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第3話 人生最大の汚点
きりきりと締め上げるように胃が痛くて仕方なかった。
「だからさあ。よかったんだって、別れてさ。愛希ちゃんにはやっぱり合ってなかったんだよ。そんなに落ち込まないで。男なんて腐るほど世の中にはいるんだから。愛希ちゃんなら、次こそは絶対に『イイ男』に出会うって!」
目の前に置かれたサラダのプチトマトをフォークの先で突きながら、社員食堂の向かいの席で笑う相手の女性の顔を見る。
同期入社の木下美波がサラダにフォークを同じように突き刺しながら、熱心に私のことを励ましていた。
大きめのゆるゆるパーマがかかった茶色のふわふわした髪の先端が、彼女が笑うたびに小さく揺れている。
対して私はと言えば、真っ黒な肩甲骨あたりまで伸ばした髪を後ろで一つにきつく縛り上げている。
彼女のように髪を揺らしたかったら思いっきり首を振らなければ微々とも動かない。
くりくりした大きめの目にくっきり二重の美波と比べてると、私の目は小さめだし一重の切れ長だ。
筋の通った高い鼻をした美波よりは鼻も高くない。
甘え上手で、自分の魅せ方もよく知っていて、どうやって自分を飾ればいいのか、どう振る舞うのが持っている魅力を最大限引き出すのかも彼女はわかっている。
特に異性に対しての彼女のアピールの仕方は目を見張るものがある。
事実、男性たちにはちやほやされているし、モテているし、男に困ったこともないという。
だって私は美波のようには甘えることはできないし、自分がどうやったら魅力的に見えるのかなんてことも考えたこともない。
男に媚びてちやほやされたいとかモテたいとか、そんなことも考えていない。
正直、美波のような生き方ができていれば、もう少し男運とやらに恵まれただろうなとは思う。
女としての人生を謳歌している彼女が本当にうらやましい。
男どもが悶えるお得意のキラキラ笑顔を振りまく彼女の厚ぼったい唇にレタスが吸い込まれるように消えて行く。
これでもかというほど艶やかにプルプル膨らんだエロい唇。
――グロス塗りすぎ。
油ものを大量に食べたんですか?とツッコみたくなるほど光り輝いている。
だけどこういう唇が男心もとい男の下心をくすぐるんだろうなあ。
エロさが前面に出ているというか、前面に押し出しまくっているというか。
これが俗にいうフェロモンってやつなのかもしれない。
美波のなまめかしい唇を見ながら思わず自分のものに触れる。
厚みのない薄い唇の上へ慎ましやかに塗ったリップクリームはすでに剥がれて少しかさついている。
――ああ、残念。
ため息が自然に口から洩れる。
女として魅力がないのはわかっている。
化粧は基本的にしない。
会社に来ているときは眼鏡を掛けているのもあって眉毛を書く程度。
素で勝負!
なんてことを思っているわけではなく、ただ化粧がうまくないから滅多にしないだけの話。
上手に化粧をしようと何度か家で練習はしたけれど、小学生が母親の化粧道具を使ってみたみたいな出来栄えに化粧そのものをあきらめたんだ。
美波みたいに化粧ができたらよかったなと思う反面、化生が上手にできて素の自分とかけ離れた容姿になってなんになる? という思いも強い。
見た目を装ってエロくなったら寄ってくる男なんてド最低だろ!
と思えるからだ。
だってどうせセックスしたいだけのカスに決まってるもの、そんな男。
――ああ、やだ! 本当にやだ!
さらに胃が痛くなってくる。
この痛みをどこにぶつけていいのかわからないままプチトマトを転がす。
「男は星の数だよ、愛希ちゃん!」
前回、かなりこっぴどくフラれたときにも聞いたセリフだ。
次は絶対に『イイ男』に出会うって言われると私自身も『次こそは』と思う。
でも実際にはそんな男に出会っていないのが現実だ。
彼女の言うような自分に『マッチ』した『イイ男』とやらには一生出会えないような気にさえなる。
世の中には男と女しかいないと言うのに、どうやったら自分の欠けたピースを埋めてくれる相手に出会えると言うんだろうか?
