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「キミは、恐怖心が欠けているのか?」
目の前の男はウンザリとした様子で溜息のような言葉を吐いた。
怖くないと言えば嘘になる。ただ、恐怖よりも好奇心が勝っただけだ。
「……変な人間だ」
烏のような黒い翼を持つその男は、俗に『天狗』と呼ばれていた。
けれど、天狗としての力を持っていたのは遠い昔の話。風を起こす力もなく、雨を呼ぶこともできない。もはや夜を彷徨うだけの幽霊と何も変わらない。……それは、彼が力を封じているだけなのかもしれないが。
「何故ここにきた」
誰も近付こうとはしない山奥。行けば呪いが降りかかると噂されている。
だが、それは少女にとっては好都合だった。恐らくこの天狗が噂の正体……だと思っていたが、とてもそのような存在には見えない。
「そう。あなた、私と一緒ね」
天狗が僅かに眉を顰めたのが、なんとなく分かった。普通ならば気付かないような微かな変化。
誰も訪れない荒れ果てた山に、優しい風が吹いていた。
家族はいつも揉めていた。
父の持病が悪化し、宣告された余命の日まで残り僅か。だから毎晩毎日、親戚たちもこの家に集まり、罵声を飛ばし合っていた。
里奈が人知れず山から家へと帰った時、1人の叔父が兄に掴みかかっていた。
「お前に跡継ぎが務まるわけないだろう!」
もう何百回と聞いたその言葉。耳にタコでも出来そうだ。
兄といえば、泣きそうな顔で怯えるだけで何も言い返そうとはしない。……彼も不幸だと思う。長男というものに自由はないらしい。
この後の展開はいつだってお決まりだ。
里奈はそっと目を逸らし、自室へと向かった。
痛そうな音が聞こえる。
骨が軋む音。重々しい呻き声。
自室のドアをしっかりと閉め、耳を塞ぐ。……だがそれでも音は消えてくれなかった。
早く消えて。こんなのもうやめて。
そう祈りながら布団を頭まで被る。
——お金が一番大事なの?
彼らの答えはyesだろう。
だが。だからこそ。
自分はそうはなりたくないと願った。
里奈は兄が嫌いだった。
ヘタレで弱虫。典型的なイジメの対象。
「あの陰キャの妹なんだって?」
いったい何度、知らない先輩たちに囲まれてそう尋ねられただろう。
下衆な目をした男ども。
だらしなく鼻の下を伸ばし、舌舐めずりをする人間を見たのは何度目か。
いつもなら正当防衛と称し殴りかかっているところだ。けれど今日は違った。
制服のリボンに手を掛けられようとも、里奈は無抵抗だった。
——もう、疲れちゃった。
光を宿さない瞳で空を仰ぎ見る。
どこまでも青い、澄み切った空が広がっていた。
「やめろ!」
……細く、か弱い声が聞こえた。
馬鹿じゃないの。そう思った。
けれど、彼の持てる全てを乗せたその声は、とても逞しくもあった。
痛めつけられる兄をただ眺める。
何故わざわざ身を呈す? 喧嘩に勝てるわけもないのに。
馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないのッ。
「なんで……」
妹の言葉に、兄は優しく微笑んだ。
「自分を、大事にして欲しいから」
……本当に、ただの馬鹿。
心の中に湧き出てきたのは真っ黒い風だった。
終わらせてやる。こんな不幸は。
殺してやる。自分たちを蔑む者たち全て。
里奈は制服のポケットの中から。
一振りのカッターナイフを取り出した。
新しくしたばかりの刃が、太陽光に煌めいていた。
「キミが私と同じ? それは違う」
下界を見下ろす天狗は、つまらなそうに言葉を吐き出した。
「結局キミも、自分のエゴでしか動けない」
本質は同じだったのかもしれない。だが、結果は……彼女もただの人間だ。
「どうやら、力を分けたのは間違いだったようだ」
悲しげな色を瞳に浮かべ、天狗は町に背を向けた。
「期待、していたのだがな……」
脳裏に1人の女性の姿が浮かぶ。
心穏やかな、とても優しい女性だった。
けれど彼女も結局、一度力を手にすればただの人間に過ぎなかった。
心の中に住んでいる彼女の笑顔が歪んで行く。彼女の白い着物が赤く染まっていく。
いつか、自分の代わりに。
人を守る人になって欲しかった。
里奈は兄が好きだった。
彼はいつも自分を不幸から守ってくれた。
細い腕で、スラリとしたその指で。
だから今度は。
——私が守ってあげる。
赤い部屋。
襖が開く。
愛しい彼と目が合う。
驚愕で見開かれた彼の瞳に映る自分の姿に、里奈は高揚した。
「なんで……」
「自分を大切に、でしょ?」
真っ赤な着物を纏った里奈は静かに立ち上がり、兄へと歩みを進めた。
足元に転がる叔父の肉塊を踏んだら、血が飛んだ。
真っ赤な着物が、また赤く染まった。
「私たち、やっと幸せになれるね」
それは、愛の色。
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