混沌

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混沌

 空がオレンジ色だ。  それでも夏の燃えるような色ではなく、見ていると目から何かが出てきそうな、そのような色であった。  十二月二十一日。  冬は寒いが、空が一日中きれいだから簡単には嫌いになれない。  昼は水のようなパステルブルーで、夜は淡い紺色の中に無数の星が光を放っている。  冬の空は優しい。  あれから私はいつも通りの生活をしている。  朝起きて仕事に出かける、夕方と夜のはざまに仕事を終わらせ家に帰宅する。そして時々酒を干す。  これを平日はループのように行う。  特に変化のない生活を心掛けてきたが、気持ちの中の混沌としたものは未だ解消されないままであった。 「こんにちは」  門扉から聞こえてきた声に思わず顔を上げる。新築の戸建てから出てきた人は変わらずの美人であった。彼女はデニムパンツにカーキのコートを羽織っている。襟元を見る限り外に出るためだけに着たのだろう、 「寒かったでしょう? 早く入ってください」  加奈子さんはそう言って手招きをしている。  私はそれに応じて軽く会釈をして、ゆっくりと門を通る。  今日は土曜日で、昨日の仕事終わりに私は河合さんの家に誘われた。初めは断ろうとしたが半ば強引で首を縦に振らされたのだ。 「すみません、年の瀬にお邪魔して」  年末が近いこともあり、私自身も会社も、そして世間も慌ただしく動いている。  まるでやり残したことを必死に終わらせようとしているようだ。  夏休み終盤まで宿題をせずに、始業式間際になって泣いている子供にも似ている。 「そんなこといいんです。こちらこそすみません、主人が無理やり言ったんでしょう」  加奈子さんは苦笑して私に向かって手を合わせる。  加奈子さんは河合さんの二つ下、つまり私より一つ若いということだ。  彼女は子供と大人を持ち合わせた女性である。  ふと笑った顔は幼く見えるが、彼女を見ていると河合さんよりも大人に見える。これは悪口ではなく、尊敬しているのだ。  玄関に入ると建ててから一年半経っているが新築のにおいがした。  酒と変人がたまっているボロアパートとは雲泥の差だ。  急に思いだしたように右手に持っていたビニール袋をすでに靴を脱いで上がっている彼女の前に差し出す。 「あの、これ言われていたものです」  私の手から受け取り、中のモノを覗き込んだ加奈子さんが一回手をたたいた。 「あ、ありがとうございます! 私うっかり忘れてて」  ここに来る前に河合さんからメールでおつかいを頼まれていたのだ。どうしてこれが必要なのかはわからないがとりあえず言われた通り購入した。 「これらはなんですか?」  今度は加奈子さんが私に先ほどの袋を開いて見せた。 「それはお土産です」  中には言われていたもののほかにお酒と小さなプリンが入ってあった。 「いいのにこんなの、ほんとに気を使わせてすみません。あ、まだ玄関ですね。早く入ってください」  彼女は何度も頭を下げる。 「気を使ったわけではありません。私がしたくて渡しているのでそこまで謝られるとまずくなりますよ」  はっと慌てて口を手で押さえて彼女は微笑した。 「そしたら、ありがとうございます」  今度は一度だけ深く頭を下げた。この人は本当によく頭を下げる人だ。 「お邪魔します」  彼女を見ていると私も自然と柔らかい顔になっていた。  河合さんの妻であることが少しばかり悔やまれる。  私たちはパタパタとリビングへ向かう。  窓の向こうはすでに夜へと移り変わっていた。  私の前でぐつぐつと一つの鍋が煮立っている。蓋がしゅんしゅんと汽笛を鳴らしている。  私の横で河合さんがテレビを眺めている。  