第35話 まるでわかっていたみたじゃん

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第35話 まるでわかっていたみたじゃん

 私はひとり途方に暮れていた。  『じゃ、オレはお仕事行ってくるので、愛希は自由にしていていいからね』  そう言ってあのバカホストは私を置いて仕事へ出掛けていった。  リビングだけで何畳あるのか?と思うほど広い部屋の窓からは都会の夜景が美しく見えている。  高層ビル群の明かりや縦横無尽に走る道路の上で並ぶ車のライトたちが星のようにキラキラと煌めいていた。  私が住んでいるダイニングキッチンありの六畳の部屋がすっぽりと収まってしまうリビングには、上質なカーペットが敷かれており、ガラスのテーブルとゆったりくつろげるソファーが構えられいた。  しかもどこにも塵ひとつ落ちていない。  バカホストの住むマンションだと言うけれど、まるでホテルの一室だ。  生活感はいっさいないし、4つもある部屋のひとつひとつが美しく整えられている。  寝室も客室もバスルームもトイレもなにもかも高級ホテル並みにピカピカになっていて、きっちりとベッドメイキングまでされている。  人の住む匂いすら残っていない。  恐ろしいほどの綺麗好きなのか、コイツ――そんなことまで考えながら、つと冷蔵庫の扉を開ければ、隙間なくアルコールが並べられている。  ガラスのテーブルの上にはテレビやブルーレイディスクのリモコンが置き場所を指定されているかのごとく並べられてもいる。  動かしたら怒られるんじゃないのか、と触れることへの抵抗感さえ生まれてしまう。 「息……つまっちゃうわよ」  思わずこぼれた瞬間、ピロンと間延びしたスマホの呼び出し音が鳴った。  急いでカバンから取り出してみればバカホストで『ちゃんとお風呂に入って寝てね』という言葉と共に、可愛らしいウサギが投げキッスを寄越しているスタンプまでそえられていた。  ため息をつきつつ毛の長い真っ白な絨毯の上にちんまりと腰を下ろした。  生活のレベルがあまりにも違いすぎて、なにをどうしたらいいのか戸惑う。  それでも襲ってくる倦怠感に抗えなくてバスルームへ向かう。  黒びかりした大理石であしらわれたバスルームの洗面台の上に、洗い立てのバスタオルとフェイスタオルが揃って添えられている。  着替えなんだろう。  真っ白いメンズ用のTシャツと明らかに女性物のベージュの下着まで用意されている。  一応、未使用品っぽい。  着替えの横には白いプラスチック製のコップがあって、ピンク色の歯ブラシまでもがご丁寧に立てかけられている。  こちらも未使用っぽい。  加えて高級品と一目瞭然の化粧水、乳液、栄養クリームも並べてある。  ――どこまでも抜かりなしってことね。  それじゃリクの物は?と見てみると、洗面台の端のほうにブルーの歯ブラシが私と同じ色と形のコップの中に立ててあった。 「まるでここに来るってわかってたみたいじゃない」  用意されたそれらを睨みつけると、ぐるっと周りに目を向けた。  盗撮されかねない。  ひとまずカメラらしいものがないのを確認して、着ているスウェットを脱ぎ去った。  ゆっくりと風呂の蛇口を捻ると、ものすごい勢いでお湯が浴槽に溜まっていく。  その間1分程度。  胸位置までお湯を溜め込んでから、そっと足をつけて湯船に浸かった。  ふぅっと吐き出した息とともに緊張感が解ける。  本当に高級ホテルに泊まりに来たみたいだ。  いったい、何人の女たちがここを使ったんだろう。  もしかして、一緒に入ったのかな?  バカホストが?  誰かほかの女と?  枕営業のために?  ここでいろいろ好き放題?  思わず頭を振る。  ――考えるな、考えるな!  そんなことを考えたら気持ち悪くて風呂になんか入れないじゃない!  