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ふわふわニラ玉とレタスの味噌汁 編
四月八日、世間では新学期やら新生活やら浮かれている人がたくさんいるようだが、定休日がない陸にとっては、何にも関係ない普段通りの平日だった。
締め切りを明後日に控え、簡単にいうと陸は行き詰まっていた。
今年の秋に発売される予定の、小説の表紙のデザインを任されている。こんなに大きな仕事が舞い込んでくるのは初めてだった。大ヒットは出してはいないが、長年細々と書かれている作家さんが依頼してくれた。今回は作風を変えたため、装丁も思い切って若手に任せたい、というメールには一枚の写真が添付されていた。
以前、クリエイターが集まるフリーマーケットで陸がデザインし販売した、レターセットだった。このデザインが好きなんです、という飛び上がりそうな褒め言葉を添えて。
一緒に渡した名刺から、連絡してくれた、というのだ。
作品を認めてくれ、仕事に繋げてくれたことが嬉しくて、普段よりもずっと気合が入っていた。
気合が入っていた。でも、百点の出来を生み出せなかった。
素材を集め、資料を読み漁り、小説も赤を入れながら何度も熟読したのだが、九十点までしか行かない。
必要な要素はきちんと収まっている。情報量が多すぎることも、少なすぎることもない。現時点の進捗を送ったところ、作家本人にも、編集部からも大きな修正点は付け加えられていない。「ステキです、楽しみにしています」と直筆のお手紙もいただいた。でも、これじゃない。足りない。
画面を見ながら唸る。足りないのは、強いていうなら「魅力」とかいうものなんだろう。書店で手にとって見て、買おうかな、と思うような。
力不足だと痛感する。先生の書く、繊細な心の移り変わりであったり、人の心の優しいところであったり、言葉にできないけれど暖かな「何か」を一枚の画面にまとめなければいけないのに、それができない。
気分転換に、とSNSを開いたが、逆効果だった。高校の時の、それほど仲良くもないがフォローを外すタイミングもないまま放置している同級生は、先月パパになっていた。
笑った!という報告とともに愛娘と映る彼と自分の隔たりを、否応なしに突きつけられる。
早く結婚する方が優れているとか、子供を産んだ方が立派だとか、そうは思っているわけではないけれど、凹んでる時に食らわせる追い打ちとしては十分にパワーを持っていた。
「あーあ……」
パソコンを閉じて、部屋の真ん中に敷いてある黒のラグに寝転がる。いくら部屋を綺麗にしても、アパートがボロいのは変わらないし、天井のシミは目立っている。
顔に見える木目を一つ一つ数えても、何も状況は変わらない。やる気の在庫は切れてしまったようだった。
ただ、ダラダラと。何もしないままで、数時間が経った。いや、数時間経ったのだ、と気がついたのは彼がやってきたからだ。
「こんばんは〜、って暗ぁ!電気くらい付けえや」
上から垂れ下がる紐をぽんちゃんが引っ張り、蛍光灯が瞬くように数度光ってから、点灯した。明暗の落差に、目がシバシバする。
ぽんちゃんは、仕事から終わるとまず最初にうちに来るようになった。わざわざ階段上がって降りるん面倒くさかろ、と提案したらあっさりと「せやな」と納得したのだった。当たり前のように合鍵を使って扉を開ける存在がいることは、陸の心を穏やかにさせていた。
「あー、おかえり」
テニスクラブでの仕事帰りなんだろう。いつものジャージ姿に、近所のスーパーのレジ袋。
「どしたん。仕事終わりそうって言いよったやん」
「終わりはしたんやけど、なんか、違う感じがするんよ」
「ふーん」
生気のない目で話す陸を横目に、ぽんちゃんは勝手知ったる手つきで冷蔵庫に食材をしまっていく。四月頭に買い替えた大きめの冷蔵庫は、ぽんちゃんに勧められたもので、実質彼のテリトリーになっていた。
冷蔵庫に卵をしまい終わると、ぽんちゃんは手をパンパンと払って、陸の方に向かって仁王立ちした。
「おっし、陸。とりあえず風呂沸かし」
「え、でも。まだ仕事が残っとーとやけど」
「いいから。進んでないんやろ」
「うん、それはそうなんやけど」
「いいから、風呂。飯作っとくから。あ、米炊いてへん」
「忘れてました……」
もー、と言いつつ手際よく米びつに手を伸ばす。結局彼もなんだかんだ甘い。
当番のことがすっかり頭から抜け落ちてた陸は、風呂掃除に行こうとおもむろに立ち上がる。「ごめん、気をつけまーす」と間延びした声で謝罪してキッチンの脇を通り抜けようとしたところで、背後から忍び寄ったぽんちゃんに捕獲された。
