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第34話 お泊りしよ?
重たい拳の音が鳴り響くはずだった。
それなのに拳はひらりとかわされてしまった上に、慣れないヒールと疲労からバランスを崩した私は残念なことにバカホストの腕の中に残念なくらいすっぽりと納まってしまったという……
「おっ帰り~、アキ」
『welcome to オレの腕の中』
とでも言いたげに私をしっかりと抱きとめた龍空はこれ以上ないほどの笑顔を湛えている。そのあまりにも邪気のない笑顔とスタッカートまじりの出迎えの言葉に威勢を削がれたとともに、すっかり毒気を抜かれた私は深いため息だけをこぼすことになった。
「水欲しい? それともこっち?」
なんて言いながら私に顔を近づけて唇を強調してくる。
「いらない」
「なんで?」
「いらないものはいらないの」
「恋人のキスだよ?」
「ぶん殴られたいの?」
「キスしたい」
「いらん!」
「まったく、じゃれ合うなら外でやりなさい。暑苦しい」
唇が触れそうなほどの距離でこのやりとりをしている私たちに呆れたような声が降ってくる。
見上げた先には長い髪を片手でハラリと流した倫子の姿があった。
「ねえ、倫ちゃん、聞いてよ。愛希ってば本当に釣れないんだよお」
「自業自得じゃないの?」
「倫ちゃんまで意地悪なんだからなあ」
ブツブツ言いながら私の上半身を起こして、やれやれとアメリカ人さながらオーバーリアクションをする龍空の膝を折るように自分の膝を重ねた途端、バカホストの体はかっくんと崩れ落ちた。
「愛希~!」
「だいたい、なんであんたは仕事へ行かないでここにいるのよ!?」
そう問うとリクはその場に尻をつけたまま、ケタケタと大きな声で笑った。
「そりゃ、行けないよ。愛希の晴れ舞台だもん。っていうか、本当の大舞台は明日なんだけどねえ」
そう言ってにやりとこちらを見て笑う。
その笑みに企みが見え隠れして、私は再度大きなため息をこぼした。
「ああ、いい眺め。いいなあ、そのコスチューム脱がしたい……」
そう言われ、思わず胸を両手で抱きしめるように隠す。
布地の少ないフリンジビキニ姿だったことを思い出させられ、思わずバカホストの額に勢いのいいげんこつを一発ゴツンっと見舞えば、ヤツは額をいててて……と両手で抑え込んで「褒めたのに」とぼやいた。
このバカホスト!
つーか、本当にセックスのことしか考えないのか、男ってやつは!
まったく、どうして男ってこうカスなの?
こういうときこそ『色っぽい』とか『キレイ』とかでいいじゃない!
どうしてそれを言ってくれないのか?
――って……なにを期待しているのよ、私!
ふとリクを見る。
頭を押さえながらこちらを盗み見るヤツの顔がまたニヤける。
わかっていっているとでも言いたげな、そんなイタズラな色を含んだ目にごくりと息を飲み込んだ。
見透かされるようで、さらに両手で強く体を抱きしめて、ちゅんっとうずいた下腹部を押し隠すように足を重ねた。
「さあ、これで逃げ場は完全になくなったよ」
リクは立ち上がると、私の肩にふぁさっと大判のタオルを掛けた。
柔軟剤のきいたふわふわのタオルが肩と背中を優しく抱く。
その感覚に心までが包み込まれる錯覚に陥って、私は目の前に立ってこちらを見下ろす龍空の顔を見上げてしまった。
「明日の雑誌出版でさらにアキの顔は知られる。今日だってきっとSNSで話題が出る。たぶん動画も配信されると思うよ」
「それが……なんなのよ?」
「ファンに追いかけられちゃうんじゃない?」
「な……!? どうしてくれるのよっ! そんなことされたら困るわよ!」
龍空のスーツの襟ぐりを思いっきり両手で掴んでブンブン揺さぶると、龍空は「ははは」と渇いた笑いを浮かべた。
冗談じゃない!
追いかけられるってなんなのよ!
私の平和な時間はどこなのよ!
なんでこんなことを次から次にしでかしてくれるのよ!
どうにかしろっ、バカバカバカバカ、バカホスト!
「だったらさ。明日の本番が無事に済むまで」
そこで一拍置いて、龍空は深呼吸した。
真っ直ぐに私を見る。
笑みもない。
射抜くほど強い目をしている。
「お泊りしようよ」
それは青天の霹靂。
なにを言われたのかと息を飲み込むが、その音すら大きく聞こえて怖くなる。
ぎゅっとタオルを引き寄せながら、龍空から目を逸らすことができずにいると、ここでやっと龍空は満面の笑顔を作ってみせた。
「オレのマンション」
言いながら龍空の腕が腰に回る。
「オレのマンションにお泊りしよ?」
『そうなれば全力で守れるから』
悪がきみたいな笑みをたたえた龍空は、もう一度念押しするようにそう告げたんだ。
逃げられない至近距離で告げられたこの申し出に唾を飲む。
だけど飲み込み方を一瞬忘れかけて咽そうになったのをすんでのところで回避する。
いやなのか?
それとも行きたいのか?
――行きたくないわけじゃないとか……バカじゃないの?
そう思うのに――
連行されるように龍空のマンションに行くことになったのは、言うまでもなく周りのオネエサマ方の『行っとけ』という圧力に押し負けたからだった。
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