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あったか具だくさんの豚汁 編
福岡の実家から、ダンボールが届いた。きっとまた、野菜と米だ。宅配便のお兄さんから受け取った荷物がずしりと腕にのしかかる。
「よっせ、っと」
自分では使ったことのないシンクの隣にダンボールをおいて、開封する。ガムテープを開ければ漂う、実家の匂いと土の香り。常温保存と冷蔵のものと分けながら、しまっていく。デスクワーク中心の陸にとってはちょっとした運動である。
「これでいいかな」
冷蔵庫の中身が整頓されたのを確認して、チャットアプリを開く。アパートの一つ上の階の住人、ぽんちゃんにメッセージを送るためだ。
〈野菜が届きました〉
送ったメッセージにすぐに既読がつく。そっか、今昼休憩の時間だ。
今日は何が食べられるかなあ、と思いながら昼の日差しが当たるパソコンの前の定位置に戻っていった。
ぽんちゃんと陸が出会ったのは、今年の一月も終わろうかとしていた土曜日の出来事だった。
あの日から、ぽんちゃんは推しが強かった。
陸がフリーランスの仕事を軌道に乗せたくて、どんな仕事にも「イエス」と答えていた頃だった。元々、食べることに対する執着心が薄く、いろんなことに満遍なく気を配ることが下手くそな性格と。
とにかくいろんな要素が重なり合って、玄関のドアを目前にして、陸は今年に入ってから何度目かもわからない立ちくらみを起こしてしまった。
収入源として頼りにしているバーテンの仕事が終わった午後十一時、帰宅して、愛すべきボロアパートつつみ荘の一〇三号室の扉に鍵を刺そうとしても、上手く刺さらなかった。あれ、おかしいな、と思う間も無く目の前の景色がぐにゃりと揺れて、それに合わせて膝からも力が抜けて崩れ込んでしまった。 モルタルが目の前にあって、ああやっちゃった、と思ってもどうしようもない。
立とうにも、声をあげようにも、一向に力が入らなかった。ホームセンターで買った真っ黒のダウンジャケットは暖かいけれど、このまま外に居たら健康に害が出るだろうと明確に分かるくらいに睦月の東京は寒かった。
あれ、俺死ぬんかいな。なんてぼんやりと思った。
体は動かないのに、頭だけはしっかりと働いた。
このまま死んだり病気になったりしたら、仕事のキャンセル料はどれくらい払わないかんのやろか。家族には連絡行くんやろか。鍵持ったまま死んだら、泥棒に見つかって家の中のもん取られたりするっちゃろうか、ああ、でも取られて困るほどの金もないか。 頭だけがぐるぐると動いているときに、後ろに気配がした。
警察かな、泥棒やろか、と思っていたら、暢気な声が降ってきた。
「もしもーし、生きとる?」
「……生きてる」
かろうじてそれだけ返して、困った顔で覗き込んできた大男の手のひらに、右手を乗せた。まるで犬のお手みたいな格好をして、部屋の鍵を握らせた。 察しのいい彼は、具合が悪いことと、鍵を開けられないことを瞬時に理解してくれた。
「ちょっと部屋入らせてもらうな。立てる?」
誰かが助けてくれたことが嬉しかった。さらに力が入らなくなっていた陸は首を横に振った。
「んー、軽そうやし、いけるか」
ガチャリと鍵を開け、自分の買い物袋をドアストッパー代わりにした男は、うずくまっていた陸の脇と肘に腕を挟み込んで持ち上げた。いわゆるお姫様抱っこ。恥ずかしかったが、そんなことを言う元気もなかった。
「おー、部屋綺麗にしてんねんな。俺とは全然違うわ。ベッドの上までの辛抱なー」
あっけらかんと話す彼の声が心地よかった。誰にも会わない仕事柄、誰とも話さないし、自分の声を使うこともない。自分以外の声がこの部屋に響いていることが心を和ませ、このまま眠ってしまいたくなるくらいに安心した。 この家に引っ越してくるときに買ったシングルベッドにゆっくりと横たえられて、履き古したスニーカーを脱がされる。初対面の人にここまでしてもらうなんて、申し訳ない。
「お兄さん大丈夫?救急車とかいるやつ?」
「いや、平気だと思います。心配かけて……ごめんなさい」
目を閉じたまま、グラグラする頭を落ち着けて細い声で詫びる。こんな夜遅くに、面倒臭いことをさせてしまった。百八十は優にこすだろうと思しき長身の持ち主は、ベッドの横にしゃがみ込んで、陸のぼさぼさになった髪を手櫛で整えてくれた。
「ならええんやけどな。どしたん、風邪か何か?」
「ううん、最近、食ってなかったから…… それだと思う」
心配してくれてありがたいなぁと思いながら、答えると朗らかだった彼の表情が一変して険しくなった。
「は?いつから?」
強い語気に気圧されて、「三日くらい……?」と答えると、下に敷いていた掛け布団を引っ張り出して上にばさっと投網のように投げかけた。 急に、どうした。 突然キャラが変わって驚く陸に、彼はビシッと指をさす。
