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私には8歳年上の兄、夏樹がいる。父親似の妹の私は、可憐な母に似た夏樹が羨ましかった。
私が小学二年生に上がる春休みのことだった。
夜9時を過ぎ、仕事に疲れ機嫌の悪い父、啓秋が帰ってきた。私は早々と寝る支度をして自分の部屋に逃げ、二階にある自室のベッドで横になった。
いきなり父の怒鳴り声が響いた。
「なんだ、これは!」
驚いて布団に潜り何事かと耳をすませると、諭す母の声も聞こえた。
「お父さん」
「説明しろ、夏樹」
「父さんにはわからないだろ!!」
夏樹と揉めているようだ。
「なんだ、その態度は」
「落ち着いてください」
「文句があるなら、出て行け!」
「うるさいな! こんな家、出ていくよ!!」
激しい口論のあと、誰かが居間を飛びだして階段をのぼり、隣の夏樹の部屋に入った。引き出しやクローゼットを開閉する音がする。しばらくすると一階に降りていった。
「あなた、止めてください!!」
「放っておけ!」
玄関のドアが大きな音をたてる。
「夏樹!!」
誰かがサンダルを突っかけて外へ出ていった。
家の中は静かになる。
微睡みはじめたころに誰かが帰ってくるような音がしたが、私はそのまま寝てしまった。
次の日、母と仕事を休んだ父が、憔悴した顔で電話をかけたり、居間で相談をしていた。
その翌日から父は仕事に行き、母は普段通り家事をしていたが、数日経っても夏樹は家に帰ってこなかった。
心配になり、夏樹に会いたくなった私は母にたずねる。
「いつ、夏樹は帰ってくるの?」
母は困ったように笑って答えをはぐらかした。父の前で同じ質問をしようとすると、母は私の口元に人差し指を立てて遮った。
それから八年間の月日が経ち、私は記憶の夏樹と同じ歳になった。
母の遺影に手をあわせる。
癌が見つかった母は、夏の終わりに旅立った。
私はボロボロに泣いた。
気丈な父は泣かなかった。
父が喪主のお通夜と葬式を手伝い、残暑が厳しい日だったが、親戚や母の友人が別れに訪れてくれた。
夏樹の幼なじみである賢ちゃんが弔問に訪れる。父に頭を下げ、泣きながら焼香を見守っている私に声をかけた。
「夏樹は知ってる?」
私は首を横に振る。連絡先さえ知らない。
「春実ちゃんは知らせたい?」
賢ちゃんを見上げた。
「渡したい物があるんだ。落ち着いてからでいいから」
そう言って賢ちゃんは、焼香をあげる列に並んだ。
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