ああ、Hの嫌いな男がどこかにいてくれないだろうか。
いたら奇跡か。
男は基本、精子をばらまいて自分の遺伝子を残したい生き物なんだから。
そう、他者の遺伝子を滅ぼしてでも残したいんだよ。
ライオン然り。
ライオンと人間を一緒にするのもどうかって話なんだけど。
「ねえねえ、そんなことよりさ。これ見て、これ!」
じゃじゃ~んッ!
そんなメロディーまでつけて美波はするりと話を切り替えた。
こうなるのは当たり前だけど、なんだかものすごく雑に扱われているような気がしてならない。
熱心に聞かれても、励まされても困るけど、こうもあっさり終わってしまうとそれはそれで物悲しくなる。
その程度の話だと言えば話なのだろうけど。
「イイ男だと思わない?」
美波が突きつけてきた雑誌を見た途端、私は絶句してしまった。
何度かまばたきを繰り返す。
そこに載っている男の顔写真を穴が開くほど見直した。
「ねッ、ねッ! イイ男でしょう~!」
美波がまるで自分の彼氏を紹介するみたいに顔を赤らめながらそう言った。
はっきりした目鼻立ち。
白い歯を見せて笑うその顔はたしかに一般的視点から言えば『イイ男』と呼べる部類のものだった。
けれどその顔が自分の胃をさらにきりきり痛ませる結果に繋がった。
「ごめん、その顔見たくない」
「ええッ!? それ本気で言っちゃってる? これ、誰だかわかってる!? 星野龍空だよッ!」
私のリアクションがあまりに薄すぎたのか、美波は身を乗り出してめちゃくちゃ早口にそうまくしたてた。
「星の陸?」
「だ~か~らあ、『星野龍空』だってばあ。 超売れっ子ホストでえ、今テレビとか雑誌でも女子のハートさらいまくっている話題のカリスマホスト『星野龍空』! 傷ついた女子の心を優しくケアしてくれる癒しの魔術師って……本当に知らないのお?」
その一言に串刺しにしようとしていたプチトマトがフォークの先からまるで逃げるようにすり抜けていった。
空ぶりしたフォークが白い陶器の皿の上で小さな金属音を立てる。
なんだ、その胡散臭いキャッチコピーは!
そう言いたくなったが、唾を飲み込むと同時に言葉も飲み込んだ。
「知らない」
知らなかった。
ぜんぜん、まったく、これっぽっちも知らなかった。
そんなに有名人だったんだ。
そんな有名人に私……
「ゲロっちゃったんだ……」
思い出したくない昨晩の出来事が鮮やかにフィードバックしてくる。
全身から一気に嫌な汗が噴き出してくる。
私、彼にゲロッたね。
いろんな意味でゲロッたね。
っていうかホスト?
それじゃ、なに?
女を食い物にしているサイテー男だったってこと?
その上、有名人?
最悪じゃない!
とことん救われないわ。
「ゲロっちゃったってなに~? ゲロっちゃうほど嫌ってこと? 龍空の良さがわかんないなんて愛希ちゃんってば、どうかしてるってぇ! 私だったらぁ、龍空に口説かれたら、たとえ『一晩だけ』でも『しあわせの絶頂』迎えちゃうのにぃ!」
信じられない。
信じられない。
信じられない。
どうしてリクの良さをわからないのか信じられない。
そう何度も言わなくてもいいじゃないっていうくらい美波は信じられないを連呼した。
一晩だけでしあわせの絶頂迎えさせてくれる男がこの世にいるというのなら、本当に一度お願いしてみたい。
だけど蘇る昨夜の記憶に、私はげんなりしていた。
胃の中に漬物石をぶっこまれたみたいな重い痛みが走る。
酒の勢いがあったとはいえ、結構なエグイ話をこの人にしましたよ、私。
そして有名人とは知らずに胸ぐらを掴んで大声で迫りましたよ、私。
『じゃあ、あんたは違うっていうの!?』
そしてその後の大惨事は……ああ、思い出したくもない。
できることなら記憶から抹消したいのに、思い出してしまって悶絶する。
でも、そう。
二度と会うことはないわけで。
だってお互いに素性なんて知らない関係で終わったんだから。
終わったというより始まってもいない。
昨日、行きつけのバーでたまたま会って話をして、人生最大の汚点と言える醜態をさらした。
そう、それだけの関係なんだから。
奇跡的に、偶然再会なんてことも絶対にない、と思う。
神様にも心からお願いする。
もう二度と酒に酔った勢いで初対面の男にストレス発散のために詰め寄ったりしないので、絶対にそのキラキラ笑顔の男と再会なんていう罰を与えないでください。
――アーメン!
