置き確定。
「ごめん。まさか突然雑誌のインタビューの撮影とか入ると思わなくて。デートだから嫌だって言ったんだけどねえ。ちょっとお得意さんの関係もあってお断りできなくて。あ……怒るよねえ。でも何杯飲んだの、愛希? 目……座って……」
いつもの調子のマシンガントークの途中、龍空のTシャツの首元をブン掴み、グッと力いっぱい引き寄せて、鼻先すれすれに顔を近づけて睨みつけてやる。
「ごめんなさいだろ、そこ」
「あ……愛希?」
「遅れてきておいて、言い訳タラタラしてるなよ。ごめんじゃないし、ごめんなさい。ちゃんと誠意を伝えるもんでしょ? 常識でしょ?」
遅れてきた理由なんてどうでもいい。
遅れてきたのなら遅れてきたで仕方ない。
それが仕事というのなら尚更だ。
男は仕事を優先したほうがいい。
働かないダメ男より、仕事に一生懸命な男のほうがよほどいい。
けれど、それを理由にああでもない、こうでもないと言い訳し、ごめんなさいの誠意もないのは許されない。
「ご……ごめんなさい?」
「なんで語尾上がるのよ。謝り方も知らないの、あんた?」
「や……でもほら……みんなに見られちゃってるよ、愛希ちゃん?」
ほらほらとでも言うように視線を走らせる龍空の首をもっと締め上げるようにグッと力を込める。
「謝る気あるの? ないの?」
「ご……ごめんなさい」
降参というように両手を上げて龍空の口から一言漏れる。
それを聞くとパッと手を離し、ワイングラスを龍空へ差し出した。
「えっと……あんまり飲みすぎるとまた吐いちゃうんじゃない、愛希ちゃん?」
「あんたが飲んで待ってろって言ったから待っていてあげたんじゃないの。注ぎなさいよ、ホストでしょ? こんなことは慣れてるでしょ? それとも注げないって言うの?」
「いやぁ……そんなことないけど……なんか機嫌ものすごく悪くない?」
しぶしぶ龍空がワインを注ぐ。
それをグイッと飲み干した後、グラスを打ち付けるようにテーブルの上に置くと、大きく息をついた。
お酒を飲んだせいもあって、吐き出す息も、体も熱い。
「全部あんたのせいよ。あんたが私の前に現れてから、私の人生めちゃくちゃよ。会社の同僚からは嫌な目で見られるし、部署は異動になるし、異動先の部長は最低口悪黒縁眼鏡だし」
「黒縁眼鏡? ああ、あの人ね」
「そうよ。恐ろしくイケメンなのに、超S男。おまけにあんたを口説き落とせっていうのよ。何のためだと思う? あんたを新商品のCMにどうしても使いたいからだって。私みたいな地味で色気もなくて、魅力的な女性とはお世辞にも言えない女でも、あんたがデートに誘うくらいには特別みたいだから、近づいて口説き落とせだなんてね。あれが上司じゃなかったら、鳩尾に正拳突きお見舞いしてやるところなのに。なんでこうかな、私の周りって。男運ないったら……」
そこまで言ってハッと我に返る。
ちょっと待て。
お酒の勢いつきすぎて、私は一体なにを言った?
自分の任務、全部吐露しなかったか?
吐いたね。
ゲロッたね。
今回は違う意味で全部吐いちゃったよね。
「そうか……そんなことがあったんだ、愛希。オレ全然知らなくてごめんね。そうか、そんなに飲みたくなるまで心が病んでいたんだね。それなのにオレはキミのつらい状況をわかってあげようともせず、能天気にデートできるってウキウキしちゃっていたんだね。挙句の果てにこんな状態のキミを30分以上もほったらかしにして、キミにお酒を浴びるほど飲ませるなんて、オレって本当に最低だよね」
いつもの調子づいた言葉がとめどなくなだれ込んでくる。
ちらりと対面に座る男を見れば、なにやら胡散臭いにやけ顔。
なんだ、その顔は?
そのしてやったりな顔は一体なんだ?
「そうだよ。やっぱりそのつらさは二人で背負わないといけないよね?」
なんだ、その言い回しは?
そしてその脅すような目つきはなんだ?
「CM受けてもいいよ。そのかわり愛希にも手伝ってもらうけどね」
そんな言葉を紡ぐ口元のゆるやかな曲線にはなんとも言い難い、意地悪な色が浮かんでいる。
お酒をやめよう。
もう一滴も飲んだらダメだ。
そんな後悔、もう遅い。
相手はニンマリとさらに口角を上げてこう言い切った。
「愛希も一緒に出るんなら、この話受けてもいいよ」
そうキッパリと言いきったのだった。
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