福神漬け

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福神漬け

 午後九時、私たちは博多駅にいた。 さすが九州への玄関口、さらに福岡空港とは地下鉄でわずか二駅という利便性もあり、多くの人が左右へと忙しなく向かってくる対向者をうまく避けて歩いている。  私の勝手な想像で博多駅はてっきりラーメンのにおいがするのかと思えば、漂ってきたのは癖のあるとんこつのにおいではなく、なにやら甘く芳ばしい香りであった。  新幹線中央口を出た私たちはにおいのする漆黒のタイルから純白のタイルの貼られている中央へ向かった。  私が目を細めてみると、ごった返している構内の中央で長蛇の列を見つけた。行列のそばまで行けばスーツ姿の男性や若者のカップル、そしてご婦人たちなど実に雑多な人たちがきちんと前の人に続いて並んでいた。  私たちはその光景にもそうだが、においの正体に驚いた。  硝子の向こう側で光り輝いているのは大量のクロワッサンであった。どこにでもあるパンにここまで引き寄せられたのだ。 「クロワッサンが有名なんて知らなかった」  私は自然と言葉を洩らしていた。  横の三人も頷いているばかりであった。 「これは食べないと損な気もしますね。酒の前に少し腹ごしらえでもしましょう」  鼻の穴を開いて、できるだけにおいを取り込もうとしているマスターの明るい声が聞こえた。 「それもそうだな。このままだと美味い酒を戻しかねない」  すでに列の中に入っている金次郎が意気揚々と答えた。  そういえば、名古屋からの新幹線で私たちは何も食せずにここまで来たのだ。さすがにこのまま酒を飲むのは酒にも、そして私の身体も喜ばない。  そうして私たちは列の中で待つことにした。行列ではあったが回転は速いらしくそこまで待つことなく会計へと進んだ。  クロワッサンを買い終えた私たちは筑紫口へと向かった。筑紫口を出るとタクシー乗り場らしく黒光りしたタクシーが何台も止まっていた。その前には待ち合わせをしている者やすでに顔を赤らめて上機嫌な者もいた。  私たちは端により先ほど買ったクロワッサンを食べることとした。お店には三種類あり私と童はプレーン、マスターはさつまいも、そして金次郎はチョコを買っていた。  私は一口食べて、涎が口中から分泌したのを感じた。初めは人気といっても所詮はただのパンだと軽視していた。  味は王道の普通のクロワッサンなのだが、ほのかな甘さと皮と中身の触感の違いが見事で、食べただけで胃が喜んでいるのが分かった。 「やっぱり福岡は食べ物の宝庫ですね」 「チョコも中からとろりと溶けてきて美味だ」 「これはもはやスイーツですな」  唇や周りに皮やチョコをつけた男たちが感嘆していた。  思わぬ主役に私たちはしばし余韻に浸っていた。 「そういえば、今日の店ってここらへんなんですか」  ティッシュで口を拭いていた童がマスターに尋ねた。 「すぐそばですよ。やはりここもお酒の生産が盛んなところですからね。期待していてください」  頼れるマスターの笑みに私たちの顔も自然と口角が上がってしまう。  涼しく心地よい風が吹いている中、私たち一行は次なる美酒を求めて歩き出した。 店内はモダンな雰囲気に包まれていた。 店構えは多少敷居が高そうな気がしたが、個室から大人数用のテーブル、カウンターなどがあり若い客もちらほらと見えていた。 マスターが店員と少し話して私たちは個室へ案内された。どうやらマスターの友人の店らしく、店長直々に私たちのところまで来て挨拶をしてくれた。 マスターと同じアパートの住人でよかったと改めて感じた。 注文もマスターが手際よくやってくれたので私は特にすることがなく、おしぼりで必要以上に手を拭いていた。 そういえば、と向かいに座っていた童が口を開いた。 「先生のご実家はここらへんなのですか?」 「私の実家なんぞもうとっくになくなっておるぞ」  隣に座っていた金次郎が当たり前のように話した。  私とマスターは反射的に金次郎の方へ顔を動かしたものの、口は驚きのあまり開いただけで声を発することはできなかった。童に至っては手前にある呼び鈴を誤って押したせいで店内にさわやかな音が響いた。 「ご注文でしょうか」 凍り付いている場に先ほどの店員が酒を持ってきていた。彼のおかげで凍結を回避した私が頭を左右に振ってこたえた。 未だ固まったままの二人は大好きな酒が着いたにもかかわらず、視線を金次郎に向けたまま口をあんぐり開けていた。 その間抜けな視線を向けられている金次郎はすっと細い腕を伸ばして四つのグラスに酒を注ぎ、我々の手前にそのグラスを置いた。 「金次郎、どういうことだ?」  唯一会話ができる私が金次郎へ問う。 「とりあえず乾杯だ」  私の問いとは異なる言葉を発した金次郎はだれも手に取らないグラスにかちりと一人でグラスを合わせた。 「きちんと説明してもらわんとこちらも困る」  私がグラスを手に取り再び話題を戻した。 「言葉の通りだ。私の実家はとうにこの地からなくなっている。当然のことだ。