鍋を挟んだ先には専用の椅子にどかりと座っているのはこの家のプリンセスだ。彼女は手に持ったフォークを自由に机にぶつけて音を奏でている。 「ちょっと七海、机が傷ついちゃうでしょ。あなたもちゃんと注意して。あ、また猫背になってる」  加奈子さんは二人を見ながら注意を投げかける。  まるで二人の子供を育てているようだ。  私はその光景をただ茫然と見つめる。  河合さんの幸せが目の前にあった。河合さんの幸せは私の足が入っている炬燵のように思える。ぬくぬくと体の内側を温かくしていく。  見ている私も温かくなってきた。 「そろそろいいかしら」  加奈子さんは七海ちゃんの手を握りながらもう片方の手で蓋を開ける。  開けた途端に白い湯気が天井に向かって上がっていき、私の視界を遮る。少し遅れて温かいにおいに部屋が包まれていく。 それは夏の花火に少し似ている気がした。 冬は寒いだけではないことを私は初めて知った。いや、初めてというわけではない。冬が過ぎて春夏秋と過ごしていくうちに忘れていたのだ。 「くに~、タラだよ。七海ね、タラ大好き!」  加奈子さんによそってもらったタラを私に見せるプリンセスは無邪気に笑っていた。 「鱈を鍋に入れるなんて初めてです」 「うそ! 私は子供のころから入っていたんで」  加奈子さんが目を見開いて驚いていた。私の実家は白菜やエノキタケの野菜に豚肉を入れる。 「それはしゃぶしゃぶじゃないですか?」 「いや、鍋で――」  鍋です、と断言しようと思っていたが言葉が止まった。たしかによく考えると私の言っているものはしゃぶしゃぶによく似ている。  逆にしゃぶしゃぶと言われていたものを思い出すと、中野グザイも肉も私の知っている鍋とメンバーが同じであった。  つまり、私はこれまで実家で『鍋=しゃぶしゃぶ』を食べていたことになる。  大雑把な母が考えそうなことである。 「鍋なんて何が入ってもうまくなるんだよ。俺の家はこれが大量に入っていたよ」  横から河合さんの手がするりと伸びてお椀に大きなホタテを入れる。ホタテはのぼせて紅く火照っており、取ってくれた河合さんに感謝しているようであった。 「それは作る人が誰でも味は変わらないってこと?」  冷ややかな声に河合さんは動きを止める。ホタテが河合さんの口の前で不格好に垂れ下がっている。  彼らを見て私には持ち合わせていない幸せだと思った。三十歳で戸建てを購入して、そこには愛する妻と娘と生活する。  来年の自分にはどれも叶いそうのないことであった。ばつの悪い顔をしてホタテを食べている河合さんがかっこよく見えた。  私は無意識に笑っていた。 「何笑ってんだよ?」  横で河合さんからわき腹をつつかれる。もちろん、加奈子さんの見えないところで。 「河合さんって悩みとかありますか?」  シイタケを取りながら流れのように聞いてみた。 「なんだよ、急に」 「いや、なんとなく」  そうだなー、と腕を組んで河合さんは少し考えたがすぐに口を開いた。 「最近腹の肉がなかなか落ちないこと、ここのローンだろ、嫁さんが怖いこと、あと――」  すごい勢いで河合さんの指が折られて、また伸びていく。  私はそれよりも前で冷たい視線を送っている加奈子さんに気づいてほしいと願うばかりだ。 「悩みだらけですね」 「改めて考えると本当だな」  河合さんは額に手を当ててため息をつく。 「お前はないの?」  ちらりと横目でこちらを見てくる。 「特には」 「いいなあ」  河合さんは嫌味そうに再び私の横腹をつついてくる。  私はつつかれた意味はもちろん、河合さんに言われた意味が分からなかった。 「悩みがないってことは今の生活にそれなりに満足しているってことだろ」 「それなりでいいんですかね?」  急に河合さんが首ごとこちらを向いた。