忘れがたき故郷の友

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忘れがたき故郷の友

 私は車窓からの景色を眺めている。  見えるのは青々とした山と後代に広がる田畑のみである。民家が見えると少し気持ちが昂る。東京にいたときには感じなかったことだ。  私たちが乗っている明知鉄道は岐阜県の恵那駅から明智駅の約二十五キロを結ぶローカル列車である。列車は大体一時間おきと少ないが、乗車している人はジャージ姿の部活生から老夫婦までおり、意外と利用する人は多いようだ。 「こんなところで育ったんですね」  童が感心するように言う。 「本当に何もないところだな」  がははと金次郎はいつもの海賊笑いを上げた。静かな車内でそんな獣笑いが聞こえれば全員がこちらを注目するのも無理はない。こちらを見ている人たちはのどかな世界に突如怪獣が来たような怯えた目をしていた。 「なんもないところですけど、私はどうもここが好きみたいです」  マスターも目を細めて微笑しながら外を眺めている。目じりの皺がうれしさを表していた。  またしばらく揺れていると、列車のスピーカーからアナウンスの声が聞こえた。 「次で降りますよ」  マスターの言葉に私はもたれていた背中をシートから離した。  ガタンゴトン   列車は私たちを連れて陽気に前進する。  降りた駅は小さな小屋のようであった。  駅舎内には白黒の日光で焼けた鉄道の写真が何枚か飾られており、ノスタルジーを感じさせる駅であった。 『岩村駅』  駅を出て振り返ると大きく書かれていた。私が知らない場所がここにあることを証明されているようであった。 私はあたりを見渡した。先ほどマスターが言っていたように何もなかった。 ここで私はあることに気づいた。確かめるために空気を目一杯灰に取り入れる。 やはり違かった。 何と説明すればうまく伝わるかわからないが、空気がおいしかった。 私は初めて空気を吸えた気がした。 「さあ、行きますよ」  暑かったのか、シャツを脱いで半袖になったマスターが前を歩きながらこちらを振り向いていた。  マスターは私より年上だがその笑みは少年のように眩い。しかし、その袖から見せる大木のような腕とのギャップが年齢をさらに迷宮入りにしている。  私たちはマスターに続いて歩き始めた。  少し上へ歩いて開けた道に私たちは驚愕した。童は感嘆の息を洩らして金次郎はなぜか脱帽していた。  私も目を見開いたまま立ち尽くしていた。  私たちの視界に広がった先にはまっすぐと一本の道が伸びていた。  その道の両脇には高い建造物は一切見当たらず、木造の建物がずらりと並んでいた。  その道の上には運動会でよく見るカラフルなフラッグがいくつもかかっており、私には虹のように見えた。  まるでタイムスリップをしてきたみたいだ。 「ここは『重要伝統的建造物群保存地区』に指定されていましてね、ずっとこの古い街並みを大切にしてきたんです」  数歩先を歩いているマスターが説明した。 「このようなところがまだ残っているとは」  金次郎も驚いている様子であった。ただ先の見えない道をじっと見つめていた。  私たちはその街並みの中を歩いていく。どの建物も相当築年数は経っているように見えた。  周りは森の中にいるような静かさだ。  私にとっては何もかもが初めての体験であった。 「ここが私の家です」  マスターが指をさした先には『めし処 飯田』と塗料のはがれかかった字で書かれていた。 「マスターが飲食を営む理由が今やっとわかりましたよ」  マスターは照れながらもうれしそうに微笑して引き違い戸を開けた。 私たちも続いて店内に足を運ぶ。 「いらっしゃい」  よくとおる元気のいい声が私たちにかけられた。  声の主は三角巾を被った女性であった。  ぱっと見て私は彼女の年齢が分からなかった。彼女は目じりにしわは見えるものの、笑顔は少女のように明るくどことなく私の横にいる男と重なった。 「ただいま」  久しぶりの帰省なのだろうか、マスターの声が少しうわずった。 「あら、恒夫やないね!」  彼女は瞬時に母親の顔に変わり、久々に帰ってきた息子を迎えた。 「あら、恒ちゃん!」  奥から同じく三角巾を被ったご婦人たちが続々と現れてマスターを取り囲む。  ここにいる人たち全員がマスターを歓迎していた。この町自体が家族のようであった。  マスターはひとしきり可愛がられて後、私たちのことを母親に話した。  そのことを聞くや否や、母親はかぶっていた三角巾をとって深く一礼した。 「いつもうちの息子がお世話になって。本当にありがと」  母親は深々と下げた頭を上げて私たちに向かって白い歯を見せた。 「ありがと」のイントネーションとくしゃりとした笑顔に愛嬌を感じた。 「こちらこそマスターには我々もお世話になっています」 「あんな絶品を食べることができるのは東京でもあの店だけですもんね」 「酒も忘れてはいかん」  次々と本音を言う我ら一行を見て「あらまあ」とマスターの母親はますます嬉しそうだ。 「まあ、せっかくなんでウチの五平餅でも食べてください」  マスターは既に厨房に入っており、三角巾の代わりに白いタオルを頭に巻いていた。  私たちはとりあえずカウンターの席に座った。  厨房にいるマスターは割りばしに刺さったお米を炭火で焼く。焦らずじっとタイミングを待っている。それと打って変わって壺に入ってあるみそだれにつけるときは迷うことなくさっと入れる。 その動きは自然であった。 私はただその滑らかな動きに見入っていた。 「はい、お待ち」  完成した五平餅を乗せた皿がことりと染み入るような音を奏でてて私たち三人の前に並んだ。  