そう心で十字を切った瞬間だった。
「すみませーん。藤崎愛希さんいますかあ?」
聞き覚えのある低い声が社食内に響き渡って、一瞬で全身総毛だった。
目の前の美波と言えばこれでもかというくらい口をあんぐりと開け広げている。
鳩が豆鉄砲食らったみたいに目を点にして私の後方を見つめていた。
瞬きさえしない。
恐ろしいほどざわめく室内。
嫌な予感しかしないまま、ゆっくりと見回した社食の入り口付近でシルバーのスーツをさらりと着こなした身長180センチほどの見覚えのあるデカい男の姿を発見する。
男は相変わらず大声で自分の名前を叫び、かつ、近くの人間に自分を知らないかと聞いて回っている。
なんという恐ろしい光景がこの目の前に広がっているのだろう。
もっとも会いたくない相手と道ですれ違うならいざ知らず、会社まで乗り込まれたんだから地獄だよ。
――逃げなきゃ! だけどどこへ!
急いで周りを見たけど遅かった。
男と目が合ってしまった。
『ヘビに睨まれたカエル』というのはこういうことを言うんだろう。
目を背けることもできず、顔を動かすこともできず、微動だにできず、数秒見つめ合った男の顔が一瞬険しくなる。
その視線からぎこちなく顔を背けて美波に向き直る。
背筋を走るひんやりした汗は留まるところを知らない。
落ち着け。
落ち着け、愛希。
わかるわけがない。
絶対にわかるわけがない。
昨日は髪も下ろしていたし、なんなら少しは化粧もしていた。
地味な事務職ユニフォームも着ていなかったから、たった一晩会ったくらいで私だってわかるはずがない。
だけど、なぜなのか。
大股で歩く足音が他の雑音の中に紛れていてもしっかり聞こえてくるのはなぜなのか。
「しらんぷりなんてずいぶん冷たいなあ」
そう言って私の右手側の席にどっかりと腰を下ろした男は、ゆっくりと顔を向ける自分へものすごいニッコリ営業スマイルを浮かべてながら、長い足を見せつけるようにして組みなおした。
「な……なんでここにあなたがいるの……でしょうか?」
「えッ!? そんなの決まってるでしょ? 愛希に会いに来た」
テーブルに肘を突いて組んだ両手の上へゆったりと顎を乗せたあと、首を傾けて彼は言う。紛れもない。
私が人生最大の汚点となりうる事態の関係者となった男、『星野龍空』その人だ。
彼は雑誌とまったく同じ笑顔を湛えながら目の前にいた。
「愛希に会いに来たんだよ、オレ」
『キラキラ』スマイルを崩さないまま、念を押すかのように龍空はもう一度同じセリフを吐いた。
はち切れんばかりに輝く笑顔に
『スマイリーか、おまえ!』
とツッコみたくなる衝動を抑え込む。
そんな自分の心中など知らず、龍空はスッと自分のほうへ右手を差出した。
「約束通り『特別な関係』になりに来ました」
左手でまるで脅すかのようにお腹の辺りを指し示しながら、彼はシレッとした笑顔でそう言い切ったのだった。
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