それから私のじっと見つめてきた。 私の方が逸らしたくなるほど河合さんと目が合っている。彼の瞳に私が映って見えた。 「それなりでいいんだよ。あまりに満足な生活をしていたらもっともっとって無駄な欲が生まれる。逆に不幸な生活は心まで閉ざしてしまう。本当はそこまで悪くないのに、悪いと決めつけてしまう。『それなり』がちょうどいい」  河合さんは垂れそうな鼻水を目一杯すする。 「河合さんはどうなんですか? 悩みばっかりでしたけど」  河合さんはぼうっとした顔でゆっくりと答えた。 「たしかに悩みはあるけど俺だってそれなりだよ。そりゃあいいことばかりじゃないさ、悪いことの方が多いってくらい。今日なんか加奈子と七海の買い物に大金だしちまったよ」  河合さんがポケットから財布を取り出して私に財布を開こうとするのを私は手で制した。 私たちは頻繁に昼食を共にするのだが、私はコンビニ弁当で河合さんはいつも百円もしない菓子パン一つである。  河合家の主権が奥さんの加奈子さんであることは明白である。  そして、河合さんが大金をはたくということがどういうことかも重々分かっていた。 「でも、幸せだ」  財布をポケットに戻した河合さんはぼそりとつぶやいた。 「家に明かりがついていることとか、帰りに嫁と娘の笑い声が聞こえてくるときさ、ああ、俺は幸せなんだって実感できる。その時はその日あった仕事の悩みなんて吹き飛んでいくんだ。悩みは多いけども、そこに一つだけ幸せがあればいくらでも悩みを忘れることができるんだよ」  何事もなかったように河合さんはビールに手をつける。  先ほどまで凍るような眼で河合さんを見ていた加奈子さんの頬は紅潮していた。  あんな言葉をさらりと言える河合さんはやっぱりかっこよかった。加奈子さんが惚れた理由が少しだけ分かる気がした。 「加奈子さんはどうですか?」 「え、私?」 「はい、日々の中で生きる活力って何ですか?」  彼女はまっすぐ私の目を見て力強くはっきりと答えた。 「それは家族です。七海の日がたつにつれて成長する姿を見ると元気になります。子供の成長って本当にすごくて、毎日こっちが驚かされます」  加奈子さんは隣にいる口いっぱいにほおばった七海ちゃんの頭を優しく撫でる。 「もちろん、主人にもですよ」  加奈子さんが恥ずかしそうにはにかんで話すのに対して、河合さんはテレビに視線を送っている。 「くに~!」  七海ちゃんがビー玉のように大きくてきれいな目でこちらを向いている。 「どうしたんだい?」 「七海にも聞いて!」  私と加奈子さんは顔を見合わせてどちらからともなく笑った。  プリンセスは早くと言わんばかりに机に身を乗り出している。慌てて加奈子さんが椅子に押し戻す。 「ごめん、そしたら七海ちゃんはどんな時にうれしいって思う?」  んとね、と腕を組んで考えるそぶりを見せる。三歳の少女がどこで身に着けたのだろう。なかなかの貫禄がうかがえるのが不思議だ。 「みんなでご飯を食べるとき!」  七海ちゃんは大きな声で手を上げて答えた。 「先生と友達と幼稚園でお昼ご飯食べるときでしょ、あとお母さんとお父さんと食べるときでしょ」  あと、と付け加えて彼女は声を大にして話した。 「くにと食べるとき!」  彼女は満面の笑みで身を乗り出してこちらを見ている。後ろで足がパタパタと見えるのがあどけない。 「こら危ないでしょ」  加奈子さんがまた彼女のおしりを椅子にくっつける。母親はいつでも大変だ。  しかし、彼女の言葉には驚いた。まさか七海ちゃんの幸せの中に私が入っているとは思わなかった。  なんだか胸の内がほっこりした。 「河合さん、連れて帰っていいですか?」 「なんでだよ」  河合さんの手が私のつむじを軽くたたく。加奈子さんは手で口を押えて笑っている。