少し焦げた香ばしい匂いと、茶色く光るみそだれのほんのり甘いにおいが私の腸をうならせた。  いただきます、とそろって手を合わせた私は一口食した。 「うまい」 「ぽっぽ、心の声が駄々洩れですよ」 「でも、うれしいことだね」  カウンターを挟んだ先で二人が同じ顔をして笑っていた。  私はさらに食べ続けた。正直私は食べる前まで五平餅のことを過小評価していた。ただご飯を焼いてみそだれをつけただけのもの、それだけの品だと思っていた。  しかし、今口に広がっている美味は間違いなく私がナメていた五平餅の味だった。  実に私が見た目のみで判断していて、無知なものがこの世に膨大に転がっていることを教えられた。 「マスター、これは美味いな!」  先ほどまで黙々と食していた高身長の男が突然大声を出したせいで、店内にいた全員の肩が瞬時にびくついた。 「せん、先生、急に大声を出さないでくださいよ」  喉に詰まったのか、咳き込みながら童が少し威圧のある目線で金次郎を睨んでいた。 「ああ、すまない、すまない」  金次郎は例の海賊笑いを見せながら童の背中をバンバンたたく。それでまた童は咳き込む。  それを見ている周りの人たちが優しい笑みを浮かべている。  平和なひと時であった。  ガラガラガラ  段ボールを抱えて入ってきた男性は私よりも二、三年上のように見えた。シュッとしている体は細いが引き締まっているようにも見えた。顔は日に焼けているのに加えて口髭も生やしていることでさらにワイルドに見える。 「おばさん、今日頼まれていたもの持ってきました」  外見とは裏腹に声は高く少年のようであった。  その男性は机に段ボールを置いてから厨房を見上げた。  私もつられて厨房に目を向けたら、そこには私の知らないマスターの顔があった。 「恒ちゃん……」  男性は固まったまま動かなかった。  マスターは普段にこやかに笑っていて物腰も柔らかいのに、体格の良さから真剣な顔をすると凄みを感じた。  私は頭上の雰囲気に思わず身震いした。 「哲、久しぶりだな」  マスターの明るい声が店内に響いた。 「ああ、哲ちゃんありがとね。哲ちゃんもお茶くらい飲むかい?」  おばさんは先ほどより声高で話し始めた。 私には無理に明るくふるまっているように見えた。 「いえ、気持ちだけもらっておきます。まだ仕事あるんで」  彼はさわやかに、そして気まずそうに笑いながらドアへと向かった。  店を出る前に彼は私たちの方を向いて軽く一礼した。  私もつられるように会釈を返した。  彼は白い歯を見せて「お邪魔しました」と店を出ていった。  年上であるが、なかなかの好青年に見えた。 「恒夫、あんた話さなくていいのかい?」 「話すって何を?」 「いや、色々よ」  おばさんは心配そうな目で息子を覗いていた。私たちには何のことかわからないまま二人の会話を聞いていた。  しかし、二人の間に何かがあったことは感じた。  空気が少しよどんでいた。 「今回はみんなとの旅行できたから、また次にするよ」  マスターはまだ心配そうに見つめるおばさんを宥めて私たちの方へ振り向いた。 「それ食べ終わったら岩村城でも行きましょう。ちょっと着替えてきますね、厨房にいたら暑くて暑くて」  すみません、とマスターは厨房から奥へと消えていった。 物腰の優しい、いつものマスターであった。 マスターが去った後もおばさんはじっと遠くを見つめていた。  閑散とした石畳の道を私たちは歩いている。  頭上のはるか上まで伸びている木々のおかげで日陰になっている道ではあるが、一歩歩くごとに私の額には大粒の汗が流れ落ちてくる。  今私たちが歩いている岩村城は大和の高取城と備中の松山城と並ぶ日本三大山城の一つにされており、城は江戸諸藩の府城の中で最も高い標高七百十七メートルに築かれて、高低差は百八十メートルという要害頑固な城なのである。  時は今よりも約八百年前、千百八十五年に源頼朝の重臣であった加藤景廉(かとうかげかど)がこの岩村の地に地頭に補せられ創設した。  それから鎌倉・室町、戦国、そして江戸、明治に入り廃域令で廃城されるまでの七百年間、連綿と存続していた歴史の古い城でもある。  今、城自体は存在せず、道の行く先々で見えるのは石垣しかない。  しかし、そこから歴史を感じ取ることができて私の目には壮大に聳え立つ古城とそこで働く人たちの姿が見えた。 「たしかにこれは『霧ヶ城』と呼ばれるだけあるな」 「ほんとの、ほんとの姿を見てみたかったものですね」  私とマスターの後ろで杖を突きながら歩く金次郎と、この中でだれよりも若いはずなのに一番息が上がっている童が感嘆していた。 「童はもう少し運動せねばならんな」 「もう少しで着くので頑張りましょう」  私も多少きつくなっていたが、同じアラサーのマスターは平然と、しかも笑顔を浮かべて上っている。 「マスターはきつくないのですか? とても普段はトレーニングなどしてないようですが」 「学生のころの話ですけどね、筋トレの一環としてよくここを上っていたんです」 「何をしていたんです?」 「ラグビーを中学、高校としていました」  ほう、と私は思わず言葉が漏れてしまった。道理で体格がいいわけだ。  少し道が開けてきて空がいつもより近く感じた。 「先ほどの友人もラグビーを?」  私の言葉が終わると同時に彼は立ち止った。 「彼は水泳部だったので違いますよ」  少しだけ口角を上げた顔で振り返ってそう言った。  なんとも寂しい顔であった。 「マスター、あの―」  私が言い終わらないうちに彼はくるりと進行方向へ振り向いて、また歩き始めた。  まだ時間はある、今日の夜にでも改めて聞いてみよう。  私はそのように考え直してまた空への階段を一歩進める。  