チェーンメール

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チェーンメール

 河野 伸行(こうの のぶゆき)は集中できずにいる。 ”お前それピザ屋やのうて馬主やろ!” ”わはは!”  テレビからは楽しげな声が聞こえてくるのだが、そちらを向いてすらいない。  しばらく前からずっと、思案顔でスマートフォンの画面を見ていた。 (…誰なんだろうな?)  視線の先にはメールの文面がある。 ”明日、お時間ありますか?”  差出人の名前はなく、メールアドレスがそのまま表示されていた。つまり、連絡先アプリに記録されていない相手からのメール、ということになる。  誰かわからない相手からのメール。  それは間違いメールかイタズラ、もしくは迷惑メールではないのか?  最初は伸行もそう思った。  しかしそう思ってから時間がたった今も、彼はメールを削除していない。 (なんか…見たことあるんだよな……)  伸行は首をひねる。  1分ほど右に傾いた頭は、その後で左に傾いた。 「うーん…」  彼は頭を真っ直ぐに戻した。一度端末を置いて、テレビに顔を向ける。 ”いや6000円から3500円引いたら、残りは2500円やろ!” ”えっマジ? 35000円じゃないの?” ”なんでケタ増えとんねん! でもってケタ同じでもちゃうわ!” ”わはは!” 「……」  やはり伸行は集中できない。  再びスマートフォンを手に取った。  その時ふと、視界の端に黒いものが映る。 「!」  彼は一瞬だけ驚いた。  しかし顔をそちらに向けるころには、もう落ち着いている。 (シミか…)  壁のシミは、この部屋に引っ越してきたころからあるものだった。  家主との話もついており、おかげで伸行は少しだけ安い家賃でこの部屋を借りることができている。 (いやそれよりメールだ)  彼はあらためてメールを読んだ。文面は極めて短いため、2秒とかからない。  正確にはアドレスを読んだ。 (桃とかピーチとか…なんだこれ、ペチェ? なんか長いけど…最後がキャリアのアレで終わってんだよな)  伸行が知らない誰かは、無料でいくらでも取得できるフリーアドレスではなく、端末に直接つながるアドレスからメールを送ってきていた。  この時点で、迷惑メールの可能性はかなり低い。 (じゃあ間違いメール? いやでも…見たことあるしなあ…)  指が、画面に近づいては遠ざかる。 (誰だっけって訊くのもアレだし、『時間あるよ!』なんて返事したら実はイタズラでしたーなんてのもイヤだし……でもアドレスからして女っぽいし……うーん)  相手は女性かもしれない。  これこそ、伸行がメールを無視できない最大の理由だった。 (ずっと前に遊んだ女友だち? それとも元カノ? いや、ちょっとだけ登録してた出会い系の女って可能性もある…)  どれなのかはわからない。  どれでもないかもしれない。  だが、どれかの可能性はある。  しかも時間があるか訊いてきたということは、時間があれば会えるという意味にもとれる。 (…ヤれる……?)  チャンスがあるのではないか? (いやいや)  そんなうまい話はない。  伸行は揺れ動いていた。  独り身の寂しさが、彼をいつまでも迷わせていた。 (んー…んんんー!)  まぶたを強く閉じて、どうしたものか考える。  しかし答えを出すことができない。  伸行はそれからも、端末を置いては持ち上げるということを何度も繰り返した。  そうする度に心の中にもやもやしたものが溜まり、自分が情けなくなる。 (わけわからん女に、何をいつまでも執着してんだオレは…!)  だがやはり諦めきれない。  スマートフォンがメールを着信してから3時間、彼はついに行動を起こした。 ”時間あるよ!”  そこからは早かった。  