私の両親はとうにこの世から去っているのだから家だけあっても仕方があるまい。しかし安心したまえぽっぽ、この近くのホテルをちゃんと予約してあるぞ」  平然と酒を飲む金次郎が訳を話した。確かに一つの事は解決したが、私には新たな疑問が浮かんだ。 「それではなぜ来たのだ、と言いたげだな」  少しだけ苦笑して、金次郎はほかの二人に酒を持たせる。やっと我に返った二人はとりあえず酒を一口飲んだ。 「そうだ。それならなぜここに来たのだ?」  私は酒には手を付けずに彼の表情をうかがっていた。貴重な美酒を飲むのはすべて解決してからだ。  そっとグラスを老いた金次郎の顔は予想していたよりも清々しいものだった。 「行きたいところがあるのだ」  それだけ言って彼はまた一口酒を含ませる。 「お待たせいたしました」  店員が突如大きな鍋をテーブルの中央に置いた。 「ささ、童もマスターもぼおっとしてないで食べようではないか」  この声に反応したように二人は取り皿に具を盛り付ける。まるで金次郎の言葉を認識するロボットのようであった。  金次郎も普段と変わらない様子で野菜を口に目一杯入れて「美味い!」と豪語しながら海賊笑いを繰り出していた。  非常に気になるが、これ以上聞いてもまともに答えてくれなさそうなので、私は手に持ったすでにぬるくなってしまった酒を一気に口に放り込んだ。 酒は驚くほどすっきりとしていた。そして後からきりりとした辛みが舌を走る。 食事とともにするのに最適な美酒であった。 「これは『田中六五』というお酒でしてね、精米歩合が六十五パーセントの純米酒です」  マスターの説明に喉が唸るのが聞こえた。精米歩合の割合に対しては相当あっさりとしたのど越しであったからだ。  実に酒とは様々な顔を以って私たち愛酒者を楽しませてくれる。 「鍋もおいしいですよ!」  目を輝かせた童がこちらを向いていた。  鍋の中身は鶏肉と多種な野菜というシンプルなものであった。  私は水炊きを食べるのは初めてで、机の上で出汁かタレがないかを探していた。 「水炊きはそのまま食べてください」  微笑しながらマスターが教えてくれた。  私は言われるがまま取り皿に具を盛り、口に入れた。  具材そのままの味なのだが、なぜか私の腹と心を温かく包んでくれた。  自然の味が体中に染み渡っていた。 「美味いだろう、ぽっぽ。ポン酢を少しつけても格別な美味さになる。私なんか上京するまで鍋のスープに味がついているなんて信じられなかったものだ」  金次郎は嬉しそうに言って、また一口食べていた。  確かに素材のみでここまで味や風味が染み渡ることを私は知らなかった。普通、鍋は出汁を選ぶところから始まると思っていた既成概念が簡単に崩れた。  私の箸が止まっているのに皆がほほ笑んでいた。  私たちは和やかな雰囲気のまま酒を交わして箸をつついた。  久しぶりに穏やかな酒宴であった。   翌朝は雲一つない快晴であった。 カーテン越しから一筋の光が壁まで届いている。その光線の間でほこりがゆらりゆらりと動いている。 よく見る光景だが、私はなぜかこれを見ると目が離せず、じっと見つめてしまう。埃は落ちているのか上昇しているのか、はたまた停滞しているのかわからないほど不思議な動きをしている。 昨夜は少々飲みすぎたのかもしれない。脳が揺れて痛みの信号を出していた。 頭痛のする頭を起こして時計を見ればまだ七時半であった。 今日の予定は昨夜話していた金次郎の行きたい場所へ行くことであった。昨日の表情から特別暗い内容ではないと思うが、この旅に慢心は禁物である。 ここまでも普通に旅行できた場所がないのだ。今回もそう簡単にはいかせてくれないだろう。 私は喉の渇きを覚えて徐にベッドから起き上がった。あまりに俊敏に動くと頭痛がより激しくなりそうなのであくまでもゆっくりと体を動かす。 もう何が来ても驚くことはないと決心した私はスリッパをはいて外へ出た。 後ろで呑気にいびきをかいている金次郎が涙を流していたことを私は知らなかった。 外は少し生暖かい空気ではあったが、心地よい風がさわやかな空気に換えてくれる。 私たちは西日本鉄道(こちらでは西鉄というらしい)に乗って下っていた。連休も残りわずかとなっているので、社内には大きな荷物を持った人が多く見られた。九州の玄関口と言っても、電車で数分揺られれば車窓からはのどかな田園風景がちらりと見える。 「これってどこに向かっているんですかね」  薄紫色の唇から小声で聞いてくる童に私は首をかしげることしかできなかった。童は昨日の飲みすぎで今朝猛烈に嘔吐したらしい。そのうえガタンゴトンと揺れる電車に吐き気が倍増しているようだ。結局ホテルを発っても金次郎は行き場所を教えてくれなかった。  さらに今日は一日中一冊の本をずっと読みふけっている。ブックカバーがつけられていてタイトルは見えないが、ページの汚れ具合から相当回数を重ねて読んだものであろう。時折笑みをこぼしている金次郎はどこか懐かしんでいるようであった。  どうしてか私は金次郎に声をかけられず、また車窓からの景色を眺めることにした。  