やはりここは空気がおいしい、標高が高くなるほどより澄んでいく。  私たちは頂上に向けて一歩ずつ歩を進める。 『岩村城跡』  今は無きその地に木碑がしっかりと直立している。  私は思わず空を見上げた。  そこにはないはずの本丸が高く聳え立っていた。 「いやあ、やっと着いたー」  後ろで童が着いた途端に地べたに腰を下ろしていた。息は相当上がっているらしく、肩が大きく上下している。 「あまり見晴らしはよくないのだな」  タオルを首に巻いた金次郎がこちらに寄ってきた。  たしかに遠くに目をやってもその間を木々が遮っていてとても絶景とは呼べなかった。 「城の上からだと少しはきれいに見えたのではないか?」 「なるほどな、では今は見ることのない幻の景色か」 「そんなことないですよ、ここの少し上の―」 「上のところにすっごい景色が見られるところがあるから、案内するわ」  マスターの言葉に私たちとは異なる声がかぶさってきた。  私たちは反射的に声のする方へ振り返った。  そこにはエプロンを脱いだ姿のおばさんが立っていた。顔には背景のスカイブルーによく似合うさわやかな笑みを浮かべていた。 「母さん、どうして?」 「だってあそこ遠いでしょ、あそこまで歩いていくつもり?」 「たしかに、なんも考えていなかった」  この子は、とため息をつきながらもおばさんはどこか楽しそうだ。  おばさんの後をついていくとそこには車が数台停まっていた。  どうやら駐車場のようだ。  駐車場があるならここまで来るまで来たかったものだ。わざわざ運動というものをするまでもなかったのに、久しぶりに汗をかくほどの疲労感を覚えた。 「たまには無駄なことをするのもいいものよ。さあ、乗って」  おばさんは小さな黄色の軽自動車の運転席を開けて言った。  たしかに意気は上がっているが、高揚感がある。 無駄ではあったが、妙にすがすがしい気分でもあった。  おばさんが乗った後、マスターが助手席、その後ろに私たち三人が続いて車に乗った。 「どうしてこの順番で乗ったんだ? もう少し向こうにずれられないのか?」 「こっちもギリギリですよ」 「私なんか縦も横もキツいのだぞ。こうして両腕を出しているから君たちが乗れているのだ」  後部座席で私たちが揉めているのをマスターはバックミラーを見て微笑していた。 「気を付けて運転するわ」  同じバックミラーを見ているのにおばさんは不安そうな顔をしながらアクセルをゆっくり踏んだ。  車が像のように動き出した。 『農村景観日本一』  緑色で大きく書かれた看板の横にはブロックで作られた階段が上に見える櫓のような建物へと続いていた。  それ以外は首をどれだけめぐらせても建物らしきものはなかった。  私たちはおばさんの運転で岩村城跡よりもさらに北のここまでやってきた。  先ほどまでかいていた汗もいつの間にか引いていて、心地よい風が濡れたシャツを通しているのでかえって寒気を感じるほどであった。 「ここを上ったところが言ってたところよ。おばさんは車で待っているからみんなで行ってきなさい」  おばさんは階段の続く先を指さしてから再び車の中へ入っていった。 「ありがとうございます」  私たちは聞こえているかはわからないが、車の中にいるおばさんに向かって軽く頭を下げた。  おばさんは照れた様子で、手で追い払うようなしぐさをしていた。 「それじゃあ、行きましょうか」 「また上りですか」 「ほんの少しではないか、若人が何をひ弱なことを」  上を見てげんなりしている童にあきれながらも私たちは小さな階段を上っていった。  先ほども童に言ったように階段は短く、私たちはすぐに最終段に到達した。 「……」  着いてからの私は言葉と目を眼前に広がる景色に奪われてしまった。  一面に広がるのは岩村盆地の中には昔ながらの農村景観、そして周りには青々とした山々が二重・三重に連なっている。  ただそれだけであった。  しかし、周りを高層ビルで囲まれている東京で暮らしていた私にとっては異国にでも来たような景色であった。  耳に入ってくる音も東京とはまるで違った。  東京では自動車や踏切の音、そして多くの人が動いたり話したりする音が雑多に聞こえたが、ここは風の音とその風で木々がよれる音が染み渡るように私の耳にそよいでくる。  私は何もないこの景色が美しいと感じた。  櫓の屋根で薄暗いせいか、遠くの景色が輝いて見えた。 「これはすごいですね」 「本来の日本だな」  二人の声がいつもより浮いている気がした。金次郎たちもこの景色に魅了されているのだろう。  私はふと櫓の柱についているパネルのようなものへと視線が移った。 『故郷』とパネルには書かれており、その横に三節に分かれた詩が書かれていた。 「これはあの『故郷』ですか?」 「そうですよ。この景色を見るとなんだか歌いたくなりませんか?」  私は再び農村の風景に目を向ける。 「たしかに。でも、恥ずかしながら私は一番しか知らない。この歌に続きがあったとは」 「僕も知らなかったです」  童は横で一番のリズムにのせて次の詩を歌として口ずさんでいる。音程が微妙にずれているのが気になるが、私は初めて聞く歌詞が懐かしく聞こえた。 「童はともかくぽっぽも知らんとは。意外と君も現代の子だな」 「わたしは平成生まれだから無論現代の者と言える」  私は淡々と答えた。  すると、童の歌声に合わせて波のような声が重なった。  私はその声の方に首を巡らせると、マスターが壁に手を置いて『故郷』を歌っていた。  その声は低く力強いが、よく通り、奥に見える山の葉が乗せられるようにゆさゆさと左右に揺れていた。 「マスターは歌が上手なんですね」  歌い終わったマスターに私は声をかけた。 