あっという間に、隣町の喫茶店で会うことが決まる。  相手の名前はチカといった。伸行の予想通り、女性だった。  しかし彼には、その名前に全く覚えがない。 (やっぱり間違い…? いやもういい。せっかく約束できたんだ、イケるとこまでいってやる!)  そして翌日。  伸行の前に現れたのは、美しく清楚な雰囲気の漂う女性だった。 「ノブさんですか?」  白い帽子と薄いミントグリーンのニット、小さな花が散りばめられたスカートを着たチカは、事前に伸行が伝えた呼び名を口にしつつ微笑む。  その笑顔はとても可愛らしく、挨拶を返す彼の声が思わず震えてしまうほどだった。 「あ、ど、どうも…」  まさかこれほどの美女が、自分の前に現れるとは思わなかったのだ。 (どっかのお嬢さまか? それともモデルさんか? めちゃくちゃかわい…かわいすぎる!)  突出した美貌は人の記憶に残る。チカの容姿は間違いなく、その次元に達していた。  しかし伸行は彼女に見覚えがない。  つまり会ったことがない、ということになる。  当然ながらチカも伸行のことを知らないはずなのだが、その微笑みから輝きが失われることはなかった。  これが伸行の心に違和感を生む。 (かわいいけど…)  チカの美貌に対する興奮は冷め、疑惑の雲が心を満たした。 (なんかヤバい気がしてきた。もしかして、宗教の勧誘とかそういうヤツなんじゃ……) 「どうかしました?」  後悔しかけたところに、チカが尋ねてきた。その美しい顔をぐっと寄せてくる。 (え)  至近距離で見つめ合う形になった。  チカのかぐわしい香りが伸行の鼻をくすぐる。  甘美な刺激は可憐な花となり、疑惑の雲に代わって彼の心を埋め尽くしてしまった。 (ああー…これは、ヤバい。別の意味で)  頭の中がピンク色に変わっていくのを感じる。花の香りに誘われ、伸行の中にあるオスが冬眠を終えようとしていた。  チカはそんな彼の気持ちなどつゆ知らずといった様子で、不思議そうに重ねて尋ねてくる。 「あの…?」 (あっ)  これ以上何も言わずにいるわけにはいかない。伸行はそう思い、あわててこんなことを口にした。 「きょ、今日は…いい天気、ですね」 「はい」  苦し紛れで発した言葉に、チカが嬉しそうに笑う。  それを見た瞬間、彼の冬眠は完全に終了した。 (ダメだこれ。ずっと見てたい)  長すぎる独り身の生活が、女性に対する免疫をほとんどゼロにしてしまった。目の前にいるチカはあまりに美しく、伸行にとっては甘い毒ですらあった。 (…まあ、ヤバいと思ったら逃げりゃ…いっか)  違和感を意識の奥底へと追いやる。春真っ盛りの今、守りに入る理由などもはや存在しなかった。 「あ、あはは」 「うふふっ」  ふたりは寄り添うような距離で微笑み合う。はたから見れば立派な恋人同士だった。  喫茶店で過ごした後は、レストランでランチを楽しんだ。  その間も話は弾み、笑顔の花がいくつも咲いた。しかも、伸行が考えていたような不穏な内容に変わることはまったくない。  彼は何の疑いもなく、チカとの時間を楽しむようになっていた。 (おぉー…オレ、久しぶりにデートしてる! しかもこんなかわいい子と! たのっし、楽しいなあ!)  偶然から始まる出会いと恋。  ロマンティックなひとときは、伸行の渇いた人生を急速に潤していく。  時間がたつほどに、ふたりの距離は物理的にも近くなった。 「…あっ」 「あ…」  歩いている時に、互いの手が触れ合う。  驚いて立ち止まり、見つめ合った。  しかしすぐに恥ずかしくなり、同時にうつむく。 (い、いや…オレが恥ずかしがってちゃダメだ)  伸行は自らを叱咤する。 (ここはしっかりリードしないと…!)  顔を上げ、チカの手を握ってみた。 「……」  彼女は嫌がらない。  それどころかそっと握り返してきた。 (あああ…!)  伸行は、あまりの嬉しさで叫びそうになる。  