何が起こっているのかわからない小さなプリンセスはお母さんを見て同じよう手で口を押えて笑って見せる。 「家族がいるとこんなに幸せなんですね」  私が言うと、横から河合さんの声が聞こえた。前を見れば彼は振り返らずにすたすたと歩いていく。  小さくて聞き違いかもしれないけれども、 「お前にもあるだろ」  そう聞こえた気がした。  それで私の頭はさらに混乱した。    河合さんのお宅にお邪魔して一週間がたった。 相変わらず寒い日が続くが周りで歩く人の足音がいつもより軽く聞こえた。最近テレビをつけたり、スーパーに行ったりしても『年末セール』の文字をよく目にする。  世界が今年も終わることを知らせてくれていた。 コートを着た私は改札を出てエスカレーターで下りていく。今年の仕事も無事終わり、私は家に帰るところである。しかし、ここでの家とはあのボロアパートの事ではない。 私はエスカレーターを降りてから、『JR蒲田駅』の文字を背にして西口広場に出る。  ここは相変わらずにぎやかだ。日中もカラフルで賑やかなイメージだが、夜はライトの明かりが四方から照らされて、かえって日中よりも明るく感じる。  ここに来るのは去年の年末以来だ。あの旅行の最後に本当は蒲田に立ち寄る予定があったのだが、とてもそんな気分ではなかった。  なので、両親がハワイに行ったと嘘をついて中止になっったのだ。  周りを見れば私と同じように仕事終わりのサラリーマンが疲れたような、それでもほっとしたような顔で歩いている。 広場の中央では高校生くらいの青年たちは何が面白いのか、腹を抱えて破顔している。 「冬休みか」  私は独り言をつぶやきながら広場を横切るように歩きだす。 学生時代が不意に懐かしく思えた。社会人も少ない冬休みはあるが、その休暇は年明けの仕事を億劫にさせるだけである。 しかし、学生にとって冬休みは待ち焦がれたものである。クリスマスに正月と言ったイベントに心が躍り、たくさんの親戚からもらったお年玉で何を買うか考えるだけでも楽しい。 なんだか彼らが光って見えた。  私はその眩しい光を避けるように横を通り過ぎる。  ふと空を見上げればあるはずの瞬く星は地上の光で全く見えず、そこには漆黒の夜空が物寂しく広がっていた。 「大丈夫?」  インターホンを押してしばらく待っていると、三つ上の姉がドアを開けてかけた一言がそれであった。 「一言目に大丈夫って変ではないか?」  だって、と言いて姉は私の顔を覗き込むように見てきた。 「なんかひどく疲れた顔してるけど。あと、相変わらず変な言葉遣いね。どこで覚えたのよ?」  姉は体を退いて呆れた顔をしながら家の中に入っていった。  私は自分の顔をさすりながら後に続いて家に入る。  玄関で靴を脱いで靴箱に入れようとした。体制を左に向けるとそこには大きな姿見があり、そこには疲弊しきったアラサーの男が映っていた。  私はここまで薄幸な顔をしていたのかと軽くため息をついた。姉の言葉にも納得がいくというものだ。  リビングに入ると慣れ親しんだ家具と間取りが私を迎えてくれた。  やっと実家に帰ってきた。そう胸中で私は思った。  別段変わったものは置いてなく、帰ってきたいわけではなかったが、この家を見ると緊張して固まっていた心がお風呂にでも入ったお湯にじわじわと和らいでくる。  実家とは特別な家なのだ。 「おかえりなさい」  台所から母がお盆を持って出てきた。お盆の上にはポテトサラダとお皿に大量に盛られた唐揚げが乗っていた。 「おお、久しぶりだな」  テレビを見ていた父が首だけ振り返っていた。  二人の声を聞いただけで胸の奥がじわりと緩んでいった。 よく見ないうちに両親の頭に白髪が目立っていた。母の身体は細く、座っている父は腰が曲がっている。  