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03 病室
「大丈夫です、気分は悪くないですし、なんと言いますか……今、会っておかなければいけないと思うのです……」
言いながら車椅子に乗せられた私は個室の扉を開いた。
「睡眠薬とアルコールの過剰摂取による中毒死だそうです」
「そう……でしょうね……。
私が帰ってきた時にはもうそんな状態でしたから」
「それでしたらその、彼は酩酊状態でしたでしょうし、抵抗もできたのでは?」
さすがは刑事というか、聞きにくそうな質問をその当事者たちの前で平気で聞いてくる。
「抵抗……そうですね……。
だけど私、あの時……仕方無いと思いましたの」
「殺されても仕方が無いと?」
イタルの横たわるベッドの前まで辿り着き、その顔を見詰める。
あの川の橋の上で最後に見たのが、ちょうどこんな顔だったような。
「……イタルは、売れない画家でした。
私は元々そのアシスタントのようなもので、それがいつの間にかずるずると関係をこじらせまして……。
ゆえにこうなったことにも、私に原因の一端があるのだと思っておりますから」
「なるほど。
ではあなたに対する殺人未遂での立件の方は……」
「こういった心中的な事件でも、一応被疑者死亡のまま書類を送検することになっているのですが」
既に死んでいる人間を逮捕して裁判にかけようとでも言うのだろうか。
「ですから、そんなことする必要は……」
言いかけたその時、イタルの閉じられた目から一筋の涙がこぼれ落ちて耳元へと流れた。
「イタル!?」
「どういうことですか!?
彼は亡くなっているのでは!?」
「確認します!」
慌てて医者が駆け寄りイタルの脈拍や呼吸を診たが、すぐに首を横に振った。
「死亡直後でも、数日経ってからでも、よくあることなんです。
遺体の保存環境や死の直前の体内水分量などの諸条件によって、こうして涙が流れることは……。
皆様驚かれるのですが……」
「そう……ですか……」
「ったく……だとしてもタイミングってもんがよぉ……」
「まぁ生きていてくれた方が我々は本来の仕事ができたんですがね」
「刑事さん!?
そういう刑事ジョークはこういう場ではやめて頂けますか!」
医者にまた叱責され、とりあえず今ここでこれ以上やることも無くなった刑事二人は、わざとらしく肩をすくめてみせながら、
「では久山さん、体調が戻りましたらまた改めてお伺い致しますので……」
と去って行った。
「久山さん、そろそろお部屋に戻りましょうか」
二人の背を苛々と見送っていた医者が振り返り、車椅子のハンドルを握った。
イタル……。
私、あの橋の上でなぜか生きる道を選んだわ。
一緒に逝くこともできたはずなのに、饒舌に懇諭してまで。
いかにも芸術家みたいに感情の起伏が激しくて、でも本当はただただ甘えん坊で女々しい男だったあなた。
向こうであなたは私を信じて待つのかしら。
それともせっかちにあっさりと他の誰かに甘えてしまうのかしら。
どちらにしろ、約束だから……もしも来世なんていうものが本当に存在するのならば、そこで必ず、また会いましょう。
そんな風に詩的に心の中で語りかけながら指先でそっと涙を拭ったイタルの顔は、氷のように冷たく、そこで急激に初めてすべての現実に現実感が湧き上がり、堰を切ったように嗚咽を漏らし始めた私を、医者が静かに病室の外へと運び出し、扉を閉めた。
終
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