パルドブロム

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パルドブロム

 とある休日、時刻は四時少し前。  相変わらず寒い日が続くが、最近ようやく春の兆しが見えてきた。  冬は葉も実もつけていなかった裸の枝には今では蕾がはちきれんばかりに膨らんでいる。  夕焼けも茜色ではあるが、少し濃くなってきたように感じる。  世界が春を知らせてくれているようであった。  そんなことを考えながら私は車道の端を歩いている。車が何台も横を猛スピードで通る中、私はゆっくりと歩いていた。まるで海の底を歩いているようであった。  午前中は何をしていただろう。  昼は何を食べただろう。  今日一日何をしていたのかがよく思いだせない。  空を見上げれば雲が速い速度で右へと流れていく。世界が目まぐるしく動いている中で私だけ流れに乗れずにいた。  あれから童は大学での話をよくするようになった。 就職活動が始まりなかなか目にする機会が減ってきたが、たまに会ったときは天文の話を熱烈に語ってくれた。相変わらず話す時は普段とは別人のような顔をしている。 今は一応のところ就職活動もしているが、童としてはこのまま大学院でさらに天文学について研究していきたいという旨をご両親に相談したらしい。 「父からはやれるだけやってみろと言われました」  頭をポリポリと掻きながら微笑する童の顔は実にうれしそうであった。  マスターは相変わらず『咲や』を繁盛させていた。  先月仕事終わりに顔を出した際は、ちょうど焼き鳥を作りながらカウンターにいる数人の男性客と会話をしていた。 「マスター、メニューの後半白紙だけど」  男性客の一人がマスターにメニューを見せるように渡した。 「ああ、それはねお客さん、四月からの新メニューのためですよ。まだまだの奴ですが、すぐに腕の立つ料理人になる男なので楽しみにまた来てください」  低いどよめきが起こり、新メニューの予想をする客の前でマスターが軽快に焼き鳥を回転させる。  二か月後に来る相棒を心待ちにしている気持ちが顔に表れていた。  金次郎はあれから部屋にこもることが多くなった。時折顔を合わせるが、会うたびに無精ひげが濃くなり髪も獅子のように逆立っていた。  最初は少し心配になり声をかけたが、返される言葉は「大丈夫だ」というだけであった。  細長い体がより貧相に見えたが、彼の言葉と目に強い意志を感じたので私はそれから見守るだけにした。  ここ最近は余裕が生まれたのか、よく私の部屋に無断で上がってきて酒を酌み交わすいつもの金次郎に戻っている。  それぞれがそれぞれの生きる道を歩きだしていた。  それなのに私は未だに道がどれかもわからず立ち往生していた。  そもそも、私の前に道なんてものは存在せず、だだっ広い大地がどこまでも続くところにポツンと立っていた。  これからどこに行けばよいかもわからぬ、迷子のように。  それでも皆の前ではいつも通りにふるまっていた。 偽物の自分を演じれば演じるほど、毎日の中に光を見出して突き進んでいる皆の中にいる自分が情けなく、恥ずかしかった。  久々にあの時の旅を思い出しながら私は自動ドアを通り中へ入った。  私は借りていたレンタルDVDを返すために、一階の書店を通り過ぎ奥のレンタルコーナーへの階段を目指して歩を進めた。  過ぎ去ろうとした中、一つのブースが目に入り足を止めた。  そこには『おすすめの一冊!』とポップ調の字体で書かれた看板が立てられて、その横にピラミッドのように本が積み上げられていた。  私はその天辺の一冊を手にする。 『パルドブロムの綿旅行』  表紙には綿帽子のたんぽぽから四つの綿毛が風に揺られて青空に飛び立つ様子が描かれていた。  私は驚きのあまり数分その場に立ちすくんだ。  なぜならタイトルの横に私の良く知る男の名前があったからだ。 しかも名前は『大和田金次郎』と書かれている。 今にもあの海賊笑いが聞こえてきそうであった。 「どうかなさいました?」  急に声が聞こえて横を見れば若い女性店員が近くに立っていた。 「いや……」  私は金次郎のことと彼女への驚きでうまく言葉が続かない。それを見て目の前にいる彼女が首を前に出して距離を近づけてくる。