来年で両親も六十五歳であるから仕方ないが、一年見ない間にずいぶん年を取っていた。  一年はずいぶん早く、人を変えるものだ。 「あ、おじさん」  先ほど入ってきたリビングのドアを振り返るとパンツ一丁の小さな男の子が駆け寄ってきた。少年はそのまま私の腰に抱きついてきた。  何か感じるものがあり目線を下すと、髪が濡れていた。じわじわとズボンが冷たくなっていく。 「来てたのか、和神」  和神は濡れた髪をこすりつけるように大きくうなずく。 「こら、ちゃんと拭いてから出なさいってー」  姉が眉間にしわを寄せて叱りつける。和神は姉の子供で来年から小学生になる。 「そうだぞ、仕事をしてきた人は相当ばっちいからな」 「なら、おじさんともう一回お風呂入る!」 「お風呂は良いが、おじさんではなく『お兄さん』だ」  私は彼の髪を無造作に撫でる。柔らかい髪がくしゃくしゃと擦れ合う。 大きくなったようで、その頭は手のひらにすっぽりと治まる。 子供の成長は摩訶不思議なものである。 「あんたもうすぐ三十でしょ? 十分おじさんでしょ」  痛い言葉が姉の口から飛んでくる。 「朝日さんは来てないのか?」 「明日まで仕事。そのまま終わったら来るって言っていたわ」  さらりと答えた姉は炬燵の上に置いてあるミカンを剥き始めた。 「普通は旦那の実家に行くのでは?」 「年末はウチで年明けは向こうのご実家に行くの。いいわね、アンタは気楽で」  姉は目を細めて私をちらりと見てミカンを一粒、口の中に放り投げる。  どうやら姉には私にはわからない苦悩があるみたいだ。 「とりあえずお風呂に入ってきなさい。ごはん準備しておくから」  母が横を行ったり来たりしながら私に風呂を促した。  母の言葉に私の胸の奥がざわわとした。  このざわめきは一人暮らしをして暫く経ってから時々起こるのだが、勝手に何かができていることが違和感でたまらないのだ。 「どうしたの?」  立ち尽くしている私に姉が何かを探る目をして言う。 「いや、べつに」  私はジャケットをハンガーにかけて風呂場へ向かう。  後ろから小さな足音も一緒に来ていた。  私は和神と風呂場に入って体を洗って湯船につかる。 実家の風呂はいつも熱い。モニターを見れば四十三という数字が見える。 うちの家、ここでは『パルドブロム』のことだが、あそこはユニットバスなので湯船につかる習慣がない。 なので、その中での湯船はなんだか包まれている気分になる。 「何考えているの?」  声のする方へ振り返ると頭が泡まみれの和神がこちらを見ていた。 「考えているとは?」 「ん~、よくは分からないけどね、そんな顔だったよ」  さすが親子だと苦笑いする。 「和神は――」 「え、なに?」  ちょうど頭を洗い流している最中だったので聞こえなかったらしい。 「和神は悩みとかあるか?」 「ない!」  気持ちいいくらいの和神の声が私の心を鋭く刺した。 「それはそれは」 「どうして?」  五歳児の直球がミットを持たない私に衝突する。 「おじさんは悩みがあるの?」  しかも連投ときたら私には受け止めきれない。 「特にないのだ」  体をごしごし洗っていた和神は澄んだ瞳で私をじっと見つめていた。いつの間にか自分で身体を抱くような体勢で固まっている。 「ないから、悩んでいるのだ」 「ふ~ん」  和神は再び体を洗い始めた。子供にはまだわからない話だったかもしれない。  私はつむじが浸かるまで体を沈めた。お風呂の中には地上では聞こえない不思議な音に包まれている。そして少しだけ目を開ければ、はっきりとしない視界の先に光がちらちらと揺れている。  水中は生まれる前のような幻想的な世界に思えた。  しばらく潜っていて息がもたなくなったので水面から顔を出す。顔を出した途端に重力を感じ、頭がくらりとした。 