ビル街から一軒家や田んぼへ、都会から田舎へ、景色がどんどん後ろへ流れていく。 駅を降り立った私はあたりを一周見回した。  そこには家が何軒か見えたり、車も通っていたりと何もない場所ではなかったが、特に何があるわけでもない良くある田舎の風景であった。 「よし、元気よく参ろうか」  金次郎はにやりと歯を見せて先頭を歩き始めた。体は軽やかに見えるのに、私は彼の背中から哀愁を感じた。 「少し様子が変ですね」  マスターは噴き出る汗をハンカチで拭いていた。やはり私のみならず他の二人も異変を感じ取っているのだ。 「訳はとりあえず目的地に着いてから聞いてみましょう」  私たちは意見がまとまり、三人同時に金次郎の後に続いた。  前で空を見上げている金次郎と太陽が重なって私は目を細めた。 駅から十五分ほど歩いただろうか、突如先陣を切っていた金次郎が足を止めた。 私は彼の背をよけて前方を見ると、そこには一面の茶緑色の絨毯 が広がっており、奥には大きな山が悠然とそびえたっている。 周りを見ればほかにも観光客らしき人達が前の広場のような場所へ歩いていく。ここは観光スポットなのかもしれないが、私には見当もつかなかった。  私が口を開きかけたのに気づいたのか、金次郎は無言のまま奥へと歩いた。  私たちも続いていく。  奥へ行くと大樹が何本も横に並んでいた。私たちは大樹の一つの幹のところまで歩いていた。先ほどまでの暑さが木陰で一瞬にして冷え始めた。 「ここは『大宰府政庁跡』と言ってな、七世紀の終わりに西の防衛と外交の窓口となる太宰府がここに建っていたのだ。まあ今はただだだっ広い公園になっているがな」  金次郎は後ろを振り返り、広がっている緑を眺めた。 「桜の時期はお花見に来る人もいるが、この人の多さはあれだな。新元号にあやかってきた人たちだ」  道理で何もないのに人が大勢来ているわけだ。皆スマホで写真を撮ったり、礎石に刻まれた文字の前で考え耽っていたりしている。 「私がここにいたときは全く人が来なかったから、ここが私のお気に入りの場所であった」  金次郎は幹に両手でしっかり触れて、語り掛けるように話し始めた。  上空で青々とした桜の葉がこすり合う音が風と共に流れていた。  肌寒い日が続く二月のころであった、 私、大和田恭平は日課のごとく食堂にいた。  財布を開けてみればいつ見ても札なんて入っているはずもなく、小銭も乏しい音しか奏でなかった。 今月も万事休すな状況であった。 「お待ちどうさま、アンタも飽きないね」  おばさんが大きな皿をどんと置いて立ち去って行った。目の前に置かれた皿の上にはこれまた大きなカレーライスが盛られていた。  しかし、目の前にあるカレーライスは私にとって大事なカレーライスである。 それは普通のカレーとは異なり、トッピングのコロッケ付きである。私は普段は小カレー百十円ですませているが、一カ月、もしくは二カ月に一度はこうして大カレーのトッピング付きを頼むのだ。  私はこの日を『散財日』と呼んでいる。  湯気とともに上がってくるスパイシーなにおいと野菜本来のにおいに自然と唾液が分泌されてくる。  私はスプーンを手に取り、すさまじい勢いでカレーを口にかき込んでいく。カレーライスの具には豚肉とニンジン、玉ねぎ、そしてジャガイモと特に変わった食材は入っていないのだが、このシンプルさが私の胃を満たしてくれる。 いつも通り、ここのカレーライスは天下一品である。  今の私は売れない作家で金もろくに持ってないのに毎日ここ『浜田食堂』に来る理由はカレーライスのほかにもう一つあった。 がらがらと引き戸が開く音がして、私はかき込みすぎたせいで喉を詰まらせながらも後方を見ると例の彼女が入ってきた。 「潮香ちゃん、いらっしゃい。ここどうぞ」  おばさんは私に取る態度とは正反対に明るい声で彼女に席を用意した。  にこやかにおばさんとあいさつを交わして席に着いた彼女はいつも通り目を閉じて瞑想する。  私はその姿を眺めるだけで自分の虚しさが一気に晴れる気がした。 肩にかかった髪は浜辺の砂のように顔にまとわりつくことなくさらさらと流れていて、長い睫毛はきれいに上にカールしている。白い肌は透き通るようにきれいで、とりあえず私は一目彼女をこの食堂で見かけたときから心を鷲掴みされたのだ。  彼女が毎日この食堂で昼食をとることを知ったので、私も財源に無理をして毎日通うようになった。  しかし全く苦ではなかった。彼女に会えるなら、私はたとえ金がなくなっても水だけを飲みにここへ来るつもりだ。  ただ奥手の私は彼女に話しかける勇気なんて、考えただけでも熱が上がりそうなことであった。知っているのは彼女が毎日ここで昼食をとることと名前が潮香ということ、あとは彼女が間違いなく美人であることだ。  今日の彼女は鮭定食を頼んだらしい。小さく箸で切ってこれまた小さい口に運ぶ。そのしぐさだけでも可愛らしい。私はカレーを食べることを忘れて彼女をずっと見ていた。それだけで腹が膨れていく気がした。  彼女はゆっくりと食事を楽しんだ後、立ち上がってレジの方へ向かった。