「え、なになになに」
「罰ゲーム」
いたずらっぽい口調でつぶやいたぽんちゃんに、思いっきり脇をくすぐられた。
「ちょ、まっ、あ、ひゃ、ひゃはっ」
「次忘れたらデコピンやからな〜」
「うん、わかった、わかった、ってば」
呼吸が苦しくなるくらい笑わされたあと、有無を言わさない勢いで背中を押され、陸は風呂場へと追いやられる。気がつくといつもぽんちゃんのペースだ。風呂をわしわしと磨き上げ、お湯と水のちょうどいい配分になるように蛇口をひねる。
自動湯沸かし器なんて便利な道具はついていないから、キッチンタイマーで時間をはかり、その間で洗濯物を取り入れる。一人暮らしで引きこもりがちな男の洗濯物の量などたかが知れていて、取り込んでから仕舞うまでものの五分もかからない。
さて、何か手伝うかと台所を覗き込む。ぽんちゃんは鼻歌を歌いながらボウルに入れた卵をリズムよくかき混ぜていた。ぽんちゃんは陸を発見すると、いつもの調子で呼びかける。
「りくー、ちょっと」
「なに?」
「俺の携帯充電しよってくれん?」
「いいよ。鞄のどこ?」
「いや、ここ」
ぽんちゃんがあごで指し示したのは、ズボンの右ポケットだった。
「なんでそこに入れてんのに忘れられるとー」
揶揄ってみても、ぽんちゃんは曖昧に笑うだけだった。頼まれているとはいえ、人のポケットに手を入れるのは、なんか変な気分だ。エイっと手を突っ込むと生ぬるくて妙に生々しかった。取り出したのは、真っ黒のカバーがしてあるだけの、何代か前の機種だ。充電コードに差し込むと、画面が一瞬光って壁紙が映った。
有名なテーマパークの城をバックにして笑う、男女のグループ。一人はぽんちゃん。この人たちは誰?追求したい気持ちもあったけれど、覗き見しているような気分になって、慌てて画面を暗くする。
画面と同じように、陸も固まってしまっていた。元来切り替えが下手なのだ。
「どした?なんか通知でもきてた?」
「ううん、なんでも」
誤魔化し方を考えようとしたタイミングで、風呂が沸いた、とタイマーが鳴った。
「俺、風呂入ってくる」
適当に部屋着のTシャツと短パンをひっつかんで、風呂場に急いだ。
壁紙の人、誰だったんだろ。
顔の下半分を湯に埋めると、小さな浴槽から水があふれた。
三対三、合コンにしては距離が近すぎるし、トリプルデートにしては、カップル感がなかった。学生代の同級生……には見えなかった。年が、結構離れている風に見えた。
たった一瞬でどこまで見ているんだ、と自分自身に嫌気がさす。なんでここまで気になるのかも、よくわからなかった。
「いいや、風呂上がったら聞こ」
勢いよく立ち上がると、お湯がザブンと揺れた。
「早かったやん。もう少しゆっくり入ってきても良かったのに」
「んー、お腹すいたし」
ゆっくり入ってられる気分でもなかった。
「そか。もうできるから、箸とか準備しといてや」
「はーい」
去年までは物置がわりだったが、今じゃすっかり食事用となったローテーブルに、箸やら小皿やらを並べていく。戸棚からグラスを二つ取り出そうとする手をぽんちゃんが止める。
「あれ、今日あったかいお茶沸かした?」
「いーや。ぬふふふ」
不敵な笑みを浮かべたぽんちゃんが冷蔵庫から取り出したのは、二本の缶ビールだった。
「うっわ、え、最高じゃん」
「せやろ?発泡酒とかじゃないやつやで」
ほい、と手渡された缶の冷たさが湯上りの体に心地いい。
「気分転換の仕方、いろいろ知っておき」
肩を軽く叩かれる。敵わない。
ビールを向かい合わせの席に置いて、二人分の米をよそって並べた。
「おっし、できたー」
ぽんちゃんが運んできたお盆の真ん中には、ふわふわの卵の黄色が映える青の平皿。味噌汁もホカホカと湯気を立てている。
「いただきます」
手を合わせ、そして、プルタブを持ち上げて、
「かんぱーい!」
一口飲み干すと、体の中に冷たさが染み渡っていく。二人で目を合わせて、ニヤッと笑う。
「あー、うま」
「な。やっぱり高いやつは違うな」
「高かったろ?いいと?」
「ん。食材貰っとるし、ここで料理し始めてから食費めっちゃ浮いてるねん。そのお礼。こんなんで悪いけどな」
「いや、全然。ありがたいです」
手を合わせて拝むポーズをすると、胡座をかいたぽんちゃんが、ビール片手に喉をくくっと鳴らして笑う。笑った顔が、可愛いなと思う。
「今日はあんまり手の込んだもんと違うけど、旨いで」
白地に青い線が三本すうっと引かれている皿に、卵の黄色とニラの緑が鮮やかだ。出汁の匂いが鼻腔をくすぐるニラ玉を、添えられている大きめのスプーンで掬って、そのまま米の上に乗せた。