「好きではありますけどね」 「いや、マスターの歌声は響くものがあるのだ」  謙遜するマスターに金次郎はバシバシと肩をたたく。  たしかに、マスターの歌は山だけではなく私の心を揺らがせてきた。  私は大きく息を吸い込んで稜線を眺めた。  マスターの歌声で目に映る風景がなんだか寂しく見えてきた。  先ほどの金次郎の言葉が耳の中で反芻していた。私は本来の日本の風景を初めてこの目で見て美しいと思った。それは私にとっての日本はこの風景とはまるで違うこと表している。  本来の日本を知らずに日本人と名乗っていることが恥ずかしく思えた。 「この人って結局故郷には帰れたんですかね?」 「どういうことだ?」  私の言葉に振り返った童が三番の歌詞を指さした。 「だってここに書いてますよ」 『いつの日にか 帰らん』  童の細い指が文字をゆるりとなぞった。 「それは分かりかねますな。その上の『こころざしを果たして』をできていたら帰ったんじゃないですかね? どっちにしろ私たちがいくら考えても想像までです」  まるで誰かに語っているようでもあり、独り言にも聞こえる。  マスターの言葉は空の彼方に放たれた。  私はその言葉を追うように空を見る。時刻は六時を過ぎたところで空はほんのり茜色に染まってきたが、まだ上の方は水色に色づいている。  いつの間に日が出ている時間が長くなっていることに気づいた。  その空下に広がっている景色も顔を変えている。先ほどまで青々としていた山々が少しだけ紅潮している。 「そろそろ帰りますか。今日はうちでゆっくりしていってください」  マスターはくるりと階段の方を振り返ってそのまま階段を降り始めた。 私には恰幅のいい彼の背中が妙に小さく見えた。  私は卓上に置いてあるグラスを持って傾ける。その途端口中がリンゴの香りに包まれて酸味がすっと喉を抜けていく。 「飲みやすいでしょう」  私の向かいにいるマスターが同じようにグラスを傾けていた。 「これは『女城主 純米吟醸』です。ここ岩村のお酒でこのラベルの女性は織田信長の叔母に当るおつやの方という人です。女城主と言う通り、今日私たちが上った岩村城の城主です」 「あの信長の叔母がこんなところに住んでいたとは。世の中はまだまだ知らないことばかりですね」 「世の中の五パーセントですもんね」  マスターが微笑しながら童の言葉を引用した。 「その五パーセントのうちにあるこの銘酒を知らずにいる者はかわいそうです」  私はそう言ってマスターの奥にある布団を見やる。そこには布団からはみ出している金次郎と先ほどからうなされている童が横になっていた。  どちらも豪快にいびきをかいていて起きる気配は微塵もない。  二人ともお風呂から出てくるや否や布団にダイブしてそのまま海底まで行ってしまったらしい。私も瞼が重くなっていたが、風呂から上がるとなぜだか目が覚めてしまった。そのため、こうしてマスターと二人で酒を交わしているのである。  ここの夜は異常なほど静かであった。自動車の音も聞こえなければ人の声も聞こえなかった。  夜がこんなに静かで安らかなものだと私は初めて知った。 「さすがに疲れましたね。ぽっぽも寝たかったらどうぞ遠慮なく」  脹脛をほぐしながらマスターも首だけ振り返って寝ている二人を見ている。  私も浴室の中で自分の脹脛を触ってみたら跳ね返るほど固くなっていた。まだ二十代とはいえ、老いにはかなわないようだ。 「こんな酒を目にして途中でやめるわけにもいきません。ましてやあの海賊笑いが聞こえない酒宴も貴重なので。あの豪快の笑いの代わりに同程度のいびきが聞こえるので大した差はないかもしれませんが」 「たしかに、いつものもにぎやかで楽しいですが、こうして二人で飲むのもなかなかいいものです」  わたしたちは微笑してグラスを合わせた。かちりという音とともに中の透明な液体が左右に清らかに揺れる。 「しかし、二人というのも静かすぎますね」  不意にマスターが頭をポリポリ掻きながら言った。 「それもそうですね。誰か友人はこちらにいないのですか?」 「友人ですか。でも、ぽっぽは気まずくなりませんか?」 「マスターは私の何を見ていたのだ。酒を一度酌み交わせばその人は私にとって友となる」  マスターは笑声を上げて「参りました」と頭を下げる。 「そうだ、今日の昼にマスターの店に来た元水泳部の彼はどうですか」  私の言葉を皮切りに先ほどまで暖かな和室に寒気が襲ってきた。  私はしまったと思ったがもう言ってしまったことはどうしようもない。彼の返答を待つことに徹するのみだ。  しばらく沈思していたマスターが寂しい眼で口を開いた。 「彼は誘っても来ないと思いますよ」  彼は苦笑して自分のグラスに酒を注ごうと手を瓶に伸ばす。 「どうしてそう思う?」  マスターが手に取る前に私が瓶をとり、マスターのグラスに注ぐ。  とくとくとく  心地良い音を奏でながらグラスに透明な酒が注がれる。 「彼が私に合わせる顔がないと思っているんですよ」  すみませんと言ってマスターは酒を干す。 「私が飲食を目指したのは彼の影響なんです」  マスターがぼそりとつぶやいた。  私は昼に見た友人の顔を思い出したが、とても料理人という感じではなかった記憶がある。  マスターはポリポリと頭を掻いて語を継いだ。 「私は元々料理なんてできなくて、中学生まで包丁を握ったことすらありませんでした」 「めし処の息子とは思えないですね」  私はどれだけ想像しても料理ができないマスターを思い浮かべることはできなかった。頭に出てくるのは見事な包丁さばきを披露している笑顔のマスターだ。 「だからこそなのかもしれません。いつも親の働いているところを見ていたので自分は違うことをしたかったんだと思います」 「若いですね」 「中学生ですからね。