小さい顔に大きな瞳ということもあって、余計に圧迫感があった。  その顔は客に対するというより不審者を見る顔であった。 「いや、すみません。なんでもありません」  私が軽く頭を下げると、「どうぞごゆっくり」と言って彼女は自分の持ち場に去っていた。  私はもう一度手元の小説を見つめてそのままレジへと歩いて行った。  レンタル屋からの帰路、私は道路わきの喫茶店に立ち寄った。店内はこじんまりとしていたが、その小さな店内の中で大きな柱時計が異様な存在感を出していた。よく耳を澄ますと小さくジャズが流れていて、ここだけ世界と時間のすすむ速さが違うような気がした。  まるで私と同じようであった。 「いらっしゃいませ」  長い髪を後ろで一つに束ねた女性が丁寧に頭を下げた。今日はよく女性の店員と会うものだ。 「ホットコーヒーを一つ」 「かしこまりました。出来次第お持ちしますので、席に着いてお待ちください」 パルドブロムまでは徒歩五分ほどで着くのだが、家で読むのはなんだか気恥ずかしかった。  奥の席に座って私はビニール袋から先ほど購入した本をテーブルの上に置いた。  普段喫茶店には入らないが、こういう雰囲気の店は落ち着くものがあった。今後通うことにしようと心の中で決めた。  本を開く前に私は大きく深呼吸をして新鮮な酸素を取り込んだ。店内に流れるジャズの音量が小さなせいで自分の鼓動が余計に大きく聞こえた。  心を落ち着かせて私は本を開いて読み始めた。  内容は実に恥ずかしい、わがアパートに住む住人たちで行ったGW旅行の話であった。 私は読みながらあの時の十日間を思いだしていた。 ページをめくるにつれて私の記憶と文字から飛び出てくる金次郎の思いが重なって少し懐かしい気持ちになった。 私は休憩を入れることなく一気に読み進めた。しかし、作中に出てくる千秋公園や太宰府天満宮参道で買った梅が枝餅などの話は記憶が曖昧であった。 行く先々での出来事があまりにも強烈だったので、そのほかのことは脳が勝手にゴミ箱に入れてしまったらしい。 本は二時間ほどで読み終えた。 私としては知人たちの話なので感じるものがあったが、ほかの読者がこれを読んでどう思うかはわからなかった。ただ変人気質な男たちの旅行を気持ち悪いと思う人も中に入るのかもしれない。 読み終えた私はいつの間にか来ていたコーヒーを一口飲む。喉をとろりと通るコクと口の中に残るほろ苦さが絶品であった。私はさらさらと水のようなコーヒーが嫌いなのだが、ここのは喉が一瞬驚くほど濃い仕上がりであった。 咄嗟にレジの方を見れば先ほどの女性が軽く会釈をした。どうやら私の好みを察してのこのこーひらしい。 なんとも気の利くお店だ。 たまには酒を控えてコーヒーを飲むことを日課にするのもいいかもしれない。 本を閉じようと思ったが、徐に次のページをめくる。 『あとがき』と書かれた下に金次郎の名前が書いてあった。普段私は読書をする際に本編のみを読破して終えるのだが、せっかく知り合いの著書を買ったのだ、最後の最後まで読んでやろう。  それにしても自分であとがきを書くのは、あの男らしい欲張ったものだ。普段読まない私でも、あとがきを作者自身が書くのは稀であることは知っていた。 『実にわれわれ人間は弱い生物だ。弱い生物なのに生物の中で一番命を軽んじている哀れな生き物である』  非常に突き詰めた考え方からあとがきは始まっていた。私はコーヒーをすすりながらページをめくる。  読んでみれば「なるほど」と思うことを作家、大和田恭平は書き記していた。  私はページをめくりながら彼が書いていることについて考えていた。  セミは一週間、ホッキョククジラは百五十から二百年生きると言われている。生物一種ごとに平均寿命は異なるが、彼らは生きるために懸命である。その人生に悔いを残さぬように死に物狂いで生きている。  しかし、我々はどうであろう。  現代では特に心配せずとも食料や水は手に入る。  ましてや、十分すぎるくらいの資源がある。  そこまで豊富なものがありながら、人間の世界には残念なことが多すぎる。  若くして自ら命を絶とうとする者がいる。  同じ人間同士で争いをして相手を殺してしまう者もいる。 「戦争はいけないことだ」と言われているのに、なぜかゲームの前では次々と銃口を敵という人に向けて「死ね」と連呼する。  