白米と一緒に掻きこむと、半熟の卵のトロッとした優しい甘みが口いっぱいに広がり、追いかけるようにニラの突き抜けるような青い風味が鼻から抜けていく。ふわふわとした感触とシャキッとした感触が喧嘩することなく綺麗にまとまっていて、それを米がくるっと包み込んで、喉まで案内する。
「はー。うんまい」
「やろ?簡単なのに旨いんよな、これ」
熱くなった口の中を冷やすようにビールを流し込むと、キリッと苦味が広がって、幸せが体に満ちていく。この循環を無限に繰り返したくなる。
ニラ玉、ご飯、ビールのループを三度繰り返して、ふう、と息をつく。
冷めないうちに、と味噌汁をすすり、具を一口噛んで驚いた。味わったことのない、ザクッとした歯ざわり。
「これ、ん、白菜じゃないし」
「レタス。汁物にしても結構合うんよ」
「へー。意外」
サラダくらいでしか見かけたことのなかった野菜だったが、味噌汁にしても存在感がしっかりある、美味しい具材になっている。
ぽんちゃんは、知らないものをたくさん見せてくれる。出会って半年も経っていないのに、離したくない人物になっていた。
缶を振って、中身がなくなった仕草を見せるぽんちゃんを見て、反射的に動いた。すっと立ち上がり、冷蔵庫の奥に手を伸ばし、ロング缶を二本発掘した。
「これも飲む?」
「お、飲む飲む」
冷蔵庫の奥に眠らせていた、強めのチューハイ。眠れない時用に買っていたのだが、最近はお腹いっぱいで気持ちよく眠れることが増えていたため、存在を忘れていた。ついでに、と備蓄していたミックスナッツの袋も取り出した。今日は月曜日、明日はぽんちゃんに仕事はない。
今日なら引き止めることへの罪悪感が少なくて済む。もう一度缶をぶつけて乾杯をして、プルタブを引き上げる。
「陸って飲める方なん?」
「そこそこ。バイト先で鍛えられた、っていうか」
ゴクリと飲み干すと、炭酸が喉をピリピリと刺激しながら流れ落ちる。
「あーそっか。バーテンやっけ」
「もう辞めてんけど」
「そうなん?」
うん、と小さく頷く。四年間務めていたが、数ヶ月前に辞めた。本業が少しずつ忙しくなってきたのもあるけれど、理由が理由なだけに気恥ずかしくてまだ伝えてなかった。アルコールを嗜んでいると、ついつい箍が緩んでしまう。
「美味しいご飯食べた後、働きに行くの嫌やってん」
「……そっか」
「うん。出勤七時とかやし、そしたらすれ違いになるけん。嫌やった」
目を伏せながらピスタチオの殻を剥く陸を、ぽんちゃんは大きな瞳でじっと見つめていた。困っているとも、喜んでいるとも取れる瞳は、夜の海を思わせる黒色をしていた。
「収入は大丈夫なん?」
「うん、ぼちぼち。外食辞めたし、仕事もちょいちょい増えてきて。体がしんどいことも減ったし……」
剥き終わったピスタチオを一粒、ぽんちゃんの手のひらに乗せて、陸ははにかむ。
「ぽんちゃんのおかげ」
「……酔っとるやろ」
「んー?」
ふふふと笑う陸は、自覚はなかったが完全に酔っていた。酔いがまわるかどうかは、誰と飲むか、という要因もかなり大きなウェイトを占めているということを、陸はまだ知らなかった。
酔った勢いで、陸は心の隅にひっかかかっていたことを口にした。
「なー、ぽんちゃんさ。あの、壁紙の人って誰……?」
アーモンドをリスみたいにゆっくりとかじりながら陸は尋ねる。か細い、不安げな声色だった。
「ん?ああ、スマホの?」
「うん」
「職場の人たちやでー。社内旅行?みたいなんで行って、そこで『みんなでお揃いにしよや!』ってノリで設定して。そのままやな」
「そっか……」
なぜだか、嬉しかった。付き合っている人がいません、という言質を取ったわけではないけれど、それでも陸の表情はふわりと緩んで、にこっと微笑んで、今度はカシューナッツをぽんちゃんの手のひらに乗せた。
陸は完全に気を許している相手にしか見せない、気の抜けた顔つきをしていた。
そんな顔を見たぽんちゃんは、どこか焦るようにして、立ち上がった。
「じゃあ、俺、そろそろ帰るわ。後片付け頼むな」
振り返って荷物に手をかけたぽんちゃんの後ろ姿を見て、寂しい、と思ってしまった。わがままなのはわかっていたが、もう少しだけ一緒にいたかった。
「あのさ」
「ん?」
「風呂、まだあったかいし、入ってったら?」
ぽんちゃんは、フーッと息を吐いて、荷物を持ち直した。
「じゃあお言葉に甘えて。着替えだけ取ってくるわ」
振り返って出ていく背中を見ても、今度は寂しくはなかった。
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