でも今日の友人、哲と関わるようになって私の世界は一変しました」  マスターは卓上に置いていた枝豆を一つ手に取った。  私も黙ってグラスを空ける。 「中二になったときでした。クラス替えで私の隣の席になったのが哲でした。小学生の時も何度かクラスが同じになったときもあったんですけど遊ぶほどの仲ではありませんでした。でも、この時はなぜだか波長があって私たちはただのクラスメイトから親友と呼ぶ仲に変わりました」  私は中学生のマスターを想像した。私の脳内にはいつも通り気配りの利く少年がクラスの和の中に入っている絵が見えた。 「彼はどういう男なのですか?」 「優しい奴でしたよ。女子とか男子とかとも気さくに話してましたし、正直男子があまり話さないような静かな女子とも壁なく会話をしていましたね」  私の思い浮かんだ少年はマスターではなく、哲少年であった。 「私は人の好き嫌いがあったので、誰とでも話せる彼が密かに憧れでした」  マスターの頬が酒のせいか少しだけ紅潮していた。 「今のマスターの所作は彼から学んだのですね」 「所作だけではなく、料理も教えてもらいました」  マスターは柔らかな笑みを浮かべながら『小左衛門 信濃錦』をグラスに入れる。 「家庭科の調理実習の時に彼の包丁さばきを見て驚きました。いつも親を見ていたのに、彼は全く別の生き物のように滑らかで豪傑な動きで切っていました」 「彼は料理人の息子か何かですか?」 「ただの農家の子です」 「それはすごい」  私も『小左衛門』を頂きながら感嘆の声を上げる。当方の中学生時代を思い浮かべても料理をした記憶がまるでなかった。  それはつまり、したことがなかったということだ。  しかし、世の男性はそのようなものであろう。  とにかく私が言いたいのはそれほど哲少年が珍しいということだ。 「私が料理を教えてくれと願い出たら、彼は二つ返事で了解してくれました。それからよく二人で家の厨房を使って練習していましたよ」 「体格のいい二人がいたら身動きがとりづらそうですね」  軽やかな笑い声をあげてマスターは酒を注ぐ。今宵はゆっくりと時が過ぎるような夜だが、酒のペースは速いようだ。 「確かに高校生になって互いに部活動に力を入れていたので、さらに体は大きくなってましたね。忙しくなっても私たちは料理の勉強を怠ることをしませんでした」  マスターはグラスになみなみと注がれた酒を一気に飲み干す。 「その頃に私たちは約束をしたんですよ」 「約束?」  彼は空になったグラスを卓上に置いて窓外を眺めた。今日はきれいな上弦の月が煌々と輝いていた。  空の光を全部集めたようだ。 「いつか、いつの日か二人で世界中の人がおいしいと言ってくれるものを作ってやろうって」 「思い切ったものですね」 「若気の至りですよ」  恐縮そうに手を顔の前で左右に振っているが、奥に見える顔がうれしそうだ。 「それでも私たちは本気で夢見て、そこに向かって日々修行に励んでいました。高校を卒業してからも私たちは同じ長野の調理の専門学校で腕を磨いたんですけど、どれだけやってもあいつには敵いませんでした」 「それなのにマスターは嬉しそうですね」  マスターは先ほどから変わらず柔らかい笑みを見せていた。 「嫉妬をしなかったと言えば嘘になりますが、それと同じくらいに期待していました。私はすごい相棒と出会ったなって。彼と見る景色はどんな絶景なのだろうと期待していました」  懐かしむマスターを見つめながら私はある違和感を覚えた。先ほどからマスターの話す語尾がすべて過去形であることだ。 「彼は料理人にならなかったのですか?」  先ほどまで穏やかな光を宿していたマスターの目が一瞬細くなった。  ひと時の間をおいてマスターはゆっくりと語りだした。 「あれは専門学校の卒業を控えていた三月の初めでした。私は浅草の老舗の料亭に、哲は東京の有名なホテルに就職することが決まっていた。私たちはそれぞれの道で腕を磨いて、将来は自分たちの店を開こうと言っていました。あの時の私たちには夢と希望しか見えていませんでした」  しかし、と言ったマスターの声は冷たく部屋に響いた。 「卒業式直前で哲の携帯電話に岩村から一本の着信がかかってきました。相手は哲の祖母で、話しているうちに血の気が引いていく彼の顔を今でも覚えています。それだけで地元で緊急事態だということは容易にわかりました」 「何があったのですか?」  私の顔もいつの間にか酔いがさめたらしく、寒気まで出てきた。 「彼の父親が突然倒れたという連絡でした。彼の両親は小さい頃に離婚していて、父親がひとりで畑を耕して哲と祖父母を養っていたんです。その大黒柱が倒れたということはその家がいつ倒壊してもおかしくないということです」  私は黙ってマスターの次の言葉を待っていた。 「彼はすぐに岩村に帰り、それから戻ってくることはありませんでした」  低く重たい言葉が室内に寂しく響いた。  哲さんやマスターの心境はどのようなものだったのか、私には計りかねる。  今まで気にしていなかった時計の音がやけに大きく聞こえてくる。 「私は上京してから必死に修行しました。師匠にも店の人にも散々怒られた時期もありましたが私はあきらめませんでした。彼が戻ってくることを期待してましたから」  マスターはグラスの縁を指でなぞりながら苦笑いを浮かべて私を見た。 「まあ、一度戻るとなかなか出るのは難しいですよね。そんな彼を密かに待ち続けたのは意味のないことだったのかもしれません」  顔は笑っているものの、そこからは楽しさは全く感じられない。  にじみ出ているのは哀愁しかなかった。  私はなんと返したらいいかわからず、とりあえず彼のグラスに酌をする。