こんな種はきっと人間だけであろう。 『鳥は飛ぶために翼を、ライオンは獲物をとるために鋭い牙を与えられた。人間は何もない。何もないからこそ「考える力」を神様から頂いたのだ』  書いてあることに一つ一つに胸を打たれる感覚があった。  人間はほかの生物よりも考える能力に長けている。だからここまで進化して繁殖できたのであろう。  しかし、今の人たちは考えることをおろそかにしているのかもしれない。  少し考える意思があれば自殺する人も減っていたかもしれない。もう少し冷静になれたらその手を同種の血で染めることはなかったのかもしれない。  偽善的な考え方かもしれない。 これまでの争いがあったからこそ人は弱肉強食の世界を乗り越え、世界中に広まったというのも真実である。 だが、現代の私たちは幸いなことに争いをしなくとも十分な生活ができる環境の中にいる。日本人に関しては戦争で血を流していた時代を知らない世代が大半になってきた。 恵まれた生活をする人こそ命を軽んじる。 不可思議で悲しいことである。 私はさらにページをめくる。 『この小説の中で一人、何も悩みがない男がいた。彼はあれから悩みがないことに悩んでいた。周りが新たな道を歩く中、取り残されているのではないかと怯えている。私はこの場を借りて彼に伝えたい。別に人と比べることはない。同じ道を歩く必要もない。比べたってなにかが閃くわけでも、変わることもない。君は君で、君の人生はだれも歩むことはできない』  私は瞳を動かして字を追っていた。  そこに突如出てきた男とは、まぎれもなく私であった。  ただ、と言葉が続いて次の文が添えられていた。 『考えずに生きて、最後につまらない人生だとは決して思うな。人間は考えることができる。それをおろそかにして死に目に『私の人生はつまらなかった』とは絶対に言ってはならない。それは生きたくても生きることができなかった者、そして全生物に失礼だ』  私は一行空いた次の言葉に釘付けになった。 『大切なのはどの道を歩くのではなく、どのようにして歩いてきたかである。だから、君は君の道をまっすぐ進むだけでいい』  そこであとがきは終わっていた。 私は本から目が離せなかった。 震える唇を噛みしめて垂れそうな鼻水をすすったが、涙は止めることができなかった。 頬から顎を伝って落ちてくる涙は一つ二つと間隔が短くなって次々と落ちてくる。 私は我慢をすることをやめた。 涙は溢れて人目もはばからず嗚咽した。 自分がいかに小さなことに悩んでいたことを知らされて恥ずかしかった。 私は泣きじゃくりながら考えた。 これからは今日のために生きようと、そして明日を迎えることができる幸せを感じるために生きようと。 私はテーブルの横に置かれていた紙ナプキンで鼻と目をぬぐい、レジへと向かった。 「四百円です」  意外と安いことに驚く私には気づいていない様子の若い女性店員が淡々と会計を進める。ひどい顔をしている私からすれば声をかけられ心配されるよりも心地よかった。またこの喫茶店に来ようと決めた。 「ありがとう」  私は小さく礼を言って扉を開けた。  チリンと澄んだ音色に送られて、オレンジに熟れた夕日に迎えられた。  夕暮れも沈みかけて明るくも暗くもある。昼間は薄く白みがかった月も夜になるにつれて輝きを放っていく、不思議な空であった。 風も少し肌寒くなり私は足早にアパートの階段を駆け上がる。  カンカンカン  無駄に響くこの音でだれが帰ってきたかは一瞬で分かる。  私がポケットからカギを取り出していると、隣の部屋のドアが大きく開いた。 「おかえり、ぽっぽ」  顔だけのぞかせた金次郎がこちらに白い歯を見せていた。待ってましたと言わんばかりの笑顔である。 彼のあごと鼻下には白いひげが茂っていた。 「おかえりなさい」 「待ってましたよ」  金次郎の頭の上から櫛団子のようにマスターと童の顔が現れた。  なぜか彼らのその言葉に私は胸が熱くなった。「おかえり」という言葉がこんなに温かく人を包み込む言葉だと知らなかった。知らなかったというよりは、今まで気にしていなかった。  私はふと、いつか河合さんがつぶやいていたことを思い出した。  その意味がやっと分かった気がした。  私にとってここが幸せを感じる場所なのだ。 