おばさんと並んでいるところから身長は百五十と少しと推測した。柔らかな笑みを浮かべながらおばさんと話している彼女は天使そのものであった。  天使はおばさんが明けたドアから光の世界へと姿を消した。  彼女の出ていった方をしばらく眺めてカレーの方へ目を移す時に、彼女のいた机に黄色いハンカチが置いてあるのが見えた。  私は咄嗟に机のハンカチを拾ったが、どうすればいいか店内をうろついていた。 「どうしたんだい?」 「いや、これ、さっきの彼女のかと」  私が見せたハンカチを見ておばさんの顔が明るくなった。 「潮香ちゃんのやね! やったやん」  おばさんのフルスイングが私の背中にヒットした。あまりの強さに私は前のめりになった。 ひりひりと痛む背中をさすりながら私はおばさんの言った言葉の意味を考えていた。  私の意味を理解していない宙をさまよっている目を見ておばさんは肩をすくめた。 「あんた、潮香ちゃんのこと好きなんやろ? 早く届けに行きんしゃい」  言われて私の耳はすぐに真っ赤に紅潮する。  私を手で追い払いながらもおばさんはどこか楽しそうであった。  私は急ぎ足でドアの方へ向かって、突き破るかのように外へ出て左右を見れば、彼女はすぐそばの歩道で靴紐を結んでいた。 「あの、すみません」  駆け寄って声をかけたが、勇気を振り絞りすぎたのか声が変に裏返ってしまった。  顔が紅潮してどこに目をやればいいのかしどろもどろになっているのに対して、彼女は私に気づいていないらしく反対の靴紐を結んでいた。  あの、と再び勇気を出して前かがみに声をかけると彼女はやっと気づいて立ち上がった。今まで遠目で見ていた彼女がここまで至近距離にいる今が信じられなかった。  彼女が首をかしげて困っているのに気づいて手に持っていたハンカチを差し出した。それでも彼女は分かっていないようで私の目を見つめていた。  彼女のきょとんとした顔で私は全てを察した。  彼女の細い手を取り、その手にハンカチを握らせる。 「ハンカチ、お店に忘れてましたよ」  ああ、彼女は肩から下げていたカバンにハンカチを入れた。 「わざわざありがとうございます」  彼女はぺこりと頭を下げた。 「いえいえ、それではまた。潮香さん」  私も頭を下げた後に、自分で言った言葉を心の中で反芻していた。じわじわと体が熱くなるのを感じた。  私は無意識に初めて彼女の名前を呼んでいることに遅れて気付いた。  急いで店へ戻ろうと踵を返す。 「あの!」  すぐ後ろで彼女が私を呼び止める声がした。まさか彼女から呼び止められる日が来るとは、思わずガッツポーズをしてしまった。 そんなことをかみしめながら私は振り返った。 「どうしました?」 「どうして私の名前を?」  私が一方的に彼女を眺めていただけなので、彼女はもちろん私を知らない。 「実は私もあの食堂に毎日通っているもので」  私が言うと彼女は目を輝かせていた。栗色の目がより澄んでいた。  私には彼女の目が輝く意味が分からなかった。 「毎日ってカレーを頼んでいる人ですか?」  彼女が興奮している最中、私は開いた口が塞がらなかった。彼女の記憶に私がいたことももちろんだが、どうして頼んでいるメニューまでわかるのだろう。 「毎日同じ席にカレーのにおいが運ばれるんでよっぽどカレー好きな人が来ているんだなっていつも思っていたんです。あ、私においとか音とかでもちゃんとわかるんですよ」  彼女はえへんとこぶしで胸を二回たたいて見せた。彼女は天使というよりはいたずらっ子のように見えた。   そんなことより、彼女の中に私がいたことが何よりもうれしかった。 「いつも何か書いてますよね?」  浮かれている私をよそに付け加えるように彼女が言った。まっすぐこちらを見つめてくる目は遠目で見るより大きく見えた。 「私は一応作家をなりにしてまして」  私はスラックスの後ろポケットから小さくてよれよれのメモ帳を取り出した。日頃から目についた事柄をこのメモに細かく書いているのだ。  彼女は私が作家だと聞いた途端に表情に笑みがあふれて、両手を胸の前で握っていた。 「作家さんなんですね!」 「とはいっても全く売れていませんがね」  きまりが悪く苦笑している私に対して、彼女は「すごか、すごか!」と連発している。何がすごかなのかはわからないが、彼女がここまで喜んでいる姿を見られて私としては感無量であった。 理由なんてどうでもよかった。  彼女はいまだ興奮冷めやらぬ状態で栗色の目をキラキラと輝かせていた。 「私に聞かせてください!」 「はい?」 「あなたの書いた物語を私に聞かせてください」  彼女の目が私の瞳をとらえており、胸の奥底までさらっていった。  私は考える時間などなく、ただ首を縦に振るばかりであった。  この日から私たちの、私たちだけの読み聞かせが始まった。  枝からこぼれんばかりの桜の花が咲き乱れる三月の終わり、私と潮香さんは大宰府政庁跡にある大きな桜の屋根の下で座っていた。あれから私たちは毎日『浜田食堂』で昼食を食べ、ここで読み聞かせをするのが日課になっていた。  