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だいすきだよ、僕の可愛い奥さん
僕は未来を知っている。
だけど、たとえ未来が分かっていても、君と過ごす幸せはいつも、他のどんなものにも例えられないくらいに、素晴らしい。
―――君は特別。
僕にとって。
僕の人生全てにとって。
橋の下を流れる川面に朝日が反射して、オレンジのような、薄ピンクのような、紫のような、見たこともない美しい色に変わっている。
小鳥のさえずる声と、川の流れる音が、当たり前に僕らの世界を彩っているさまが、ひどく鮮明に、僕の心の奥に焼き付いていこうとしている。
「――――ちょっと。まぁた、変なナレーションをつけてるんでしょう。やめてよね、もう····」
どうしても向こうに行きたくなくて、橋の上で振り返って妻を抱き締めた。
すぐに、呆れたようにそう言われた。
僕は彼女の肩に顔を埋めたまま、深く息を吸い込んで、そして吐く。
「うん。だって、朝日が昇る直前の、橋の上だよ?愛し合う男女が離ればなれになろうとして、抱き締めあう―――すごいロマンチックじゃない」
ふわりと巻かれた赤茶の髪が、僕の瞼をくすぐる。
「何お馬鹿なこといってるの。仕事にいくだけでしょ。センチな会話は小説のなかだけにして」
「····いじわるだなあ」
彼女が腕のなかで、身動ぎする。
「これが正常な反応」
「··············」
「ていうか、ねぇ―――そんな白トレーナーにジーパンで本当に良かったの?今日は、偉い作家先生たちも来るんでしょ? 怒られないかなぁ、心配」
「大丈夫大丈夫」
彼女はいつも、強く、優しく、潔い。
僕と違って。
橋を渡りきったところにバス停はある。
それが、この町を出る唯一の手段。
田舎暮らしのくせして、僕たち夫婦は自転車しか持っていない。
それで、充分だから。
二人でペダルを漕ぐ田んぼ沿いの畔道が、どこまでも続いていることが、僕たちにとっての幸せだったから。
「バスくるよ? 乗り遅れたら、新幹線逃しちゃうよ」
「うん。はぁ·····めんどくさいなぁ。どうしても仕事行かなきゃダメ?」
「ダメでしょ。稼いできて。しっかりと」
「うん····分かった。····じゃあ、僕が書いた小説は、世界一最高だってあと3回言って」
「はいはい。最高、最高、最高」
聞き慣れた彼女の可愛らしい声。
投げやりな言い方にちょっとだけむかついて、抱き締める腕に力を込める。
くるしい、と彼女が小さく呻いた。
自己中な僕は、そんな声なんか意にも介さずに、ただ好きなだけ彼女の柔らかい感触を堪能する。
―――どうして僕らを包む冬の空気は、こんなにも澄んでいるんだろう。
―――どうして幸せな瞬間はこのまま、何かに封じ込めてとどめて置くことができないのだろう。
早朝の橋の周辺には、僕ら以外は誰の姿も無い。
淡白な物言いとは裏腹に彼女は甘えるように、僕の肩口におでこをすり付けてくるものだから、もうたまらなくなる。
「·····行きたくないなぁ」
「週一で編集さんに原稿提出しに行くだけでしょうが。しっかりしてよ、もー」
「だって、美織が見送りに来るから。そんなの離れがたくなるでしょうが」
「毎回言うよね、それ」
「今日も可愛い。いつも可愛いけど。すごく似合ってるよ、そのストライプのワンピース」
「······もはや、こっちが恥ずかしいんだけど」
「耐えて。僕は、言いたいことは、その場で言っておく主義だから」
「·······もう」
言うに決まってるよ。
だって事実だから。
僕はそう口にすることは無く、その代わりその時間を惜しむように、より強く、もっと強く、むしろこのままお互いの体が溶け合ってしまえたらと願うくらいに、―――彼女をきつく抱き締めた。
もっと、―――もっと。
「あと2分でバス来るよ」
「うん·····じゃああと1分50秒」
「ぷっ。なにそれ。残り10秒で行けるの?」
「行ける、楽勝」
強気に言い切って鼻先を彼女のうなじに埋めた途端、いつもの香りが薫った。
それだけでもう、ひどく泣いてしまいそうだ。
ふわっ、と香るこの彼女独特の甘い匂い。
いつまでも溺れていたい。
そんな誘惑に揺らされる僕の心を、残酷にも彼女の声が呼び戻す。
「おみやげ、こんどはバナナ饅頭がいいなあ」
「バナナ饅頭? そんなのあったっけ」
「駅前のデパートで物産展やってるらしいの。だから、帰りに寄って、買ってきて」
「―――うん」
彼女がそう言うのを僕は聞いていた。
「3箱ね」
どんな言葉も、僕の心に刻みつける。
「黄色の箱だよ。間違えないでね」
「―――うん」
どんな言葉も。
やがてポンポン、と彼女の小さな手が、僕の腰を叩くのが分かった。
「····バス来たよ、ほら」
僕はのろのろと顔を上げて、振り返った。
「ほんとだ」
呟くあいだに、彼女の体はたちまち離れていく。
「····じゃあ、はい」
彼女がちょっとだけ照れ臭そうに、僕を見つめながら、はにかんで。
「愛してます。―――いってらっしゃい」
可愛い。
「うん。僕も」
―――いってきます。
そう告げて、僕はふわっと笑って。
心のなかだけで、その温かい苦しみを噛み締めながら、呟いた。
ねぇ、僕の可愛い奥さん。
今日は、本当の本当に、特別な日なんだよ。
考えたことが無いと言ったら嘘になる。
この瞬間が、彼女との永遠のさよならになってしまうという事実を、もし仮に今日の僕が知らなかったとしたら。
それでも何一つ変わることは無い、全く同じこの朝の風景の中で、僕らは一体どんな別れ方をするんだろう。
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