「おじさん、いいなー!」  のぼせた頭を右に向けると和神は自分もやりたそうにバタバタとしている。 「和神はだめだ」 「どうして?」 「母さんに叱られるぞ」  私の言葉に慌てて和神は急いで湯船に浸かる。どうやら姉にしごかれているようだ。  和神を見ていると自分の小さい時を思い出して笑い声が漏れた。 私が和神くらいの歳の時の姉は絶対的存在であった。姉に泣かされた記憶は今でも鮮明に覚えている。 「どうしたの?」  下から見上げる小さな顔は真っ赤に茹で上がっていた。 「お母さんって時々本当におっかないよな」  少しの間を入れて和神は首を縦に動かした。  でも、と顔を上げてから和神は声を大にして言った。 「とっても優しいよ」 「そうだな」  うん、そうだ、それもよく知っている。母や父に怒られたときは必ず姉がそばにいてくれた。隣で何か言葉をかけてくるわけではないが、ただ泣きじゃくる私の頭をなでてくれていた。  それだけで私の心は救われていた。  先ほど家に帰ってきたときも似たような感覚になったのを思い出した。  人は言葉一つで誰かの心を温められるものなのだ。その言葉は洒落たものでもかっこいいものでもなくていい。  普段聞きなれた言葉が一番響くものなのだ。 「ねえねえ、おじさん」  和神がいつの間にか私の身体をよじ登っていることに気づかずにいた。 「おじさんには夢ってあるの?」  久しく聞いていなかった単語が現れて私は少なからず動揺した。 そして、大人になって夢というものを持ったことがないことに気づいた。 「どうしてだ?」 「あのね、この前幼稚園で夢を書いてね、お母さんやおじさんはどうなんだろうって思って」 「お母さんはなんて答えた?」  和神は目を一層輝かして白い歯を見せていた。 「僕がね運転する車で旅行に行きたいって。だからね僕、早く車に乗りたいんだ」  嬉しそうに話す和神の笑顔は姉の顔にそっくりであった。  姉はきちんと母親をしていた。 「そっか、それが和神の夢でもあるのか」  私がつぶやいた言葉に和は首を左右に大きく振る。 「和神の夢は違うのか?」 「違くはないよ。でも、僕は大きくなったら空になりたい!」  思わず「空?」と聞き返してしまった。私の質問に迷いなく目の前の小さな少年は頷く。 「だって空は青かったり赤くなったり、夜は星がキラキラしてさ、いつもきれいだから」  和神の瞳は銀河のように吸い込まれる輝きを放っていた。 「いいなあ、子供はまっすぐで」 「おじさんもまっすぐなればいいじゃん」  そう言い捨てて和神は風呂から上がった。私はその場から動かなかった。いや、彼の言葉が直球に加えて球威も出ていた。  和神の言う通り、大人がまっすぐになっていけないとは誰にも言われていない。  いつからか私は道を進むことより道上にある障害物を考えるようになっていた。  考えることは大事だが、時には子供のように直進することも必要なのだ。  私は自分という人がますますわからなくなってきた。  私はどこへ向かえばいいのだろう。  一人取り残された風呂場には換気扇の音が遠くに聞こえていた。  少しふらつきながら和神とリビングへ向かうと父はもう寝室に行っており、姉と母は食後のコーヒーを飲んでいた。 「ずいぶんな長風呂だったわね。お風呂で何してたのよ」 「おじさんとね、たくさんお話ししてた」 「それよりもお水を一杯飲みなさい」  母が炬燵から立ち上がり台所へ向かう。私と和神は炬燵の前に座ったが二人とも中に入ろうとはしない。 「はい」  母が炬燵の上に水が入った二つのグラスを置いた。水はお風呂のお湯とは異なり軽く見えた。 「和神はそれ飲んだら寝なさい」  姉の言葉に反論しかけようとした矢先に和神の口から大きなあくびが出た。 「これでは何も言えないな」  大人三人が笑い合う。