私の作品を読み聞かせすることもあれば、全く関係のない日頃あったことを雑談したりもする。  この期間で分かったことは彼女がまだ学生で、食堂のおばさんとは実の叔母と姪であることのみである。彼女は何でも質問してくださいと言ってくれるのだが、彼女の顔を見ると何を聞いたらいいのかわからなくなり、結果、自分のことを余計に話してしまうのだ。 今日は小春日和ではあるが、風が多少強く、日陰にいると少し肌寒かった。 彼女はベージュのセーターとチェックのロングスカートをはいている。シンプルで普通の人が着れば地味になりそうな服装だが、彼女が着れば何でもしっくりくるのが不思議である。  今はちょうど三作目の読み聞かせを終えたところであった。 「めちゃよかった! 特に最後のヤドカリは最高やった」  彼女は拍手をして実に嬉しそうであった。本当は以前コンクールに出して落選した話だが、彼女が笑っている姿を見れば編集者も惜しいことをしたものだ。 「実は真っ暗な世界じゃなかとよ」  彼女は唐突にそんなことを言った。私は訳が分からず黙っていた。 「よく私みたいな人のことをたとえるときに『真っ暗な世界』ってよく使われるでしょ? でも私に見える世界には色自体ないんよね。何にもない、無の世界。時々急に怖くなる時があるけれども君の話を聞いていたら目の前がね、彩られているの。実際に色は見たことないけどね」  春風で彼女のきれいな黒髪が軽やかになびいていた。  私がどのように見えるかを尋ねれば、彼女は眉間にしわを寄せて、親指と人差し指の第二関節を顎にあてて「うーん」と考えるそぶりを見せた。  真剣な表情だが、どこか可愛らしい。思わず抱きしめたくなるが、私の自制心が腕の動きを止める。 「何色かはわからないけれども、幸せな色かな」  その可愛らしい笑顔でこちらを向く姿にこんな時でも私の胸はドキリとする。もうだいぶ二人でいる時は経つのにいちいち心臓は振動している。 「次も楽しみにしてるね」  私の心臓の高鳴りが聞こえたのか、のぞき込むようにして私を見つめていた。顔にはいつものいたずらっ子が現れていた。  彼女のおかげで私の執筆活動も最近はすこぶる調子が良かった。 アイデアの波が引くことなく次から次へと押し寄せてくる。このままでは私の脳が先に溺れてしまう程であった。  執筆は苦しくもあり表現できる喜びもあり、最高の時間であった。 最近は一度ペンを持てば日をまたいでいたことも忘れるほど無心で四百字詰めの原稿用紙と向かい合っていることが度々あった。 それもすべて彼女を喜ばせるためだ。 「ねえ、聞いてるの?」  私が何も言わないので、彼女が痺れを切らしたらしい。餅のように膨れた二つの頬が私に訴えかけている。  こんな時間でも私は幸せだと感じる。自然に優しい表情になる。 「聞いてます」  でも、とつづけた私の言葉に彼女は耳を傾けた。 「このままやってていいのかなと時々思います。売れないくせにそこまでしてやることなのかなって」  これはふとした時に頭によぎることで、私の大学の同級生は就職したり、実家を継いだりと社会人として働いている人が大半で、私のように来週は生活していけるのかと心配している人はほぼいない。 中には結婚もしている者もいる。 そんな中で一人、叶うかどうかもわからないような夢を追い続けていると、どうしようもなく怖くなる時があるのだ。  私の悩みに彼女はすぐに、しかし変な言葉をかぶせた。 「君は福神漬け好きだよね」  突然のことで、私はいつも食べているカレーライスをよく思い出せなかった。よく思い返すと、確かに私はカレーライスに福神漬けをスプーンで三杯ほどかけて食べる。  特に気にすることもなかったことである。というより話の行き先がまるで見えない。彼女は何の話をしているのだろうか。  私が戸惑っているのをよそに彼女は話し続けた。 「君はいつもカレーに大量の福神漬けをのせて食べる。君がしていることはその福神漬けみたいなことだよ」 「どういう意味ですか?」 「カレーの主役はカレーって言う人が多いでしょ。誰でもカレーを食べたいからカレーを頼む。でも、君みたいに稀にカレーを食べるには福神漬けがどうしても必要って人もいる。その人にとっては福神漬けがあるからカレーがよりおいしく感じられるんだよ」  私は彼女の福神漬け論が分からず、ない頭で懸命についていく。  それを見た彼女はくすくすと小さく笑って語を継いだ。 「君のやっていることはもしかしたら誰かの人生を少し後押ししているかもってこと。それってすごいことで、立派なことだよ」 「すごいことですか?」 「すごいことだよ。文字だけでこれだけ人を幸せにできるものを作れる君は」  彼女の声には自信があった。  私の心のかすんでいた部分が少しだけ晴れた気がした。 「そうですね、そう考えるとなんだか救われる気がします。私は必ず喜んでもらえるものを書きますよ」  彼女はまっすぐ私を見て大げさに首を縦に振った。  彼女の瞳には本当に私が映っているのではないかと思うほど、焦点は私の黒目に定まっていた。  