「体壊したら意味ないやろ、ええからとりあえず寝とけ。飯作ったら起こす!」
初対面なのに。と反論する余地も与えられずに、プリプリと怒る彼の広い背中に途轍もない安心感を覚えて、再びまぶたが閉じていった。
起きた頃には、出汁のいい香りがしていた。体を持ち上げて目をこすって時計を確認すると、まだ日付は跨いでいなかった。
「あれ、早いやん。まだ一時間も経ってへんで?」
「えと、あの……」
「流石に覚えとるやろ。さっき行き倒れてたから、部屋に入れて、何も食ってへん言うてたから今作ってんの」
「ありがとうございます。覚えてます…… 見ず知らずの方にここまでしていただいて……」
回復してきた体をわずかに曲げて謝罪と謝礼をすると、男はきょとん、とした。
「え、見ず知らずとちゃうけど。俺、上の階に住んでるやつやで。一回引っ越してきたとき挨拶してんけど、覚えてない?」
申し訳ないが覚えていなかったので、すみません、とだけ呟いた。
「まあええわ。二〇三の信楽拓也」
「しがらき、さん」
「ええよ、さん付けじゃなくて。みんな、ぽんちゃんって呼んでるから、それで」
子供みたいに明るい笑顔で笑った彼が眩しくて、ぽんちゃんってあだ名、似合うなあ、と陸は初めて聞いた名前なのにとてもしっくりきた。
「わかりました、目黒です。目黒陸。二十四です」
「お、年下やんな。弟と同い年やわ」
ニッと笑ったぽんちゃんは、「あ、やばいやばい」と言い残して台所に戻って行った。台所といっても、1Kのアパートだから、長身のぽんちゃんからすれば二歩で移動できるのだ。
吹きこぼれそうになっていた鍋の火を弱め、こちらを振り向いた。
「冷蔵庫の中のもんとか、色々勝手に使ったで。食べてへん言うてたくせに、ちゃんとしたもん入っとったやん」
「あー、それ。実家から送られてきたやつで」
「なるほどな。どーりで一人暮らし男子が買わなさそうなラインナップやと思たわ。豚肉は俺からのプレゼントってことで。本当は今日、俺のお腹に生姜焼きとして入るはずやってんけど」
手招きされて、小さな折りたたみ式のローテーブルの横に腰を下ろした。 ほい、と目の前に出されたのは、汁椀に入ったあったかい豚汁だった。
「ぶたじるだ……」
「トン汁ちゃうん?」
「あ、俺の地元ではぶたじるって、言ってたんです」
出汁と、味噌の匂いがふわぁと立ち上りゆっくりと吸い込まれていく。食欲が湧いていなかったのが嘘のように、お腹が勢いよく音を立てた。
「食べてへん状態でいきなり重たいもん食うのも体に悪いからな。まずは栄養たっぷりの汁物から、な」
箸を手渡され、いただきます。と手を合わせる。めしあがれ、の声はお日様みたいに優しかった。
小口切りにされた青ネギがたっぷりと乗った豚汁を一口すすると、鰹出汁の香りが静かに鼻に抜けた後、やわらかな塩味がじわあっと口の中に広がっていった。濃すぎず、薄すぎない味付けは、潮が引いていくようにさっと消えていった。
「おいしい……」
「せやろ?」
目尻にシワを寄せて微笑むぽんちゃんが、自分のためにこれを作ってくれたんだと言う事実に、どうしようもなく温かい気持ちにさせられる。
「ほら、もっと食べ」
「うん」
豚肉を頬張ると、じゅわっと脂が滲み出て、喉を潤した。
皮がついたままのサツマイモは、素朴な甘みで味のアクセントになっていた。
笹掻きにされたごぼうはザクッとした食感で、噛みしめるごとに頭に咀嚼音が響いた。
銀杏切りにされた大根は、とろとろに煮えていて舌を火傷しそうなくらいに熱々だった。
どれもが旨かった。困るくらいに、旨かった。
「うまい。うまいです……」
「ん、良かった」
ぽんちゃんは、自分の分もよそっていたのに、それには手をつけずに、陸が食べる様子を頬杖をつきながら嬉しそうに見ていた。
「ゆっくり食べんと。火傷するで」
「うん……」
箸でつまんで、口に入れて、咀嚼して、飲み込んで、を繰り返す。何度も、何度も。今まで億劫だと忌避してきた行為なのに、止まらない。
あったかい。あったかくて仕方ない。
体も、体の奥も、内臓も、心とかいうパーツも、冷えていたいろんなところの温度がぽんちゃんによってぐんぐんと上げられていく。
だめだ。あったかいのはだめだ。
一回コタツに入ったら出られないように、一度その温度を知ってしまうと、日常が冷えてしまう。冷えていることを、思い出してしまう。だめだ。嫌だ。ずっとあったかいままがいい。
あったかいと、そのあったかさを失うことがどうしようもなく怖くて、寂しくなる。
くちいっぱいに野菜を頬張ったまま、陸の動きがピタリと止まった。ロボットが緊急停止ボタンを押されてしまったかのように、全く動かなくなって、それから目からじわあっと水があふれた。