母と姉の間に座っている和神は目をこすりながらもふてくされている。 「僕、動かない」  和神は腕を組んで全体重をカーペットに加える。 「もう」  姉はだるそうに立ち上がって小さな地蔵を簡単に持ち上げる。 「いやだ!」  姉の腕の中で暴れまくる和神の抵抗は虚しくそのまま連行されていった。  先ほどまで騒がしかったリビングが急に静寂に包まれた。母と二人きりという空間が体のどこかをくすぐる。 「何かあった?」  まさに急な言葉であった。速さがあるのに軽い言葉であった。 「何かとは?」 「だって歩が自分から帰ってくるなんて珍しいじゃない。去年は無理やり誘ってやっときたんじゃない」  母は口に微笑を浮かべながらコーヒーをすする。  私自身にさえ見えない心の奥が母にはわかるのかもしれない。 「母さんは生きがいなどある?」 「何それ?」  母は少しおかしそうに眉を上げてテレビをつける。画面の中では紀行番組がやっており、最近よく出る女優さんが海外で歩いている場面が流れていた。  私が母に尋ねた質問には理由がある。  母は父と結婚したことで今まで働いていた職場を辞めて、地元である大阪を離れて東京に越してきた。  それからは専業主婦として父を支え、母として私と姉を育ててきた。 「私と姉さんが独り立ちしてからも母さんは家の仕事をしていたから、何を生きがいにして生きているのかと思って」 「それもそうね、仕事を少しでもすればよかった」  今更なことを母は淡々と話す。さすがに六十半ばから仕事復帰してもらっても子供としては別の不安が募るばかりである。 「そうねえ」と母が目線を天井に巡らせていた。 「生きがいなんてたいそうなものはないけど」  母は一拍置いてから口を開いた。 「死なないから生きてるかな」  なんともおっかないワードを口にしているにもかかわらずテレビを見る母は涼しい顔をしている。  私はその涼しい横顔をじっと見つめていた。母の横顔は意外と鼻筋が通っていたり、耳が小さかったりと知らないことが多かった。 「どうしたの?」  母が急にこちらを向くので慌てて目をそらす。 「いや、考え方が極端だな」 「そんなものよ。死なないから別にわざわざ自分から命を途絶える意味もないでしょ。そうやって一日ずつ生きてたら生きがいとまではいかないけれども楽しいことは見つかるわ」  母は再びテレビに視線を移す。私もつられてテレビを見る。  私の目は画面を見つめていたが、脳内では母の言葉を繰り返し唱えていた。 生きるために底まで意味を持たなくても生きていける、新しい考え方が出てきて混乱してきた。 額に手を当てて再度画面を見ると、女優さんが空と境目の分からないほど透明な海を背景に語っていた。 “私にとって役者はわたしそのもので、それを続けていくことが生きていくか手になっています”  笑顔で話す彼女の言葉の中心に根強い芯が入っているように聞こえた。  続けていく、母と似たようなセリフである。  私は自分に置き換えて考えた。そしたら悲しいことに私には続けたいと思うことは何一つ浮かばなかった。  せっかく出口が見えたと思った迷路で間違えたような心持であった。 「そんなことより早く食べなさい。もう冷えちゃっているけど」  母の言葉で私の目の前に取り残されているご飯に気づいた。 「いただきます」 私は箸を手に取り唐揚げを口に入れる。 冷たく固くなった唐揚げが私のようで身に染みた。 私は無言で次々と唐揚げを食した。 母は何も言わず、でも去ることなく、その場にずっといた。 テレビではラストの場面で女優さんが海に向かって走っていたが、私には少し濁って見えた。
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