彼女はただのいたずらっ子だけではない、色のない世界を懸命に生きてきた逞しい女性であった。  そう言うところにも私は惹かれていた。  しかし、私の奥手な性格のせいで未だに彼女に気持ちを伝えれていない。性格がすぐには変わらないことなど百も承知だが、私自身も自分の性格に情けなくなってきた。 食堂のおばさんからは行くたびにまだ言っていないなのかと急かされる。最近はご主人やアルバイトの子、常連のお客さんまで尋ねてくる。 皆、人の恋時には興味津々なのだが、私には極めて有難迷惑である。 自分のタイミングは自分で図るものだ。  変なことまで思いだしてげんなりしていたその瞬間、私の脳内に一つのアイデアがひらめいた。ない頭で様々な方法を考えたが、今出たアイデアが最適だと確信した。 「何考えてるの?」  私の気持ちを察するように彼女が問う。どうやら無意識で口角が上がっていたらしい。 「何も」  私はこのメンタリストのような彼女に気づかれないように冷めやらぬ気持ちを押さえて、違う話題へと転じて話した。  桜が風と共にシャワーのごとく私たちを包み込んだ。  それからの私は執筆活動に勤しんだ。その傍ら、彼女と会うことは欠かすことなく、作品が出来上がる間は様々な話で彼女を笑わせた。  私の住むアパートの大家がかつらを物干しに干していたことや、向こうから犬の散歩をしてきたおばさんが犬に連れられて田んぼに落ちて抜けられなくなったことなど一つでも面白いと思ったことを彼女に話した。  彼女はその度に涙を流して、両手を何度もたたいて笑ってくれた。  春が過ぎ、雨が続く日も灼熱の暑さの中でも、そして北風がのぞく秋空の下でも、私たちはいつでも笑い合っていた。    冬も本腰を入れてきた十二月、私は慌ただしく『浜田食堂』の扉を開けた。 「もっとゆっくり開けんと、ウチが壊れてしまう」  おばさんは入ってきた私のおしりをひっぱたく。  おばさんの苦言は私の耳には届かず、私の神経はいつもの席に座っている潮香さんにしか向かなかった。潮香さんの向かいの席に座って持ってきた封筒を机に出した。 「先ほど東京の出版社から便りが届いて、私が以前応募した作品が大賞を獲ったそうです。明日の授賞式のために今から東京に行ってきます」  私も息が上がっていたが、話をしていて気持ちが昂っていた。  初めは目を真ん丸に開いて驚いていた彼女だが、すぐに身体にしみ込ませるように真摯に聞いていた。時折小さく首を縦に振るしぐさがうれしさを表していた。 「そうなんだ。本当によかったね」 「はい、そうなんです。いや、でもうれしいことはまだほかにもあるんです」  彼女がきょとんとしている中、私は着てきたコートのポケットから長方形のモノを取り出して彼女の手に握らせた。  彼女は全辺を探るように触り、息をのんだ。  困惑した表情を隠せていなかった。 「ついに新しい作品が完成しました」 「そうなんだ。よかったね」 「これはあなたのために書いたものです」  彼女は予想通り困惑した様子であった。手に無意識に力が入っている。 「でも私……」  彼女の目が泳いでいるのを見て、私は彼女の手に握られている本を開かせて彼女に触らせる。 「!」  彼女の目がぱっと見開いた。電気が走ったように手は小さく震えている。  彼女はしばらく人形のように動かなかった。 「私がいない間、暇つぶしにしてください」  私はそれだけ言い残して席を立った。しかし、思い出したように自分のしてきた手袋を彼女の冷たく冷え切った手にはめた。 「こんなに寒い日に手袋もなしとは手がかじかんで読めないですよ。では、行ってきます」  私は今度こそ席を立ってそのまま外へ出た。 「行ってらっしゃい」  遠くから、しかも小さい声だが、確かに私の耳にはそのように聞こえた。  灰色の空と凍てつく北風とは裏腹に私の心は温かかった。先ほどの彼女の声がカイロのように私を包み込んでくれていた。 私はスキップを混ぜながら駅の方へ走っていた。  足取りは羽のように軽やかであった。  久しぶりにスーツを着たせいで足の裏がじんじんとして、肩も固まっている気がした。  東京での半日は私が出会ったことのない華やかな世界であった。 授賞式では私に向かって壮大な拍手が寄せられた。人生でこんなに大喝采を浴びることはそうそうないのではと感嘆した。  スピーチを求められて原稿を手に話したが、その時だけの記憶が保存失敗されたようで脳内に残っていなかった。  しかし、スピーチが終わってスタンディングオベーションが広がった景色を見た際には、私の涙腺が崩壊しそうであった。  それから会場でこれまた豪華な会食が行われた。私は編集者の方や現役で活躍されている大先生と言葉を交わして、おいしい酒を飲んだ。  まさか昨日まで、いや、今日の午前中まで財布に三十円しかなかった私が、こうして華やかな場所で自分が読者として読んでいた小説の著者と会話をしている。  初めて自分が作家だと実感した瞬間であった。  気持ちの高ぶりと酒のせいで足がふらついてきたころ、会場の出口から編集者の女性が私に駆け寄ってきた。 