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永遠ではないから
GWの初日、秋田市はあいにくの曇天模様だった。
私たち一行は新幹線こまちからホームへと降りた。
鋭い先端をもち、赤く光り輝いているこまちは普段見られないので新鮮だった。
別に私は鉄道オタクというほどの知識はないが、男の性というものだろうか、目の前にすると無意識に心が躍ってしまう。
マスターと金次郎も同じようだった。マスターはスマホで、そして金次郎は一眼レフを構えて何度もシャッターを切っていた。カシャカシャという小気味良い音も連続で鳴ると耳障りだ。
「いやあ、私、秋田に来るのは今回が初めてなもんで。この年になっても初めての感動を味わえるなんて嬉しいことです」
もうとっくにほかの乗客はホームから消えているのに、私も含めて彼らは未だにホームで写真撮影を行っている。
これはなかなか先へ進むのは困難だと思いながら、左手首に着けてある時計を見れば、まだ時刻は十時前を指していた。
しかも、私たちの今回の旅は予定がない。ただそれぞれの故郷を見ていこうと思いつきだけで来たので、これから追われるようなスケジュールにするも、のんびりしたものにするのも私たちの匙加減なのだ。
まあ、このメンバーでスケジュールを一杯にするのは無理だと分かっていた。
私たちがこまちに気を取られている中、童だけが妙にそわそわしている。ここは彼の地元であるから、私たちのような感動が込み上げてこないのは当然だろう。
「童、この二日はつまらなくとも、それ以降は君にとっても楽しみであろう」
私は童のそばによって、優しく声をかけた。
「あ、いえ、つまらないわけではありません。大学に入って以来、帰ってなかったので」
私が予想していた返答とは異なった返事で、驚きのあまり一歩下がってしまった。彼は三年生なので、約二年間、一度も帰省していないというのだ。私のような大人になれば普通かもしれないが、学生がそこまで帰らないというのは不思議に思われるはずだ。
「なぜ帰らなかった? 親御さんもさぞ心配しているだろう。今どきの学生はそういう感じなのか」
私の質問に彼はかぶりを振った。
「実は高校生の時は県内の大学に行くよう親には言われていたのを、振り切って東京に出てきたんですよ。なので、会うのが怖くて今日まで来ました」
私は最悪の事態を考えた。
「もしかしてだが、今日我々が君の実家に行くことは話していないのか」
童は申し訳なさそうにうつむいた。それが言わずとも答えだと悟った。
今回の旅は移動距離が多く、それだけで出費がなかなかのものなので宿泊はそれぞれの実家に泊めてもらうことになっていた。
しかし、それは初日で、しかも午前中で崩れた。
私は猫背で肩身を狭くしている童と、向こうでお花畑にいる金次郎たちを見比べて額に手を当てた。
「いやあ、すまんすまん。それでは童、案内してくれ」
実態を知らない金次郎が無邪気な笑みでこちらを向いた。横を見れば愛想笑いを浮かべている童の顔が青ざめているように見えた。
今回の旅、何も問題なしとはいかなそうだ。
我々は駅の西口を出て、県道二十六号線をまっすぐ歩く。私が思っていたよりも駅付近は都会で、テレビや雑誌で想像していた田園風景は見られなかった。
百聞は一見にしかずとはこのとこだと胸の内で感心した。
歩道には柳が植えられており、風の勢いを殺したごとく、ゆったりと左右に揺れていた。
「童、これはなんだ?」
ベージュの帽子のつばを上げて金次郎がお堀の先を指さした。
「ここは久保田城跡です。と言ってもお城はもっと奥で、手前にあるのは県民会館や資料館などです」
「おお、それはぜひ見たいものですな」
マスターが振り返り会話に入る。二人はまだ今夜泊まる宿の心配など微塵もしておらず、観光気分を募らせていた。
「あ、ここが僕の家です」
童が止まったので、後方も少し遅れて足を止める。最後尾の私は壁のような金次郎が急に止まったので、彼の背中に激突して静止した。