「やあ」  私は一番下にいる男の著書を読んで号泣したのを悟られないように、皆のいるほうの手でこめかみをぽりぽりと掻きながら答えた。 「今から暇か? みんなでお好み焼きを食べようと思うのだが」 「暇じゃないと言ったらどうする」 「どうもしない、ぽっぽの部屋にホットプレートを手に上がるだけだ」 「せっかく昨日掃除したわが家をお好み焼き臭にされては困る」  三人は私の応答に笑声を上げた。  その中でも金次郎は異様に笑っていた。うれしさがあふれるとはこの表情を言うのだろう。  彼の細めた目線の先をたどると、私の右手に握られているビニール袋にたどり着いた。  書店の名前が書いてあるビニール袋を見て、私はようやく彼の笑う理由に気づいた。  私はぶっきらぼうに金次郎の家に上がり込んだ。  後ろからバタバタと男たちがこちらに来る音が聞こえた。その足音で彼らの表情が見なくとも分かる。  台所からは童がマスターに指示されている声が聞こえる。 「ああ、そこは」 「キャベツが大きすぎるよ」  今回のお好み焼きはあまり期待しないでおこう。  私と金次郎は奥の部屋にある小さなちゃぶ台を挟んで酒の準備をしていた。  金次郎は楽しそうに二つの缶ビールのプルタブを引く。持って帰るときに振ってきたのか、開いたところから白い泡が微妙にあふれ出た。 「おっとっと」  金次郎は急いで自分の口を缶の口にくっつけた。先ほどまで威勢よく出ていた白泡は収縮して大男の口に吸われていく。 「いいのか先に飲んで」 「いいさ、あの様子だとまだかかるぞ。私たちはきちんと準備をしたのだからあとは飲んで待つしかない」  準備をしたと言ってもホットプレートと酒をセッティングするだけである。 私はもう一度台所に続くドアを見た。 「たしかにそれもそうだな」  私は今いる部屋を目渡した。壁一面を本棚が埋めており、入り切らない書物は部屋の隅に汚く山積みにされている。さらにはこの部屋にはテレビもベッドもない。  物が多いようで殺風景な部屋である。 「ここに置いてあるもので捨てられるものはないのか?」  金次郎は首をぐるりと回して棚を見渡した。 「捨てようと思えばこの棚ごとゴミ収集車に出せるぞ。だがな、普段全然読まないのも多い中でもしもの時にないと後悔するであろう」 「その最近読んでいないものは読む時が来るのか?」 「さあな」  金次郎は例の海賊笑いを出している。何が面白いのか私にはまったくわからない。  しかし、と彼は少し前のめりになる。私も反射的に背筋を伸ばす。 「この棚にはいろんな人生がある。幸せな人生、救いようもない人生、どれをとっても同じ人生は存在しない。本を読めば私一人では見ることができない人生を見ることができる。それが楽しくて仕方ないのだ」  金次郎は一冊一冊を思い返すように本棚を見つめて話し続けた。 「この本たちが無くなったとしても、この本から与えられたものは読者に共存し続けていく」 「どういうことだ?」 「本なんか、ただの紙切れの集まりにすぎん。存在を消そうと思えばいくらでも手段はある。でも私たち書き手は最悪捨てられてもいい、読んだものに何かを与えれられてその思いを心にとどめてもらえばそれで十分なのだ」  私も金次郎と同じように棚から顔を出している本を一つずつ目にとどめる。  思いをとどめる、彼のやっていることはまさに見えない旅路であった。  そういえば、と私は咄嗟にあることを思い出した。 「なんだ、あのペンネームは?」  金次郎は膝を叩いて笑っていた。 「いいだろう? この前の雑誌のインタビューでは『金次郎派本名ですか』と聞かれたものだから、アパートの住人に名付けられたので本名と言っても過言ではないと言ってやった」  えらく満足げに話す彼を見て深いため息が自然と出た。 「センスが微塵も感じられない。もっと文豪にふさわしい名があっただろう?」 「それを名付けたのは紛れもない君だからな。私は意外と気に入っておるのだ」  無邪気に笑う金次郎を前に私は額に手を当てた。こんなことになるならもっとましなあだ名を命名してやればよかった。  自分の指の隙間から射しこむ光を見つめているとさらにもう一つの事を思いだした。 「ここのアパートはタンポポだったのだな。たしか、パル、パルル……」  私は脳内の引き出しから探した。