当事者でない私が口をはさむことではないと思った。マスターも哲さんも立派な中年で大人である。若輩者の私がどうこうできることではないと悟ったのだ。 「いただきます」  マスターは先ほど私が注いだ酒を一息に飲み干す。 「飲みやすいはずなんですけどね」  頬をポリポリと掻くマスターは苦く口角を上げる。  私はその顔を忘れることはできないだろうと思った。  相変わらず早起きである。  体は昨日ので鉛のように重い。学生の頃、部活の合宿で同じような感覚をしたなと天井を眺めながら思い出していた。  それでも目はすっかり冴えており、二度寝ができる気がしない。  私の脳はどこまで自分を痛めつければ気がすむのだろうか。  心と体がちぐはぐのままのそりと起き上がると、まだ三人は隣で寝息を立てている。  当然のことである。 時刻を確認すればまだ六時を少し過ぎたころだ。 大きく欠伸をしていると窓の方から微かに音が聞こえる。 私は息を吐くとともに立ち上がり、音をたてぬようにふすまを開けた。 窓から聞こえていた正体は雨であった。 昨日のきれいな夜の空とは一変して、今日の空は厚い灰色の雲が一面に広がっていた。そこから地面に向かって幾千もの粒がまっすぐ落ちてくる。 これが流れ星ならどんな願い事をしようか。 そのような幼稚な妄想をしながら私は外を少し散歩することにした。 私は雨が嫌いだが、こうして耳を澄ますと小気味よく傘に当る雨音は意外と気持ちのいいものだ。 誰も通っていない道を私はぶらぶらと歩く。青天の城下町も見事であったが、雨空の下に広がる城下町もなかなかである。木造の壁は雨で所々こげ茶色に濃く染まっており、上方に見える山々も灰色に霞んでおり、昨日とはまるで異なる顔を見せている。 こういう情景を「いとをかし」というのだろう。 歩くたびに足にかかる雨を気にせずてくてく歩いていると向こうから一台の車がこちらに向かってくる。 ここで車が動いているのは「いとをかし」な城下町とどうしてもそぐわない。 その近づいてくる車のライトが眩しく、私は立ち止り目を細める。 すると近づいてきた車のエンジン音が急におとなしくなった。 まだ光り輝くライトに苦戦しながら前方を見ると車がカチカチと音を鳴らしながら停まっていた。 そして、その車から出てきた人物に私は軽く驚いた。 「昨日、恒ちゃんのところにいた……」  傘もささずに出てきた哲さんに私は黙礼する。それに応じて彼は私につむじを見せるように頭を下げる。 私の方が年は下なのだがそこまで中年に見えるだろうか。確かに髭はまばらに伸びてはいたが、私は自分のことをぎりぎりお兄さんと思っていた。しかし、私もとうとうおじさんの仲間入りをしてしまったのかもしれない。 肩を落としながらも哲さんのもとに駆け寄って傘の中に入れようとする。 しかし彼は顔の前で手を左右に振りながら入りかかった傘から離れる。 「大丈夫ですよ。雨に打たれるのなんか慣れてますし」  びしょ濡れの哲さんはからりとした笑顔を私に向けている。それは雨に打たれている人の表情ではなかった。 「朝早いんですね」 「農家に朝早いとか、雨とか関係ないですからね。何ならここの所全然降ってなかったからよかったです。野菜たちが喜んでいる」  哲さんは空を見上げていた。野菜もそうだがこの人も実にうれしそうに目尻に皺を作っている。  私は雨を喜んでいる人に初めて出会った。  私なんか雨さえ降れば気分が上がらないとともに片頭痛まで襲ってくる。今もズキズキと脳をえぐってくる痛みがあるが、これが片頭痛か酒によるものなのかわからない。  とにもかくにも目の前にいる哲さんは私の嫌いな雨を歓迎している。  立派な農家だ。  それとともにその姿が悲しく見える。 「料理の道へはもう歩まないのですか?」  考えるよりも先に言葉がすらすらと出てきた。 私の悪い癖だ。しかし、昨日のマスターの話を聞いてしまってはどの角度から見ても彼の農家姿に違和感を覚えずにはいられない。 気のせいか、先ほどよりも雨脚が強くなったようだ。地面を打つ音が鼓膜まではじけるように聞こえてくる。 目の前の哲さんから皺が消えていた。その代わりに寂しい眼を私に向けてきた。 「恒ちゃん、何か言ってました?」  苦々しい笑顔を浮かべて訊いてきた。先ほど自然の恵みを受けていた彼だが、今は後ろに見えている灰色の空に飲み込まれそうだ。 「哲さんがマスターよりも料理の腕が立ち、マスターの憧れであることを聞きました」  彼の力ない笑い声が雨音にかき消されそうに響く。 「憧れなんて、恒ちゃんもオーバーに言いますね。彼の方こそ私の憧れでした。ずっとその道だけを進んでいくと本当にこの道でいいのか迷う時ってありません? 僕は専門に通っていた時、そんな風に考えていました。でも、恒ちゃんはその道を自信持って歩くんです。心から楽しそうに足を目に出すんですよ。あれはうらやましかったですね」  哲さんが懐かしみながら話すのを私は呆れながら聞いていた。  くるりと来た道を振り返り、私はマスターの家へと歩いた。早速言ってやりたいが、今は我慢である、お節介と分かっていながらもこの二人を見ているとなんともすっきりしない。  頭痛もつられて痛みを増すが、平然と歩く。  そして顔だけ振り返った。雨の中、突然帰ろうとする私を哲さんは不思議そうに見ている。そこから動こうとする意志は見えない。  私は小さくため息をついて「ついてきてください」と言って、また来た道を歩き出す。  数秒の間を後に後ろからぴしゃりとこちらに来る音が聞こえる。  私は振り返らぬまま『めし処 飯田』の看板を目指して歩を速めた。    引き違い戸を開けて中に入るとマスターがカウンターの椅子に座ってお茶をすすっていた。  