「なぜ急に」と私は金次郎に問い詰めようとしたが、当の本人は前を見ておらず、童が指さした方を見上げていた。
私も眉間にしわを寄せながら同じ方を見ると、そこには煙突のように突っ立っているマンションがそびえたっていた。周りが低いせいか、威圧を感じるほどであった。
「ここが君の家か?」
彼が自分の家だと言っているのに私は再度聞いてしまった。それだけ驚いたのである。童が秋田の出だと聞いた時に、私は勝手にだだっ広い平屋を想像していた。それが優に二十階は超える長方形の箱が堂々と立っているのだ。
それはこの風景に少し似つかわしくないと私は感じた。
憮然としていた三人をよそに童は早々と横断歩道を渡る。
「早く行きますよ」
その低い言葉にやっと反応して、我々はのそのそと歩を進める。
この時、私は彼の事情のことをすっかり忘れてしまっていた。
実際のマンションは二十階ではなく、三十階建てであった。
私たちはエレベーターで最上階へ上昇していく。私は特にすることもなく、右上の階を示す画面を眺めていた。
「まさか、童がここまでのボンとはな」
十八階を過ぎたところで金次郎が感心するように首を上下に振る。
「そんなことないですよ。あと、僕が先に入って話しますんで、皆さんはドアの前で少し待っててください」
「なぜだ、せっかく泊めていただくのに、ご両親に御挨拶をしなくては」
「童くんの部屋にいかがわしいものでもあるんでないですか」
マスターも会話に加わり、二人は中学生のように想像を膨らませていた。
これでは彼らは部屋に着いたとたんに、童の部屋を家宅捜索しかねない。
「童は友人を連れてくると言っていたそうだ。それなのに急に自分よりも年上の男が現れたらご両親も驚くだろう」
私の言葉に「それもそうだ」と金次郎は納得してくれたようだ。
「くれぐれも、僕の合図が出てから家に上がってくださいね」
童はいつもの弱弱しい声ではなく、力強いというよりは不安を紛らわす声で念入りに金次郎たちに警告した。
童は私をちらりと見て、眉を八の字にして頭を垂れていた。
私がもう少しエレベーターの速度を落としてほしいと願うのも虚しく、私たちを乗せた小さな箱はぐんぐん上がっていった。
彼の家は最上階の右奥にあった。
「ぽっぽさん、一緒に来てくれませんか?」
童の乞いに私は頷く。私とて場違いなのは重々承知の上だが、ここで失敗されると色々面倒だ。
「なぜぽっぽだけなのだ?」
「さっきと話が違いますね。やっぱり部屋に何か隠しているんですよ」
早速中年のヤジ隊が口を開く。
当の童はどう回避すればよいか目が泳いでいて頭の中がパニックになっていた。
今からとも戦になりうる場所に行くというのに、ここで童の体力を割かれてはあとが持たない。
ほかの二人が不平不満を言う中、私が二人を何とか鎮めて渋々同行することを了承してくれた。
ドアを開けて玄関に入れば、もう驚くことはないと思いながらも私は再度目を見開いてあたりを見回した。新幹線の道中で彼がひとりっ子と聞いていたので、彼の家族は三人構成のはずだ。
しかし、私の視界に広がる光景は三人で生活するにしてはあまりにもスケールが大きい。玄関はタイル張りで私が寝ても優に収まる広さだった。そして天井高は見る限り三メートルはあるのではないだろうか、ドア先からは分からなかったが、より広く感じた。その天井にはシャンデリアが神々しく光を放っていた。私は初めて見る豪邸というのに腰が引けてしまった。
「俊ちゃん? 俊ちゃんじゃない!」
遠くまで続く廊下の向こうからパタパタと音を立てながら近づいてくる者がいた。その人は私たちの前で止まり、横にいる童の顔をじっと見つめていた。
私たちのそばまで来た女性は身長こそ高くはないが、すらりとして品がいい印象だった。肩まである髪は毛先に少しウェーブがかかっており、富の高さを感じた。
それよりも私は聞き覚えのない名前に辺りを見回していた。
「ただいま、母さん」
童はかすれたような声で目の前の女性にぎこちない笑みを浮かべた。