「大和田さん、お電話です」 「はい、わかりました」  誰からなのか見当がつかないが、とりあえず女性の後について会場を出た。  おぼつかない意識の中、受話器の向こうにいる相手は昼前に会ったばかりの食堂のおばさんであった。 「どうしたのだ? おばさんから電話をもらうなんて初めてだ」  多少ろれつが回らない口調で話した私に、おばさんはゆっくりと用件を伝えた。  私は一瞬で酔いがさめた、酔いとともに血の気も去っていった。 そして受話器をただ、強く握ることしかできなかった。 翌日の夜、空気は切り裂くほどの寒さであった。 潮香さんのお通夜には数人しか出席しなかった。親族以外では私と食堂の亭主とおばさん、あとは彼女が住んでいたアパートの大家さんのみという質素な通夜であった。 一日半前に会っていた彼女がもうこの世にいないということが未だに理解できなかった。目の前の枠に収まっている彼女は昨日と同じで笑顔溢れる彼女であったからなのかもしれない。 彼女は昨日食堂からの帰りに車に引かれて亡くなった。数十メートル飛ばされたのちに頭を強く打ったらしい。助けに駆け付けたおばさんも救急車を呼ぶこと以外、できることはなかったらしい。 私は通夜の場から離れた。 外は容赦なく風が吹きつけていたが、今の私にはその冷たさがありがたかった。 見上げれば昼間の灰色の世界とは異なり、青白い星と金色に光り輝く月がくっきり見えた。 私が視線を空へ向けていると、いつもの割烹服ではなく、黒い服に身を包んだおばさんがいつの間にか隣に立っていた。 「こんなところにいたら風邪ひくよ?」 「ああ」 「早く中に入らんね」 「ああ」  私は缶全にうわの空であった。 「これ、あんたにだよ」  おばさんは充血した目で私を見ていた。おばさんの手には茶色の包みが握られていた。 「もしも、何かあったら渡してくれって頼まれてたのさ」  おばさんは私の手に持っていたものを無理やり握らせた。それだけ言って私に背を見せて部屋に戻っていった。  私は渡された包みを開ける。  中には昨日渡した本と白い紙が入っていた。  鼓動が激しく暴れるのが分かった。 私はよくわからないまま白い紙を開く。紙には様々な方向に飛んでいる行がいくつもあった。 私はたどるようにゆっくりと読み始めた。      恭平君へ 文字を書くのはやっぱり難しいみたい。 やっぱり恭平君はすごかね。 あ、君の名前を初めて呼んだ。 なんか、恥ずかしいね。 君がね、手袋をはめてくれたときに私は感じたの。 私みたいな人に手袋させるなんて君もなかなかやね。 でもね、君のぬくもりが残った手袋がうれしくて、私は今もつけたままいます。 そんなわけだからとりあえず私の気持ちを書いておこうと思って。      あと、私だけに書いてくれた小説、すごくうれしかった。 私でも読める本に出会えて感動しちゃった。 一瞬で読み切ったけれども何度も内容を思い返した。 だって、この小さな中に君の気持ちが溢れていたから。      君のまっすぐな気持ちと不器用なやり方に私も応えます。      私も好いてます。      君のことがずっと好きで、好きで、好きでした。      こんな私のことを普通の女性とみてくれたあなたに心惹かれています。      すぐさま君に抱きつきたいです。      すぐにあなたの温かくて大きな手とつながりたいです。      けどね、時々思うんです。 少しでも君の顔を見れたら、少しでも君と同じ景色を覗けたらって。 君はどんな顔をしているの?  ほくろはいくつ、髪型は?  私たちがいつもいる場所からはどんな風景が見える? 気味から見る私はどんな顔をしとると? 考えたら胸が痛みます。 痛くて痛くて、涙が止まらないときもあります。 そんな女といて君は楽しいのかなって。      それでも私は君の隣にいたいです。      君の声を聴いていたいです。      君と笑い合いたいです。      毎日の平凡な日々を君で色づかせたいです。      もし、この手紙が届いていないのなら夫婦になりたいな。      強欲な女でごめんね。      わがままばかりでごめんね。      でも、これが私の今の気持ち。 これはあくまでもしかしたらの手紙だから届かないかもしれないけどね。      でも、もし届いているとしたら君は現状を自分のせいだと思っているでしょう。      私からのお願いです。      自分の責任だと思うことだけはやめてください。 誰も君を責めない。 私も君のせいだなんてこれっぽっちも思っていません。少しは悲しんでほしいけれど、いつまでも泣かないで前を向いて笑ってください。      あと強欲ついでに言うと書くことをやめないでください。私のせいでやめたなんて知ったら祟るけんね。      君の描くお話はどれも色鮮やかで素敵です。      色を知らない私に素敵な色を教えてくれました。      私は毎日あなたの声で、あなたが選んだ言葉を聞くことが出来て、本当に幸せでした。      こんなに幸せな色に包まれたのは生まれて初めてかもししれません。      