扉の開く音に反応してこちらを向いた顔はお酒と眠気で目がほとんど開いていなかった。 「ぽっぽはほんとに早起きですね」  瞬きをしていたマスターだが、急に眼を開かせて驚きの表情をしていた。  後ろに人の気配を感じる。その人が誰かなのかはわかるので振り返らない。 「あの、ちょっと、どうして」  哲さんの声が状況を理解していないようである。彼以上にこの状況を理解していない人が目の前にいる。 マスターは固まったまま私の後ろ一点を見つめている。  しばしの沈黙を破るように奥からのしのしとひょろ長い男が現れた。 「おお、昨日の」  どうやって寝たらそんな髪型になるかわからない頭をぼりぼりと掻いて金次郎はどしりと椅子に腰を落とす。 「だから今日は雨なのか」 「どうしたぽっぽ」 何でもないと言いながら私も近くの椅子に腰を下ろす。いつも昼過ぎになっても起きないこの男がこの旅ではやけに早い起床である。雨の一つや二つ降るのはもっともな話だ。 「これはどういうことですか?」  マスターがこちらに問いかけている。金次郎のせいで二人のことをすっかりと忘れていた。 「どうもこうもです。三十路の男二人が相手のいないところで褒め合っているのがすこぶる気持ち悪くなったのでこうして連れてきた次第です」  訴えるように二人を交互に見て言葉を投げかけた。言われた二人は呆気に取られている。金次郎は聞こえないふりをして呑気に大きな欠伸をしている。 「ストレートに言いますね」  苦笑を浮かべてマスターは私を見つめている。いつもの暖かな眼差しではなく、瞳の奥に鋭利な刃物のようなものが見える気がした。 その刃がまっすぐ私の目を突き刺している。  口には出さぬがマスターは怒っている。  普段は優しいからそこまで感じないが、体格の良さも影響して、今はマスターから出てる威圧感で椅子からのけぞりそうだ。  それでも私は身を引くことなく語を継いだ。 「ええ、ストレートです。マスターも哲さんも私に話したことをストレートに相手に伝えればいいだけなのです」  二人はゆっくりとお互いに視線を送った。その場を二人の空間にするように金次郎のいる席へと移動した。  隣にいる金次郎はどこを見ているのか斜め上の壁をじっと眺めていた。彼の横顔を覗くと、意識がどこかへ飛んでいるようなうつろな目であった。  どうせ眠いのだろう。どこまでも呑気な男だ。 「もう一度、やらないか?」  しばしの沈黙を破ったのはマスターであった。言葉を一つ一つ選んでいるような声であった。 「俺はもうできないよ」  対して哲さんの声は吹っ切れた感じがした。 「どうしてそう思うんだ? 哲のおじいさんが三年前に亡くなったのはお袋から聞いて知っている。もうここにいる必要もないだろう?」  私の知らない情報だった。哲さんは祖父母のこともあり帰郷したと聞いていた。喜ぶことではないが、マスターの言うとおりここに縛られる必要はなくなっているのだ。 「まあそうなんだけどね、それでも俺農家だし。あの土地は守らなければなって。それに岩村も好きだし、動く理由がないよ」  哲さんは揺るがない心を持っているようだ。流れるように言葉が出てくる。 「だから、恒ちゃんはがんばって――」 「夢を忘れたのか?」  強めの口調でマスターがかぶせてきた。  先ほどまで固まっていた哲さんの心に熱が加わった。一瞬目が見開いて、眉がピクリと動いた。  明らかに動揺していた。 「夢はあきらめるのか?」  覆いかぶさるようにマスターは言葉を投げかける。 「逃げるなよ」 「でも、俺はもう十年以上まともに包丁を握っていない。そんな俺が世界を驚かせるなんて、一生できないよ」 「それはそうだ」  マスターの言葉に思わず「え?」と哲さんの声が店内に漏れた。  マスターは腕を組んで語を継ぐ。 「急に俺と肩を並べようなんて往生際が悪すぎるぞ。俺だってまだまだ半人前なんだから、お前なんかまだまだだ」 「だから無理なんだよ」  諭すように哲さんはささやいた。自分の気持ちを無理やり押し殺すようで聞いてて苦しい。 「それなら俺のところで学べばいいじゃないか」  何かを言いたそうな哲さんに話す隙を与えないように、マスターは再び口を開く。 「俺のところでみっちり修行すればいい。確かに十何年は決して短くはないブランクだ」  でも、と一拍置いてマスターは深呼吸をした。逞しい背中が大きく上下した。 「でも、俺は哲を信じている。必ず最高の料理人になれると信じているし、いつまでも待っている」  まっすぐな言葉であった。まっすぐで、温かい言葉であった。 「でも、今の生活もあるし……」  哲さんは言葉をなくして俯いた。  潤んでいる眼や震えている唇から哲さんの葛藤がうかがえる。彼の心は今、揺れて壊れそうなのだ。 「現実が夢を壊すことがある。それなら、夢で現実を壊すこともできるはずだろ?」  顔を上げた哲さんの顔にはハテナが張り付いていた。私も同様の顔をしているのだろう。 「ジョージ・ムーアかね?」  耳元に久しぶりに彼の声が聞こえたので、反射的に横を振り向く。  そこには頬杖をついてにやにやした笑みを浮かべている金次郎がマスターを見ていた。 「ええ、そうですよ」 「まさかマスターがジョージ・ムーアを知っているとは」 「以前先生が話していたではありませんか。お客の話題に乗ることも仕事の一つでしてね」  先ほどまでの重たい空気と打って変わっていつもの優しいまなざしをこちらに向けていた。 「今にぴったりな言葉だな」 「勉強することばかりです」  にこやかに口角を上げて、マスターは再び哲さんの方へ首をめぐらす。 「もう俺たちも三十路だ。十代の時とは違うのかもしれない。