「え、ちょ、待って。どしたん、あ、火傷したんやろ。だからゆっくり食べ、って言うたのに」
陸はぽろぽろ泣きながら、違う、と首を振る。
「口んなか噛んだ?」
また、首を振る。
涙と、あったかいものを食べて鼻水も出たぐちゃぐちゃの顔で、陸はまたゆっくりと噛み始めた。自分のためを思って作られた食事を少しずつ噛み砕いて、消化して栄養に変えていった。
美味しかった。優しい味がした。なんで泣いてるのか自分でもわからなくて、止め方がわからなくて困った。涙が溢れて、汁の塩分濃度をちょっぴり上げた。
泣いている理由も言わないまま、ただ食器の中身を減らしていく陸を、ぽんちゃんは少し困った顔で、でも黙って見ていてくれていた。
七味いるか?部屋から持ってこよか、とか言いながら。
なんでこの人が自分にここまで優しくしてくれるのか、陸はわからなかった。
「ごちそうさまでした」
鼻をすすりながら、陸は目を閉じて手を合わせた。食べ物は栄養であるよりも前に、生きてたものだったんだと久しぶりに思い出した、温度のある食事だった。
「旨かった?」
「うん」
「お腹いっぱいになった?」
「うん」
「ほんなら良かったわ」
はい、とティッシュを渡されて、陸は鼻をかんだ。子供みたいに泣いていた陸について、詳しく詮索することのない気遣いが助かった。
「普段は料理せえへんの?」
やっと自分の分を口にしながらぽんちゃんは尋ねる。
「しないです」
「えー、じゃあ冷蔵庫の中身どうするん。結構あるやん」
「生で食える奴は、トマトとか、夏だったら、洗って切って食うくらいはできます」
「残りは?」
「たまに、人が来るから。その時に欲しいっていったら、あげてます。ほとんどダメにしちゃうけど」
「もったいな。今野菜高いねんで?」
知ってる。今年は、「雨の影響でうまく育たなかったので、収穫量が少ないです」と書かれた手紙が、野菜と一緒に入っていた。
凹んだ顔が目に浮かんだ。父ちゃんや母ちゃんが、毎年値段に一喜一憂している姿をずっと見てきた。
だから、胸が痛む。 腐ってしまった野菜を捨てるとき、食べることも育てることも、どうしてもそんなに楽しくない自分が責められてるみたいな気持ちになる。
ごめん。ごめんなさい。
何も言えないで、唇をぎゅっと噛みしめる。
「ごめん、そっちにも事情とかあるわな」
だんまりを決めてしまった陸に対して、ぽんちゃんはさらに助け舟を出した。
「ほんならさ、野菜買わせてくれへん?食べへんぶんでいいねんけど」
ちょっとだけ安く売ってくれたら、ウィンウィンやと思わへん?とぽんちゃんは言う。なんで、ほぼ初対面なのにこんなに優しくしてくれるんだ。
穏やかに笑うこの人を手放したくない、と思った。
また、この人の飯が食いたいと思った。実家で育った野菜を美味しく食べられれば、俺も、親との関係も何か変わるかもしれないと思った。
理由は幾つでもつけられる。何が何でも、またこの部屋に来て欲しかった。
思いがせり上がってきて、衝動となって飛び出した。
「じゃあ、じゃあさ。食費とか、野菜とか、全部俺が出すから。たまにでいいから料理作って、くれませんか……」
勢いよく口を開いたのに、最後はしりすぼみになった。あ、やってしまった、と落ち込む前に、あははは、と元気に笑い飛ばされた。
「元気になったみたいやな。ええよ。新鮮な野菜提供してもらえるのは助かるわ。えっと、名前って」
「陸。呼び捨てでいい」
「うん、じゃあ陸って休み決まってる?」
「いや、フリーランスだから。全然」
「俺、火曜と水曜が休みなんよ。だから、木曜から、月曜まで。帰りは大体九時すぎくらいかな。その時間にここ来て料理するんでいい?」
「いいの。そんなにたくさん来てもらって」
「追加でかかる食費が六対四なら」
真面目ぶった顔でぽんちゃんが言うから、吹き出してしまった。
「いい。なんでもいいです。またぽんちゃんの、ご飯が食べたい」
ぽんちゃんは、少し泣きそうな顔で笑って、陸の髪の毛をかき回した。
「胃袋ゲットやな。夜も遅いし細かいことは明日、決めよ。米だけ炊いといてや。それくらいはできるやろ?」
「うん」
「じゃあ、そう言うことで」
ピシッと立てた小指をぽんちゃんが突き出して、陸は久しぶりに指切りげんまんをした。
それからと言うものの。四月を目前にした今の今まで、欠かさずぽんちゃんは料理を作りに家に来る。 八時半。米が炊けた、と電子音が知らせる。 ピンポン、と壊れかけのチャイムの音がして、急いで扉を開けに玄関へ向かう。開いたパソコンの画面には、大容量の冷蔵庫を比較する通販サイトのページが開かれていた。
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