それで私は心の中で合点した。もちろんここが彼の家だと認識はしていたが、アパートの中ではだれ一人として彼のことを名前で呼ぶ者がいないため、一瞬童の名前だということに気づかなかった。
「どうしたの? 急に帰ってきてびっくりしたじゃない」
「ごめん、連絡するの忘れてた」
童のちょっとした嘘に童の母は「それでも久しぶりね~」と喜びを表している。
「こちらの方は?」
童の隣にいる私にやっと気づいた童の母は首から上だけを動かして、私を不思議な動物を見るような眼で見てきた。
「初めまして。私、わら、俊太郎君と同じアパートに住んでおります國村歩と申します」
私は普段呼びかけているあだ名をぐっとこらえて、きっちり十五度の角度で会釈をした。
「あら、そうなの。俊太郎がいつもお世話になっております」
童の母もお辞儀をした。しかし、私のようなロボットのようなものではなく、ゆったりとして、可憐に見えた。
私は深々と頭を下げている母を見て正直安堵していた。
てっきり修羅場になるかと肝を冷やしていたが、目の前の女性のまなざしは久々に帰省してきた息子を迎える優しい母の目であった。
とても修羅場になる雰囲気ではなかった。
「ささ、立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」
私と童は靴を脱いで廊下を歩いた。数歩先を歩いている童の母の足取りは軽やかだった。数年ぶりに再会した息子が帰ってきたのだ、心を躍らせるのも無理はない。
「なんだ、優しい母君ではないか」
私は小声で童の耳に話しかけた。
「まあ、母は良いんですけどね」
彼が苦笑して私の前を歩いた。
「それはどういう――」
私が彼の言葉の真意を尋ねようとしたところ、目の前で童が足を止めた。どうやら廊下の突き当りまでついていたらしい。童が肩で大きく息を吸い込むのが見えた。その先にいる母君もドアノブを握りしめたまま、深呼吸をしていた。
私は二人を見て、ようやく私たちを待ち構える最後の砦の正体を認識できた。
私も一呼吸したかったのだが、母君がタイミング悪くドアを開けて中に入った。私は童に続いて中に入り、酸素不足のままラスボスと対面することとなった。
リビングに通された私は、まずその広さに三度驚かされた。おそらく『パルドブロム』の四部屋をつなぎ合わせても、対戦相手にもならない広さだった。そこまで広い場所にあるのはダイニングテーブルと八十インチほどの大画面テレビ、そしてエメラルドグリーンの皮張りのソファー三点というシンプルな間取りであった。
この贅沢な使い方が貴族の余裕なのかもしれない。
「なんだ、お前か」
そのソファーから渋く冷たい声が聞こえたので、一瞬身体がすくみながらも声のする方へ目線を移した。
そこには白髪の混じった髪をアップバングで七三に整えた男性がこちらを流し目でにらみつけていた。
なんとも冷徹な目つきだった。母君とは対照的にこちらの目は息子を迎える気など一切感じられなかった。
「ただいま、父さん」
童の声が震えている。もともと猫背だった背中がさらに丸まっていた。その姿はもはや猫ではなく、まるで狩りに追われているウサギのようだ。
「ごめん、今まで帰ってこなくて」
童の言葉は彼の耳に届いていないのか、無言のままである。
その代わりに童の父は私たちに聞こえるように大きくため息をついた。発せなかったという方が正しいのかもしれない。
童へのまなざしが一層冷たく光っていた。当の童は言葉を発さなかった。
「どうした、帰ってくる気になったのか」
「いや、そんなことは―」
「なんだ? そしたら、東京でやりたいことでもあるのか?」
童が言い終わらないうちに父は覆いかぶさるように言葉を畳みかける。私には「口答えをするな」と言っているように聞こえた。
童は言葉を返せず、口をつぐんでしまった。不穏な空気が広いリビングに流れる。
その空気は暗いというか、冷たいというか、そのような色や温度では表せない空気であった。
私はこの空気の中で居場所を懸命に探していた。童は直立不動で、母君は特に汚れている様子のないテーブルを隅々まで拭いていた。
「やりたいこともないのに、東京に逃げてだらだらと」