他の女とイチャコラした浴槽で疲れを取っているなんて絶対にやだもん。  あの男が他の女とどうこうなっていたとしても私にはまったく関係ない。  だけど、なんで想像するだけで全身に鳥肌が立つんだろう?  他の女?  っていうか今後、ここで一緒に龍空と入ってどうこうなるかもしれない?  ないないないない!  絶対にないってば!  妙な妄想が浮かぶのはあまりにも無音な世界だからだ。  慣れない場所。  しかも生活臭が微塵もしないような落ち着かない場所だから考えちゃいけないことが頭をよぎっちゃうんだ。  ――頭洗って、着替えて、もう寝ちゃおう!    そうだ。  どうせアイツは朝方まで帰って来やしないんだから。    急いで頭と体を洗い、そそくさとお湯を出る。  バスタオルで体を拭いた後、躊躇したものの他に選択肢もなくてTシャツと下着を着用した。  Tシャツはメンズものだからゆったりしてはいるけれど、下着はやはりジャストフィット。  ――っていうかさ。  どういう神経をしているんだろう。  ベージュの下着は思いっきりTバック。  ――アイツが帰ってきたら……いや、顔見たら思いっきり蹴る! 蹴り飛ばしてやる!  風呂の湯を抜いて歯を磨く。  用意されている高級化粧品で顔の手入れもした。  風呂を洗い上げたいところだけど、掃除用のスポンジも洗剤も見当たらないからシャワーで軽く流して風呂場を後にした。  冷蔵庫からビールを持ってきて一気に流し込む。  喉越しさっぱりの冷たいビールが疲れた体に染み入るようだ。  現在夜の10時。  テレビを見る気力はもちろんなし。  なにせリモコン触れない。  ビールを飲み干して、空き缶を簡単にゆすいでキッチンに置いた。  いたたまれない気持ちが込み上げる。  だけどごみ箱がどこにあるのかもさっぱりなんだ。  本当に生活しているのか?  これが男の一人暮らしなのか?  そんな風に疑いながらも『ここで寝てね』とバカホストに言われた客室に向かい、そっと明かりをつけた。  間接照明の暖かな明かりに照らし出されたダブルベッド。  白いシーツはたゆみなく、しっかりと敷かれている。  薄い羽根の掛け布団の端は三角形にきちんと折ってある。  スプリングの効いたふかふかのベッドに体を潜り込ませ、布団を被って手元のリモコンで明かりを消しても、窓から差し込む夜景の光で部屋はほんのりと明るい。  この明かりのどこかでアイツは女相手に酒でも飲んでるのか。  笑顔を振りまいて、愛の言霊をささやいて――  ニッコリと白い歯を見せつけて 『いらっしゃい』   て笑っているのよね、バカホストは!  手元のスマホはなにも表示してこない。  冷たいシーツの感触と静けさに満ちた部屋に、寂しさが急に込み上げてきた。  思わずスマホのLINEアプリを開いて文字を打つ。  『おやすみ』  たった4文字。  顔文字もスタンプももちろん入れない。    だからなのか。  既読はなかなかつかないし。  返事もぜんぜん来ないし。  忙しいんだろうけれど。  忙しいんだろうけどさ。  忙しいのは嫌ってくらいわかってるけどさ! 「おやすみくらいよこせ、バカ……」  圧し掛かるまぶたの重みに耐えきれず、吸い込まれるように目を閉じた。  意識は一気に急降下して暗闇へ落ちていく。。  ピロンと間延びした音が聞こえた気がして目を開けば、ぼんやりかすんだ視界の先でスマホの画面が光っている。 『おやすみ』  かわいらしいウサギが投げキッスしているスタンプを見て、少し安心した私がいた。  ――バカじゃん、私。  そう心の中で唱えながら死んだように眠りつづけた。  何時間後かにするりと滑り込むようにして私のベッドに潜り込んでくる人の気配がするまでぐっすりと。
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