第9話 赤いガーベラと花言葉

1/1

1650人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ

第9話 赤いガーベラと花言葉

 悪夢は醒めないとどこかで聞いたことがあるけれど、まさにそれを実体験する羽目になるとは思いもしていなかった。 「愛希~」  語尾にハートがついたLIMEのメッセージを髣髴とさせるような声が目の前から飛んでくる。  ただいまの時刻PM17時ジャスト。  その時間帯にまたしても現れたのは、言うまでもなくあのバカホストである。  そして今後仕事として相手をしなければならない『標的(ターゲット)』でもある。  しかしなぜ性懲りもなくここに来るんだ、この男は。  学習能力がないのか?  またしても注目の的になっているというのに、一向に気にする様子がない。  だって周りが振り返るほど大きな声で話し始めるくらいなんだから。 「日曜までやっぱり待てなくてさあ。愛希が終わるの待っちゃった。あれ? なんか不機嫌? ごめんね、連絡してくればよかったね。でも喜ばせようと思ってさ。来ちゃったんだよね」  お願いだ。  誰でもいいからこの口に罰点マークのついたマスクを縫いつけてくれないだろうか。  満面の笑顔を湛える龍空に殺意しかわいてこない。  スルーしたい。  だけど、高嶺に一日中コンコンと言われ続けた任務がそれをさせてくれない。 『星野龍空を口説いて、わが社の新商品のCMに出演させるのがキミに与えられた任務だ』  そう高峰は告げた。 『正直、キミみたいな色気もへったくれもない人間にそれができるとは到底思えないが、どうやらキミはあの男とは特別な関係にあると社内でずいぶん噂になっている。背に腹は代えられないので、キミはとにかく全力を尽くせ。就業中、ヤツからアプローチが来た場合はきっちり対応しろ。それがキミに与えられた仕事だ。それから今後、ヤツとはどんな話をしたのか、どういった店にいったかなどは逐一報告しろ。たとえそれが男女の営みに関わることであろうと、報告はキミの義務だ。仕事だから割り切ってもらう』  という業務命令だけど、思いっきりパワハラである。  拒否すれば地方の工場ライン行き決定。  それならそれで平和に暮らせそうな気がしないでもないけど、結局飛ばされた理由を探られて嫌な噂が飛び交うのは目に見えている。  どっちを選んでも地獄だと思ったら、胸に漬物石を叩きこまれたかのような重苦しい気持ちになった。  それにしても、だ。  日曜に会う約束をしたのなら、どうしてそれが待てないんだろう。  LIMEでやりとりすればいいし、話をしたければ電話をすればいい。  会いたい理由が私には見つからない。  いや、会いたいと思われるほどの理由が思い当たらない。  容姿がストライクだった?  そんな話は聞いていない。  性格にハマった?  優しい言葉をかけた覚えもない。  じゃあ、この男は自分の何を気に入ってここに至った? 『おまえなんかさ、そこらへんの女となんにも変らないんだよ。十人並でさ。それでいてセックスまで嫌いってなんだよ。これ以上オレを侮辱するなっていうんだよ、ブス』  またしても過去のトラウマがフラッシュバックする。  記憶の底に沈んだものが自然浮かんでくるのもつらい。  思わずうつむいてため息を吐きかけた時だった。  目の前に真っ赤なものが差し出された。 「花……?」  真っ赤なガーベラの花だった。  それも一輪だけ。  見上げた先には満面に笑みを湛えた龍空の顔がある。 「騙されないけど?」  そう返す。  女は花を貰えば嬉しがるとでも思っているんだろうな、この男。  そしてそういったことを今まで散々してきたんだろうな、この男。  そんな軽いジャブみたいな攻撃で簡単に落ちるほどまだ廃れていません!  女なめんなよ! 「女なめんなよって顔してる」  プッと小さく笑いながら、それでも龍空はガーベラを引っ込めようとはしなかった。 「わかってるよ。女の人は花を嬉しがるものだと思い込みすぎだって言いたいんでしょ? でも嫌ではないでしょ?」  そう笑顔で問われる。  確かに龍空の言うとおりだった。  うれしいとまでは言わないものの、嫌ではない。  たとえそれが嫌いな相手からのものであったとしても、贈られる花に罪はなし。 「花瓶ないし」 「うん」 「貰っても枯らすだけだし」 「うん」 「枯らすの得意なの」 「それでもいいよ」  龍空は小さく笑う。 「たとえこの花が一日もたなくてもいい。すぐに枯れてしまってもそれはそれで構わない。ただ愛希に受け取ってほしいだけなんだ」  龍空は答えながらさらりと私の右手を取ると、そっとそこにガーベラを握らせた。 「枯らすのが得意なら、毎日愛希に同じ花を送る。そうすれば毎日同じ花が愛希の部屋を枯れずに飾ってくれるでしょ? 嫌でも受け取ってくれるなら、約束する。オレはこのガーベラを毎日愛希に贈りつづける。どんなときでも必ずね。正直、オレみたいなヤツが愛希に花を贈ってもなんにも効果がないってわかってるよ。普段こういうことしているでしょ? ホストなら当たり前のことでしょ? きっと誰もがそう思う。でも、オレはそれでもいい。ただ今日はどうしても愛希にこれを贈りたかった。だから愛希に受け取ってもらえれば、今日のオレはそれで満足なんだ」  見上げた龍空の顔がいつになくセンチメンタルというか。  あのふざけたハイトーンではなくて、しっとりするような表情と声音だからこそ断れない。  これを流されていると言うんだろうな。  つっぱねてやればいい。  本気で嫌ならこんなものいらないと足で踏みつけてしまえばいい。  そう思って手の中のガーベラを見る。  真っ赤なガーベラがまるでほほ笑みかけるかのようにまっすぐこちらに顔を向けていた。 「大事にする。なるべく枯らさないように……」 「うん」  嬉しそうに顔をほころばせると龍空はスッと自分の耳元で一言告げた。 「は?」 「何事も一歩目がないと。愛希も踏み出さないとね」  それだけ残して龍空は帰ってしまった。  本当にただこの花を届けたかった――それだけのためだと言わんばかりに、だ。  一輪だけのガーベラを持ったまま、その場でゆっくりスマホを取り出した。  Googleでガーベラの花言葉を検索する。 『燃える神秘の愛。常に前進。チャレンジ』  去り際に龍空が落とした言葉。 『お花に気持ちを託しました』  だから花言葉を調べた。  赤いガーベラには「いつも前に進め」とか「戦いに挑め」といった意味合いがあるらしい。 「なにに踏み出せっていうのよ、あんたは……」  オレに踏み出せということなのか。  それともセックスを好きになるようにオレとしてみようと遠まわしに言っているのか?  龍空の真意はいまだ自分には理解できない。  そしてガーベラは予告通り、それから毎日途絶えることなく贈られることになったのだった。
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1650人が本棚に入れています
本棚に追加