彼の父は吐き捨てるように言い放った。
「父さん、僕―」
「就職はこっちでしなさい。そんなだらしないお前でも入れるところはあるだろう」
童の父はげんなりした顔でリビングを去っていった。私たちを横切る際、彼は童と目線も合わせず行ってしまった。私なんか存在すらないようだった。
父はもうこの部屋から去ったというのに残されたリビングに新鮮な空気は入ってこなかった。
「まあまあ、せっかく帰ってきたんだしゆっくりしていきなさい」
母君が無理に笑顔を作ってキッチンの方へ向かった。
童を見れば、一点を見つめて未だその場から動こうとしなかった。
今までに見たことのない悔恨の目つきであった。
不穏な空気はより一層濃くなっていった。
「なぜ私たちにも言ってくれなかったのだ」
私たちはカウンターに並んで座っていた。
右端に座っていた金次郎が勢いよくジョッキの中の液体を口に流し込む。
「言うタイミングがなかったんですよ」
左端にいる童が身を乗り出して答える。
「それにしても私たちを忘れるなんてのはひどいもんですぜ」
右にいるマスターはいぶりがっこを口に放り込む。
リビングで緊迫している空気が漂う中、金次郎たちはずっと外で待っていたことに私たちはずいぶん気づかずにお茶を一杯頂いていた。四月終わりとはいえ、マンションの廊下には冷気がうろついている。私たちが気付いてドアを開けたときは二人ともくしゃみを連発していたほどだった。
それから事情を説明して母君からは宿泊の許可が下りた。
「いいんですか? お父様の方には」
「大丈夫ですよ。どうせ自分の部屋からなかなか出てこない人なので。それより自分の息子が帰ってきてるのに追い出す親がいると思います?」
目尻に皺を浮かべて笑う母君は童にそっくりだ。笑顔の彼女は少し若く見える。しかも息子以外の男の突然の訪問にも寛大に迎える心までお持ちだ。
さすがにその彼女も現れた人たちが全員息子よりも年上で、しかも一人は母君より年上の男までいるのだ。初めは母君もたいそう驚かれていたが、すぐにマスターたちとも話の馬が合ったようで、朗らかな表情になった。
しかし、母君の言う通り童の父はあれからリビングに現れることがなかった。
しばらくは出てくるのを我々全員でリビングで待っていたが、とりあえず待っているのもなんだから、こうして居酒屋で飲んでいるということである。
「父は弁護士で、結構名の知れている人らしいです。父からはずっと県内の大学に入って弁護士になるよう言われていたんですけど、どうにも僕は法律とかに興味がわかなくて。それで、無理やり東京に出てきたんです」
童はビールを一口入れて切実に話した。
「そういえば、君が父と話しているときに何か話そうとしていなかったか? 本当はやりたいことがあるのではないか」
私はふと先ほどの緊迫したシーンを振り返り尋ねた。
「童はまず何を大学で勉強しているんです?」
マスターがいぶりがっこの二枚目をほおばった。
たしかにそうだと思った。私はこれまで約三年、彼とパルドブロムで過ごしてきたが、彼の学生生活というものが全く見えなかった。友人らしき人物も尋ねる様子はなく、親父たちと頻繁に酒を交わす時点でおかしいはずだ。
私を含めて皆が童に注視していた。
「僕がしたいことは……」
童が下を向きながら言おうとした、その時だった。
「へい、お待ちどうさま! いらっしゃい、お客さん奥の席へどうぞ」
店員が大きな鍋を二つと一つの瓶を置いて威勢よく声を発したのち、今しがた来店した女性二人にテーブル席を案内する。その動きには一切の無駄がなく、流れるようであった。
女性たちは「すみません」と言いながら、壁とカウンター席の間をかにある気で通り抜けて奥へと消えた。
先刻の火炎のような声に童の声は見事に塞がれてしまった。神様までも童の邪魔をしようとしている。
「童、もう一度教えてくれないか」
私が再度試みたが、童は自信を無くしたのか俯いて、目の輝きが元来強い方ではないのにより薄まった気がした。
「さっきのは、たまたまだ。そんなことで落ち込んでいても父上との決着はつかんぞ」
