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一週間くらい前から夏樹に会うことが現実味をおび不安になった。
私の身勝手な行動に父が憤慨したらどうしよう。
やがて当日になり、父の運転で待ち合わせの場所に向かった。車を降り、公園の高台にある広場へ行く足どりが遅くなる。
広場に着くと、父は柔らかな眼差しで景色を眺めた。時間を確認すると4時45分、夏樹らしき人はまだ来ていない。
不安な気分を紛らわすため、父の左隣に立ち景色を見ることにした。母の話してた場所は河川が一望でき、遠くに私の住む街が見える。
ひんやりとした秋風が、心を落ち着かせてくれる。長袖を着てよかったと思った。
少し冷静になった頭で父と夏樹のことを考えていると、コツ、コツ、とヒールの音がした。音は私たちの後ろでやみ、なんとなく気配を感じて振り返るとワンピース姿の女性がいた。そのままストールの上にある顔まで見る。
私は息を飲み、驚きのあまり声が出せなくなった。
そんな、まさか。
だってこの間、お葬式を……。
父が私の様子に気づき、視線の先を追いかけ、たたずむ人を見て小さく名前を呼んだ。
「冬子……」
母が。
若かりしときの母が立っていた。
秋風が父の、私の、その人の長い髪を揺らす。
その人は私と父の顔を交互に見た。
「久しぶり」
その声は女性より低く、男性にしては高かった。
「…………夏樹?」
「……うん」
夏樹は困ったように笑った。
沈黙が私たちを包む。
「……ねぇ、お父さん」
なにか言ってよ、と父に声をかけようとして、さらに私は目を見開いた。
父の頬に、一筋の涙が流れていた。
そのとき私の脳裏に、うつむき遺影を抱え、棺のあとにつづく父が浮かぶ。そして走馬灯のように記憶が去来した。
母が「癌になっちゃったの」と笑って話したときも、母の入院の準備を一緒にしていたときも、病室でゆっくり落ちる点滴を一緒に眺めてたときも、思うように食べれなくなった母のために父が不器用な手つきで匙を運んでいたときも、医師が去り部屋に残った父が余命を母に告げるか悩んでたときも、母が力なく「ごめんなさい」と呟いたときも、私と父に見守られながら旅立った母の脈を医師が確認していたときも。
白くなった頬を撫で、冷たくなった手を握りつづけた長い夜でさえ。
線香の灯に見守られ、たくさんの花に囲まれた母と過ごす最後の夜でさえも。
涙を見せない気丈な父だった。
そうだ、私は知っていた。
父はまだ家のなかを、あのときから、そのまま残していることを。
そんな父の背中も、私は見ていたはずなのに。
「……すまなかった」
父の目に涙が溜まり、一筋、また一筋と頬を伝う。
「あのときは……お前を理解してやれなくて」
「父さん」
「ずっと俺が、あぁしてしまったから、夏樹と冬子が……」
「もう、自分を責めないで」
父の顔がくしゃくしゃになり、私たちに背を向けて袖で涙を拭う。夏樹は父の背にそっと手を置いた。
「僕は……」
震える声で呟き、夏樹は恐る恐る父の背中に頬をよせた。
「父さん……ごめんなさい……」
父がうずくまり嗚咽が大きくなる。そんな父の背中に夏樹は寄り添いつづけた。
「……冬子…………」
大きかった父の背中が、そのときの私には小さく見えた。
記憶の母が私に告げる。
「お父さんはね、気丈に見えるだけで私がいないと駄目なのよ」
黄昏はじめた幻想的な空を眺めやる。それはまるで母のいる世界へとつながっているようで、秋風にのって想いが届けばいいのに、と願わずにはいられなかった。
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