それをどうにかこらえながら、彼女の手を引いて再び歩き出した。 (生きてればこんなこともあんのか…神さま、ありがとう!)  喜びが彼の心を満たす。夕方前にデートが終わりを迎えるまで、それが目減りすることは全くなかった。  帰り際、ふたりは別れの言葉を交わす。 「今日はほんとにありがとう。楽しかった!」 「私もです。また…会えますか?」  チカからの言葉は、伸行にとってまさに願ったり叶ったりだった。彼が弾む声で「もちろん!」と答えると、彼女は出会った時以上の笑顔を見せた。 (誘わなくてよかった)  伸行は、勢いでチカを抱かなくてよかったと心から思った。  彼女を抱きたいという気持ちは当然ある。抱けるだろうという予測もあった。しかし楽しい時間をともに過ごす中で、チカという女性を大切にあつかいたいという気持ちが芽生え、彼を踏みとどまらせていた。 (今は手をつなげただけでも十分だよ…ほんと、ありがとう)  帰るために背を向けた彼女を、伸行はいつまでも見送っていた。  その姿が完全に見えなくなってから、彼も家路につく。 (いやー、人生最高の日ってのはオレにも来るんだな…)  帰宅して部屋の照明をつけた。 (今日はいい夢を見られそ…ん?)  ふと、視界の端に黒いものが映り込む。  またシミかと思い、そちらを見た。 (なんだ…これ)  壁にはシミがある。  それは変わらない。  だが、シミの中央部分がなぜか盛り上がっている。  ただ盛り上がっているわけではなく、天井へ向かって伸びている。  伸行はゆっくりと、そちらへ視線の向きを変えていった。 (は……?)  その日、彼は出会った。  天井から無数の触手を伸ばす、黒い人影に。  それは、上下逆にうずくまった状態で天井にくっついている。  無数の触手は背中から生えていた。そのうちの1本が、彼がいつも見ていたシミにつながっている。どうやらつっぱり棒のように触手で壁を押すことにより、体を天井に固定しているようだ。  顔や体といった色彩的な区切りはなく、すべてが黒い。  例外は目で、横向きの楕円形をした白い目が縦にふたつ並んでいる。黒い体の背を滑るように移動していたが、やがてぴたりと動きを止めて伸行を凝視した。 (なんだ、こっ?)  伸行が心で「なんだこれ」と言い終わる前に、目から新たな触手が現れて彼の頭に刺さる。  一瞬で全てが真っ黒になった。 (一体…何が、どうなっ……うぅ) 「はっ!?」  伸行は目を覚ました。  体を起こすと、視界の端に黒いものが映り込む。  すぐさまそちらを向いた。 (…シミだ)  向いた先には壁がある。  壁には見慣れたシミがある。  それ以外、何もない。 「……」  しばらくシミを見つめた後で、今度は天井へ顔を向ける。  照明がまぶしいだけで、やはり何もない。 (なんか、さっき……すっごい怖い何かを見た…ような?)  しかし実際には何もない。  伸行は不思議に思いながら、顔を正面に戻す。その時、右手に重さを感じた。 (スマホ?)  彼は右手に、いつの間にかスマートフォンを持っていた。  画面を見るとメールを書いている途中で、その文字数は極めて少ない。 ”明日、時間ある?”  これを目にした瞬間、伸行は自分がやるべきことを思い出した。 (そうだ、メール送らないと)  ボタンをタッチし、送信を完了させる。  その後で首をかしげた。 (そーいやこのアドレス、誰のだっけ……?)  アドレス欄には、送信した相手の名前がない。  見覚えのない英数字の羅列が、ただ並ぶばかりだった。 (まあ、いっか)  彼は端末を充電器に挿し、テレビに顔を向ける。  画面から流れる映像を見ては、楽しげに笑うのだった。    >Fin.
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