金次郎が花邑の瓶に手を伸ばしながら口を刺した。この状況でもこの男は酒にしか目が行かない。
「そうだ、君が考えていることを教えてくれたら、私たちから何か助言ができるやもしれん」
私は伸びてきたしわくちゃの手をはたきながら語を継いだ。
私の懇願が効いたのか、先ほどまで折れかかっていた童の首がむくっと立ち上がった。
「僕がしたいことは天文学です」
今度はしっかりと私たちの顔を見て、童は力強く答えた。
「天文学?」
私はそれが何をする勉学か、具体的なことはわからなかった。マスターも私と同じような顔をしている。金次郎に至っては、瓶を見つめたままでこちらの話はあまり耳に入っていないようだった。
「天文学というのは具体的に何をするのかね?」
マスターの何気ない質問が童に火をつけてしまった。
「天文学というのはですね、宇宙のことを明らかにする学問です。そもそも宇宙というのは約百三十八億年前に誕生したんです。そしてですね、長い年月をかけて今の形になったんです。しかも宇宙を百とすると、私たちが知っている原子っていうのはたったの五パーセントなんですよ。あとは暗黒物質と暗黒エネルギーという未だ解明されていないもので宇宙は形成されているんです。あとですね」
それからも童は宇宙のことについて目を輝かせて話していた。子供の誕生に月が影響していることや、火星に川と湾の形跡があり、エベレストの約三倍もの火山があることなど宇宙の不思議について熱く語った。
それは少年が夢を語るようだった。
私は彼の勢いに唖然としてしまった。
童にこれほどの声量があることを私は初めて知った。彼の好きな神蔵を飲んでもここまでの声量と気迫は感じられなかった。
私は驚くとともに、彼がどれほどその学問に情熱を注いでいるのかを感じた。
「今みたいに話せば、父上もわかってくれるのではないか」
「いやいや、父に言ったところでそれでどう食っていくのかとか、お前がする必要があるのかと突き返されるだけですよ。父は堅実的に生きてほしい考えなんです。そんな人に何を言ってもわかってもらえるはずがありません」
童は早口でまくし立て、残っていたビールを一気に飲み干した。
彼が重力にさらに力を加えて勢いよくジョッキを机に叩き下ろすのと同時に、右端から深いため息が聞こえた。
二酸化炭素が排出された方を見れば、きんじろうが肩をすくめてげんなりした表情であった。
「どうしたのか」と私が聞こうとする前に、金次郎から口を開いた。
「一度でも言ったのか」
いつもの声より一音低く聞こえた。
「君は一度でも父上にそのことを言おうと試みたか」
「いや。だから父にはどう言っても……」
童は突然のことで瞳が彷徨っていた。
「言ってもないのに分かり合えないとは、童は超能力でも持っておるのか? 人のことを言うよりも、まずは自分の心に問うてみよ。本当に全力を尽くしたのかと。自分のことを後回しにして、相手に武器を突きつけるのは自分勝手、且つ人任せではないか?」
金次郎はいつになく真剣なまなざしで端にいる青年を見つめていた。いつもは酒とどうでもよい話で人を笑わしている男とは結び付けようにも難しかった。
奥で女性二人の笑い声が聞こえる中、ここだけ気温が低い気がした。
「確かにその通りです。しかし、父がまず話を聞いてくれるかどうか」
童が頼りない声を漏らす。
「聞いてくれないのならば、無理やり聞かせるのだ。断られても何度も頼み込むのだ。自分がどこまで真剣にその道へ進もうかを表すのに、一度や二度でへこたれていては父上も心配で承諾ができないというものだ」
つまりだ、と金次郎は話し続ける。
「考えるのだ。感情的にではなく、一度自身で整理させてから物事を進めるのだ」
先ほどとは打って変わり、優しい口調に変わっていた。
童は金次郎の言葉を心中で反芻しているのか、ただ一点を見つめたままじっと動かなかった。
「童のことは童自身が今夜ゆっくり考えて結論を出すと良いですね。せっかくの料理と酒がもったいないので、とりあえずいただきましょう」