だから、どうかその色を、 福神漬けを欲しがっている人たちに見せてください。      とりあえず、言いたいことは書けたかな。      それじゃあ、また明日。 潮香  私は折られていた通りに手紙を畳んだ。  空から雪が降っていた。綿のように白い雪が肌に触れてひんやりするのが微かに感じる。  すると、雪よりも冷たいものが頬を伝っていた。  私は頬をぬぐった。これは雪ではないことは分かっていた。  最後に書いてあった「また明日」が本当にくるようで、来ないことは理解できているのにそう思って期待してしまう自分がいた。  押し寄せてくる涙と嗚咽は抑えようがなかった。  彼女は私に笑っててほしいと言っていたが、今日はどうしても涙を止めることはできなかった。  その場で膝から崩れ落ちた。  私の叫びが冬の夜にしんしんと響いていた。  青々とした木陰の中、私たち三人はただ静かに語る金次郎の声に耳を傾けていた。   金次郎は先ほど電車で呼んでいた本をカバンから取り出した。彼は本を開いて私たちに見せるように向きを変えた。  そこには私の読める文字はなかった。ただ凹凸した点がいくつも頁についていた。  これが潮香さんに一日だけ手渡された金次郎のラブレターである。  私たちはただその本を見つめることしかできなかった。 「彼女に言われた通り、私は小説を書き続けた。書き続けながら長い年月を生きてきた。嫌なこともあったし、うれしいこともあった。その都度彼女に会いたくなってな。初めは何度も探しに出かけた。いないことは理解しているはずなのに、足はここや食堂に向かっていた。次第に探すこともつらくなって私は上京した。つまり、彼女から逃げてしまったのだな」  俯きながら苦笑する男はいつも見てきた金次郎ではなかった。背中が小さく丸くなっており、目の下には深いくぼみができていた。  いつもひょうきんで海賊笑いを振りまいている男の涙は違和感でしかない。  目の前にいるのは奥手で不器用で、まっすぐに彼女を想う大和田青年であった。 「しかし、私も人生の折り返しをとうに過ぎている。いい加減会わなければならないと思っていた。それでも一人では出向けなかった」  そうして彼は私たちに向かって深く、深く一礼をした。 「すまなかった、初老のわがままに付き合わせてしまって。そして、ありがとう」  私は体を倒している目の前の男から目を離せなかった。何年も先輩な男が子供や孫世代の私たちに深く頭を下げていた。  不思議な気持ちが心を交差していた。 「私は後悔ばかりしてきた。後悔しながらここまで生きてきた。だからこそ君たちにはきちんと自分の人生を、前を向いて歩んでほしいと思った」  彼はゆっくり頭を上げて私たちを順に見つめた。 突然自分たちのことになり、私は口中のつばを一気に飲み込んだ。 「この銀河はいつなくなるんだったかな、童」 「五十億年後です」  鼻声の童が詰まりながらも答える。  ほほうと息を洩らした金次郎が話し続けた。 「その時の人類はどうなっているのだろうな。幸いにも私たちには地球が亡くなる心配はゼロに等しい、そして未来を思い描いて明日を生きることができる。これがどれだけ幸せなことは今の人たちは知っているのだろうかな。いつも下を向いて小さな液晶画面を覗き、新しいことにのみ興味を持っている。別に新しいことが悪いとは思わんが、今あること、目の前に見えるものをおろそかにしがちだと私は思うのだ」  金次郎は自分の手にある本をわが子のように優しくさする。彼がさする音と風でそよぐ草の音が調和していた。 「童よ、君はまだなんにでもなれる。何かになってからでもなんにでもなれる。焦らずじっくり考えるのだ」  金次郎に見つめられた童は「はい」と声にならない声を洩らす。 「マスター、友はいつまでたっても友だ。彼の気持ちが固まるまで君は君なりに待っていればよい。そして彼が決めたことを受け入れればよいのだ」  言われたマスターは黙って首を縦に振っていた。  言い終えた金次郎の頬に一筋の光が流れていた。 「こんな世知辛い世の中でも、捨てがたいことはいくらでもある。それを忘れることなく今日、そして明日を生きていこうではないか」  私たちに向かって白い歯を見せ、笑声を上げていた。その間も涙はぽろぽろと流れていた。  三人が感極まっている中、私は考えており、金次郎の言葉が遠くに聞こえていた。  私には皆のような悩みや苦悩はない。それは普通なことなのかもしれない。 しかし、今回の旅で自分がこれまで怠惰に生活してきたのかと不安を抱くようになっていた。 わたしだけが真剣に人生を歩んでいない気がしてならなかった。 握った拳に力が入る。 「さあ、私の用も済んだことだし、旅を楽しむとしよう」  金次郎は私たちの間を通り抜け、止まることなく足を前へ出し続ける。それに続いて二人も歩き始める。  私は気持ちが入り乱れたまま、少し遅れて歩き出す。  足が重く、思うように前に進まなかった。
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