第29話 まな板の上の鯉のごとく

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第29話 まな板の上の鯉のごとく

 胃の中を余すところなく満たし終えた私たちが次に向かったところは高級ブランド店が立ち並ぶような表通りファッション街ではなく、郊外の一軒の美容室だった。  すいぶん古くから営業しているらしく、佇まいも今っぽくない。  昭和時代の美容室というかんじだ。  そこに躊躇もせずに入って行こうとする倫子の腕を強く掴むと、彼女は小さく振り返ってやわらかな笑みをたたえた。 「あ……あの……」  戸惑いが声に出る。  なぜ、ここへ来たんだろうか?     美容室だ。  美容室と言えば髪を切るところだ。  ――いったい全体、なぜここへ?   オシャレ通りにもそれ相応の美容室はたくさんあるはずなのに、なぜ郊外の……しかもどう見てもおばちゃん専用っぽいような美容室をわざわざ選んだのか。    私があまりにも地味だから?   オシャレなお店で大変身は必要ないとか?   それともからかわれてる? 「大丈夫、大丈夫。心配しなくていいの。YESって言ったんじゃなかった?」  確かに言いました。 『YES、倫子様』とはっきり言った覚えがあります。 「私を信じなさい」  私の頭をポンポンと二回軽く叩くと、美容室の扉を思いっきり引き開けて、倫子は大股で中へと入った。  腕を引っ掴んでいる私ごと――  半ば強引に美容室に放り込まれるようにして中へと入れば、昭和のニオイ漂うおばちゃんではなくスレンダーな細身ボディをした人が立っていた。  体育会系的な長身に、流し目クールな青年だ。  白いTシャツとジーパンをさらりと着こなした青年はひとり、ワゴンの上の道具をチェックしていた。  見覚えがある。  しっかりある。  だけど、どこぞでお会いしたのかが微妙。  整った顔立ちだ。  こんな美貌の主が記憶から掻き消えることは滅多になさそうなんだけど。 「悪いわねえ、レイナちゃん。睡眠時間削らしちゃって」 「レイナさん――!?」  倫子が放った名前で靄が掛かっていた記憶がすっきり爽快に晴れあがる。  見たことがあるわけだ。  知っているわけだ。  会ったことがあるわけだ。  いやいやいやいや、会ったことあるレベルの話じゃない。  ――だけどもね。  化粧なし。  女性の恰好なし。  どこからどう見ても『男性』にしか見えない彼女の姿は初見で……  化粧というか、印象的なボリューミーまつ毛がないだけでこうも印象が変わるのか。  まあ、それを言っちゃうと私も同じ穴のなんとかになるんだけど。 「いいですよ、倫子さんの頼みだし。それにその子のことは結構気に入ってるんで。なにせあのマリリンにしごかれても立ち上がってくるクソ根性がありますからね」  と、レイナはフッと口元を緩めた。  知らなかったら恋に落ちそうなほど、魅力的な青年なのに。  龍空よりよほど綺麗で嫌みがなくて、でもどこか憂いがあってかっこいいのに。  この人はオネエサマ。  勘違いしてはなりません。 「えっと……話が全く見えないんですけど」  オネエサマである元オニイサマと倫子を交互に眺めつつ、そう切り出した。  レイナがいるのはわかったが、レイナがなぜこの昭和美容室にいるのかがわからない。  ここの店主はどこへ行った? 「ここ、私の実家。店は祖母の代から続いているの。今は母と、時々私が手伝っているかんじ。今日は倫子さんに言われたから二時間だけ、お店開けるの待ってもらったの」 「レイナちゃんはカリスマ美容師なのよ。ほら、あそこ。トロフィーいっぱいあるでしょ?」  そう言って倫子は美容室の奥、綺麗に並べられた大小さまざまなトロフィーや楯を指し示した。  ここからではどんな賞なのかはわからないけど、本当にたくさんある。  それがすべてレイナの物なのだとしたら、相当いい腕の美容師さんだったことは一目瞭然だ。 「あれはかなり昔のものだし……今は違いますから。ああ、アキ。あなたはこっちへ」  レイナはクルッと回転椅子を動かして私を呼んだ。  小さくうなずくと腰を下ろす。  すると倫子も隣の空いている座席に座り、ゆったりと足を組んでから取り出したタバコに火をつけた。 「かなり期待されていたのに、なにもかも投げ打ってこっちの世界へ来たときは本当にびっくりしたけどねえ」  ふぅ……灰色の煙を燻らせながら少しずつ吐き出して倫子は懐かしそうに目を細めた。  そんな倫子の話を微苦笑して聞きながら、レイナは私の肩甲骨あたりまで伸びた髪に丁寧に触れて、そっとエプロンをかけた。 「ご希望ありますか、倫子さん?」 「カリスマ美容師にお任せするわ」 『どうにでも好きにして』  と本来なら私が言うべき台詞を付け加えた倫子は、肩肘をついて煙草を吸いながら、なにか面白いものを見るような目でこちらを眺める。  そんな一言にレイナは小さくため息を落とす。  鏡越しに私を見ながら顔を寄せる。  レイナとわかってはいるものの、レイナっぽくなくて一瞬ドキリとする。  鏡で見る姿はどう見ても男性。  今まで男性美容師さんに髪をいじられた経験のない私はものすごく緊張してしまう。 「アキ、この髪。なにか思い入れある?」  そう問われ、言葉に詰まる。  切りそろえることはあるけれど、ずっと伸ばしているのは確かだ。  あれからもう何年になるだろう?  二年? 三年?   ショートカットだった髪をここまで伸ばしてきた。   「……今度リベンジする男と別れてから……その……切ってないです」 「なんで?」 「……女は……長い髪じゃないと色気半分って言われて」 「そう」  そうつぶやいてレイナは一度目を伏せた。  けれどすぐに目を開くと、先ほどの穏やかな表情がものすごく熱い、情熱的なものへと変貌していた。 「わかった。もう、それ、言わせなくしてやるからね」 「え?」  一言残し、レイナの顔が離れていく。  ワゴンを引き寄せて置いてあったハサミ道具一式を腰に巻きつけるとハサミを手に取った。  鈍色に光る切れ味のよさそうなハサミを手にしたレイナがうっすらと笑む。 「楽しみぃ」  小さくこぼした倫子の声を遠くに聞きながら、私はただ近づいてくるレイナのハサミをまるでまな板の上の鯉のごとくなす術なく見つめることしかできなかった。
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