話のひと段落がついたところでマスターが全体をまとめるように言った。
私は先ほどまで遠く感じていた女性の笑い声や目の前の鍋が急に沸騰する音などが耳元で流れているかのように近くなった。
視線を落とすと、何ともかわいそうにハタハタが体を桜色にしてのぼせ上っていた。
マスターが四つのグラスに素早く、丁寧に酒を注ぐ。そして、なみなみ注がれたグラスを左右へ配る。自分の店でもないのに、彼は生粋のマスターであるのかもしれない。
皆に酒が回ったところでマスターが一つ咳払いをした。
「それでは、改めまして我々の旅に」
私とマスターは前へ、両端の二人は中央に向かってグラスを上げた。
誰も合わせていないのに、かちりと軽快な音が鳴った気がした。
私は一気にグラスの酒を干して、目を見開いた。
大きくした目のまま瓶のラベルを覗くと『花邑』と赤くふやけたような字で書いてあった。私が知らない銘柄であったが、舌はあの私の好物を味わっているかのようであった。
驚きを隠せないままこの美酒を頼んだマスターを見れば、彼は私を見て満足気に笑っていた。
「これは、マスター……」
マスターは頷きながら語を継いだ。
「さすがはぽっぽ、よくお気づきで。この『花邑』は秋田の湯沢市で作られるものです。そして、この酒は『十四代』の社長から技術指導をしてもらった特別な美酒で、なかなか手に入るものやございませんよ。私もカウンターで見てさすがに驚きました。なので、そんな一気に飲まずにもっと味わって下せえ」
マスターは空になった私のグラスに瓶を傾けた。瓶から純水と間違えてしまうほど透明度の高い液体が流れている。
まるで山から海へと流れる聖水のようであった。
少し早まっている鼓動を押さえながら、私は一口飲んた。口に入った聖水は温かく私の胸を包んだ。そしていつまでもいじらしく止まっているのではなく、軽やかな足取りで私の心事持ち去ってしまった。
「マスター、これは間違いなく美酒だ」
私が当たり前のことを言うのに対して、彼は「そうですか」とにこやかに笑って自分もくいと飲む。その姿は飲酒を許されている菩薩のように見えた。
続いて私は鍋の方へと端を向けた。
紅く染まったハタハタを口に入れると熱くてかむことはできなかったが、魚が勝手にほろほろと口の中で崩れていくのが分かった。そして最後にハタハタの深くて優しいうまみが口中にあふれ出る。
実に味わい深い、故郷を思い出させる鍋である。
「美味い! 甘さはすごいが何といっても余韻がすごいな。やはり米が産地なところは日本酒も格別というわけか」
突然金次郎はいつも通りにがははと例の海賊笑いを高らかにあげていた。せっかく鍋を堪能していたのにと嫌みの一つでも言いたかったが、それは喉元で押さえた。
場の雰囲気がふっと軽くなったからだ。
「童、お前はどうなんだ」
不意に端の青年に金次郎が話しかけたが、当の童は明日の親父さん対策に没頭している最中であった。
「考え事は帰って布団の中でしろ。先ほどもマスターが言っておったろう、酒と飯が悲しむぞ」
いたずら気に笑声を上げた老人はまた一口飲んで心を奪われていた。急に説教したり、いつものように戻ったりと忙しい奴である。
しかし、彼が言うこともあながち間違いではない。
「とりあえず飲んで食せ、童よ。戦の前だからな」
私は横にいる丸くなった青年の方をポンとたたいた。それに反応した童はこちらを向いて苦々しく笑っていた。その表情は先ほどまでの負のオーラはなく、どこか愉しんでいる顔であった。
「そうですね」
彼はグラスを傾けて美酒を飲み、私たちと一テンポ遅れて驚嘆を顔で表していた。
「なんですか、これ。しったげうめえです」
急に出た方言に私たち三人は笑みを噴き出した。
それは『パルドブロム』で耳にするいつもの光景であった。
その温かく包まれた笑声は何処へとなく店内を泳いでいく。
私は日の光で目覚めた。
窓から射すのは涼しげな青白い光であった。しかし部屋の中には酒と男のにおいがゆらゆらと漂っている。少し痛む頭を起こして壁にかかっている時計を見れば、まだ六時を少し過ぎた頃であった。