それでも、夢を追うのはいくつになってもいいじゃないか」  マスターの言葉を皮切りに哲さんの瞳から一筋の涙がこぼれた。一筋流れると、その筋をまた一つの涙が零れ落ちる。  マスターもつらい思いをしたのだろうが、何より哲さんもこれまで我慢して生きてきたのだとその時分かった。二十歳の男が急に家の農業と祖父母の生活を任せられるのだ。責任の重圧は私たちには計り知れないものだろう。  私の前にいるマスターも顔に手を当てているしぐさをしている。後ろ姿なので確実ではないが、彼もまた長年の思いから解かれたのだろう。 「何年かかるかわからないよ……」 「うん」 「すぐには行けないよ……」 「わかっている」  強く頷いたマスターを見つめて、今度は哲さんが深く頭を下げた。 「ありがとう、恒ちゃん」 「こちらこそ」  二人の鼻をすする音が染み渡る。そして気恥ずかしいのかどちらからとなく笑声を出した。顔から無駄な力が取れた少年のような笑顔であった。  私の目に映る二人は三十路のおじさんではなく、夢を共に掲げた若き日の青年たちであった。 「ありがとうございました」  直球で届く言葉が聞こえたので声のする方を見ると、哲さんが私に向かって深く頭を下げていた。 「私は何もお礼をされることをした覚えはありませんよ」 「それなら勝手に言わせてください」  彼は再び「ありがとうございます」と私に告げた。顔を上げたときの彼の顔は実に晴れ晴れしていた。 「なんかおなか減らないか?」  横で自分の腹をさすっている金次郎の声で私は時計を見やった。ここに着いてから一時間ほどの時間が過ぎていた。  せっかく感動的な場面だったのに気の利かないやつだ。  気が利かなく、自然な流れであった。 「あ、もうこんな時間ですね。何か作りますよ」  マスターは一瞬にして料理人の顔になり厨房に歩み寄る。 「哲も一緒に食べるか?」  哲さんは顔を左右に振り、出口の方に行く。 「まだ俺は農家だから、仕事はきちんとしないとね」  そうか、と答えるマスターに哲さんは微笑している。 「それじゃあ、またね。恒ちゃん」 「またな、哲」   哲さんは私たちの方に軽く会釈をして、扉の向こうに消えていった。  厨房では早速マスターが目玉焼きを焼いている最中であった。フライパンの中でぐつぐつと煮立つ音とほのかに香る朝のにおいにそそられて、私のおなかも空腹を訴え始めてきた。 「それにしても強引な奴だな」  金次郎の視線を感じて私は額に手を当てる。 「君に言われることではない」 「ほんとにぽっぽの行動には驚かされます」  調理をしながらマスターが私に苦笑を向ける。 「昨日の銘酒の酔いがまださめていないのかもしれません」  マスターは高らかに笑声を出して、横に座っている金次郎は目を見開いてこちらを覗いてきた。 「銘酒とはどういうことか?」  私とマスターはお互い見合って微笑むばかりだ。  さらに質問してくる金次郎を私は全く無視した。彼はしびれを切らして、今度はマスターに同じことを聞く。 「先生のいびきを聞きながら飲む酒はなんだか申し訳なかったですね」  そういいながらもマスターは楽しそうだ。  それを聞いて、金次郎は大げさにため息を漏らす。  先ほどまで張りつめていた空気が嘘のように、ごく自然な空間がここに存在していた。 「まま、これで許してください」  そう言って目の前に出されたのは紺色のマグカップであった。中には茶色の液体がゆらりと左右に揺れており、そこから心を落ち着かせるにおいがふわりと昇ってくる。 「これが銘酒か?」 「ときには酒以外もいいですよ」  金次郎はまだ納得していない様子でゆっくりとカップに口をつける。彼の喉仏が三回上下した。 「これはこれで美味だ」  さぞ気にった様子であった。  私も一口すすって感嘆の声を洩らす。コーヒーはどろっとして非常に濃い仕上がりになっており、目覚めの一杯に格別であった。  私たちがコーヒーを味わっている静寂なひと時に、突如せわしない音が聞こえてきた。  驚倒して、のけぞりながら音のする方を見ればそこにははいつくばってこちらに向かってくる童の姿があった。 「どうしたのだ?」 「いや…… 起きた瞬間に足をつってしまって」  童の足を見ると確かに脹脛にこぶができていた。 「どれどれ」  不敵な笑みを浮かべた金次郎が童に近寄る。 「ちょっと、近寄らないでくださいよ」 「治してやろうと思っているのだ。そのままではどうしようもないであろう」 「それならぽっぽかマスターにお願いしたいです」  童は手の力だけで必死に後退するが、すぐに金次郎に捕まってしまう。 「あいにくマスターは朝食の支度を、ぽっぽは朝のコーヒータイム中だ。空いているのは私だけなのだ」  その後も何度か攻防を繰り返していたが、四肢の半分が機能していない童が劣勢なのは見ていなくともわかることだ。 「うぇあああああ!」  とうとうのっぽに足を固定された童が雄叫びのような叫び声をあげた。  私は耳を塞ぐ。そうでもしないと鼓膜が張り裂けそうだ。  それを面白がっている金次郎がまた脹脛を伸ばす。そして童が叫ぶ。  もはや童は金次郎のおもちゃと化していた。 「できましたよ」  マスターの絶妙なタイミングで私の鼓膜は死守された。  カウンターには目玉焼きのほかにご飯、味噌汁、そして大根の漬物が並んでいた。  いつの間に作ったのだろう。さすがマスターである。  先ほどまでじゃれていた二人もカウンターの席に座り、私たちは手を合わせる。 「それじゃあ、いただきます」  外ではまだ雨音が激しくなっていた。  しかし、私の心中はすがすがしいものであった。  今日という新しい一日が始まっていた。
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