私は酒を飲むとなぜか早起きになる体質であった。どんなに酒を煽っても、どれだけ夜が更けるまで飲んでも私は早朝に目が覚めてしまうのだ。しかも、その後の眠気という魔物も全く襲ってこない。すこぶる一日元気なのである。
昨日もあれから日をまたいで『花邑』と鍋を堪能して、帰宅してからは風呂も入らず崩れるように眠りについたのだ。自分の吐く息を鼻で吸うとなんというか、とりあえず吸えたものではなかった。
実に愉快な宴であった。
昨日の美酒のことを思い出しながら横に首を動かす。
そこには一ミリも乱れていない布団の中で気持ちよく寝ているマスターと、まるで事件現場と疑ってしまうような体勢で倒れている金次郎が豪快にいびきをかいていた。
ここまで対照的に寝るのも毎度のことである。『パルドブロム』だと、金次郎はトイレで真っ白な灰のように寝ていることもある。まだ部屋で横になっているだけ今日は上々であろう。
臭い酒気が含む息を一つ吐いて部屋を見渡すと、この場にこの家の一人っ子がいないことに気が付いた。
私たちが寝ていた敷布団よりも奥にあるベッドは掛布団がめくられた状態で時間が止まっていた。
「トイレにでも行っておるのだろう」
私が独り言をつぶやくと、私の膀胱も黄色の緊急サインを出してきた。
これもまた私の不思議な体質で、誰かが便所に行くと言い出したり、便所のことを意識したりすると勝手に私の膀胱は放尿する合図を出すのだ。今までこの現象を何度も説明してきたが、いまだに共感してくれる者は現れない。
そんなことを読者に悠長に話している間にも私の膀胱は黄色から赤へとサインを変えた。
私は急いで立ち上がった。
立ち上がった瞬間、足がふらついたがすぐさま体勢を整えて暴行を開放するべくトイレへ走った。
昨日酒を飲んだせいもあるが、出は快調であった。快調すぎてこのまま止まらないのではと焦ったほどであった。
『小』の方へレバーを引いてトイレを出ると、リビングから微かに人の気配が聞こえた。
私は瞬時に誰がその場にいるのか分かった。
なぜだかその場が楽園ではないことも分かっていたのに、私は無意識にリビングのドアノブを引いていた。
リビングは熱戦になったいると思えば空気は冷たく、床には氷が張っているかのようにひんやりとしていた。
私に背を向けている童と奥で黙々と朝食をとっている父上が相対している。
二人の間にどのような空気が漂っているかは私には計り知れない。
「ご馳走様」
父上がかちゃりとフォークを置いて立ち上がった。
「父さん」
童が話しかけても、父上は聞こえていないかのようにテーブルから離れようとする。
「今日は何時頃帰ってきます?」
母君がキッチンから出てきて父上の動きを止める。
「いや、今日から長野の方に出張に行くから帰ってこない。昨日言わなかったか?」
父上が首をかしげている間、「ああ、そうでしたね」と母君は大げさに相槌をしながら童に目配せをしている。
なんとも気の利く母君である。
「永遠じゃないんだ」
突然童が口を開く。
父上を含めるその場にいるすべての人が声の主の方へ振り返る。
「宇宙や天体って永遠じゃないんだ。ずっと昔に宇宙が誕生したように宇宙にも終わりがあるんだ」
「何の話だ、今日は忙しいんだ」
父上が右によけようとするのを童も右へ動き阻止する。
「五十億年後の話だけれども太陽は死んで、地球も死ぬ。宇宙も最終的には零度に近づくか、引き裂かれるか、元の点に戻るか、どのみち永遠っていうのはこの世にはないんだ」
やはり天体のことになると少しだけ熱が入っているような気がした。顔が紅潮して鼻の穴がいつもより開いている。
父上も初めて見る息子の姿に驚きを隠せないようで、顔が固まっている。それでも童は語調を弱めないまま話し続けた。
「永遠がないから、今したいと思えることを今、頑張っていきたいんだ。僕の今したいことは天文学なんだ。」
力強い言葉であった。
「それでお前は将来食っていくつもりなのか。NASAにでも入ろうと思っているのか」
童の覇気に押されながらも、父上は顔色を変えず冷静沈着なまま口を開けた。
「わからない」
童が小さく呟いた。その言葉に私と父上が額に手を当てる。母君は「まあ」と思わず声が漏れて咄嗟に口を自分の手で押さえる。
父上はやっと私に気が付いてすぐに手を口に下して三回咳払いをする。
「なんだその間抜けな考えは。だからお前は――」
「わからない。宇宙のことを仕事にできたらそれはうれしいけれども、今の段階で必ずなれるっていうことは断言できない。でも、今はこの分野を研究していきたいんだ。今ある自分の気持ちをなかったことにしたくはないんだ。僕はそれを父さんにもわかってほしい。将来のこともちゃんと考えるから」
早口で話した童は新しい空気を体に取り込んだ。
「考えるから、今はこのままやらせてください」
童は深く一礼した。
その背中はいつもと異なり、誠意溢れる男の背中であった。
父上はしばらく目の前で上体を折っている息子を見つめて、横の椅子から鞄を手に取りドアへと向かう。
父上は童と母君、そして私を通り過ぎた。
私たちの背後でガチャリと音がした、その時だった。
「好きにしなさい」
耳を疑った。聞き違いかと思って耳を指でほじくってもゴミ一つ出なかった。
ただし、とこちらを振り返りまっすぐ童の目を見つめた。
「年末くらいは帰ってこい。でないと母さんが悲しむ」
少しではあるが、言葉に暖を感じた。
私たちが振り返ると父上はすでにドアを閉じていて、廊下を歩く音が次第に遠くなっていった。
ただその遠ざかる音を私たちは聞いていた。
そして誰もいないドアに向かって童は再度、続いて母君と私も深く一礼した。
後ろを見ると、童のところのフローリングに雫がいくつも落ちていた。
それからは実に暖かい光景であった。
「俊ちゃん……よかったわね」
「う……うう……」
童はたった二文字が言えずに嗚咽のように泣いていた。
母君が童を強く抱きしめて、抱きしめられた童は涙を流しながらも破顔していた。緊張もあったのか、顔には少し疲労もうかがえる。
ここは家族水入らずにしてやろうと私はリビングのドアを開けてその場を離れた。
「盗み聞きとは質が悪い男だ」
「おはよう、ぽっぽ」
ドアを出たすぐ先で、壁にもたれかかってにやりと不敵な笑みを浮かべている男がいた。
「君がこんなに早起きなんて珍しいではないか」
「こんなにいい話を聞けるなら早起きも悪いものではないな」
「いい話?」
「『永遠』がない話、あれは実に心に響くな。さきほど父上が『自分の息子はあんな風に笑うことを忘れていた』と言っておった」
不器用な息子の親は不器用な父親か、二人の似ている点が今まで見えなかったが、やはり親は選べないな。
「確かにあれは興味深かったな。われわれ人間に終わりがあることは分かっていたが、まさか宇宙にも終わりがあるとは考えもしなかった」
すくっと重心を壁から自分の足へと変えた金次郎は大きなあくびをしながら寝室へと戻ろうとしていた。
「それだけ今が幸せだということだ」
金次郎がぼそりとつぶやいたのがかすかに聞こえた。
私たち一行が童家を発ったのは正午を五分過ぎた頃であった。
あれから私は寝れずに童と母君と朝食を摂りながら他愛もない会話をしていた。マスターは鶏冠の髪型のまま朝ドラが始まる頃にリビングに現れた。本当は観光もしたかったが、飛行機のチェックインに間に合いそうもなかったため、腹を出して寝ている金次郎をたたき起こして何とか間に合った次第である。
「急に泊まらせていただき、ありがとうございました」
一段下がった三和土で我々四人は頭を下げた。
「こちらこそ、息子が本当にお世話になっているようで。これからもよろしくお願いいたします」
母君は初対面の時と同様、ゆったりとしたお辞儀をした。しかし、顔はあの時よりもいっそう輝いて見えた。
「また帰ってくるよ」
はっきりとした声で母へと告げた童がドアを開けた。
「体には気を付けてね」
童の背中に向かって母君は声をかけた。
少しだけ彼の背中が大きく見え、震えていた。
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