表紙の綿帽子やアパート上のアーチは鮮明に出てくるが、そこに書いてある文字は靄がかかってよく見えない。 「パルドブロムだ、その通りだ。オランダ語でタンポポのことをそう呼ぶらしい。私もここに来て初めて知った」  壁一面の本棚を見ながら金次郎は話した。 「知っているか、ぽっぽよ。私たちの知っているタンポポは背が低く花も小さくてあまり華やかという感じではないだろう。しかし、タンポポの根は表面からは想像もつかないほど太く長いのだ。そのために踏まれても花を折られてもまた立ち上がれるわけなのだ。また日光の入り具合によって形状を変える葉なのだが、夏はほかの植物が育つので彼らは葉の数を減らしてじっと夏を乗り切る。そしてほかの植物の元気がなくなりだす秋に彼らは活発に活動する。実に逞しく健気な植物だ」  私の方へ一つの缶を押し出し、もう一つの缶を彼は軽く持ち上げた。すでに床には一本の缶が転がっていた。 「それにだ、儚さも兼ね備えている」  私はまだ口をつけていないが、金次郎はすでにぐびぐびと飲んでおり、「くう」と唸っていた。  あっという間に缶の中身は空になる。 「どういうことだ?」  私は思わず前かがみになっていた。金次郎は空いた缶をつぶして新たに開ける。プシュッとはじける音が響く。 「タンポポの花は三日間しか咲かない。そこまで粘り強く、周りに気を遣ってもたった三日間しか咲くことができないのだ」 「それは確かに儚いな」  私も遅れながら一口目を頂戴する。  中身は市販のビールであったが非常に飲みやすく、香りが豊かであった。  私は一気に干した。  でも、と私は口火を切った。金次郎も飲みながら私の言葉を待つように見つめていた。 「タンポポ自身は儚いと思っていないかもしれんな。そうでなければあのように子孫を遠くに飛ばそうという気にもならんだろう」  金次郎はごくりと音が聞こえるほど喉を鳴らして口に入ったビールを下に流した。 「明日や未来を信じているからか」  私は黙って頷いた。 「人生も同じようなものだな。生きることは苦しくもあり、楽しいこともある。うまくいかないことなんて山ほどある。しかし、それと同じ高さの幸せな山も存在する。その頂の景色を見れる者は明日が来ることを信じている者だ。生きていなければ苦しいも何も感じることはできんからな」  金次郎は私の前に酒を再び置いて、自分の空いた缶も新しいものに取り換えていた。 「人間は悩みを多く抱えている生物だ。その悩みの種類は人それぞれで数えきることは到底できない。いつもそのことに悩まされて憂鬱になる人もいるだろう。だが、その悩みを乗り越えて歩くことができる人は」  彼はいつの間にか四杯目に突入していた。私は無意識に床に置かれている六缶パックの数を確かめる。この男を野放しにしていてはマスターたちが麦茶で乾杯となってしまう。  金次郎は私の目をまっすぐと見つめてきた。 「悩みに屈せず前に進むものは美しい。我々は種なのだ。そしてその種は美しい花を咲かせる」  金次郎はあっという間に四杯目も飲み干した。  私は缶を数えながら考えていた。  生きていれば発見がある、当たり前だが意外と気づかないことだ。 「我々もパルドブロムになれればよいな」  私は缶を持って金次郎を見た。彼も私と同じようにこちらを向いていた。 自然に二人で笑っていた。  どちらからともなく缶を掲げる。  では、と乾杯をしようとしたその時である。 「ちょっと何始めてるんですか」  気づけば台所からボウルを持った童とマスターが立っていた。 「僕が必死に作っていた間にー! どれだけマスターに叱られたとおもんですか? あ、しかも先生結構飲んでるじゃないですか!」  童はまっすぐ人差し指を金次郎に向けていた。 「童、ちょっと老けたな」  頬を紅潮させた金次郎が童に笑いかける。  相当不慣れなことをしてきたのに加えて、厳しいプロからの指摘がこたえたのだろう。彼の瞳がいつも以上に水分が多い。 「まあまあ、童たちもとりあえず飲むとしようではないか」  金次郎は手際よく缶を開けて彼らの前に置く。  二人はボウルの代わりに缶を手に持つ。 「せっかくですからグラスに入れましょう」  マスターは機敏に動いて、冷蔵庫からグラスを四つ持ってくる。 「準備がいいですね」 「職業病とでも言いますか、缶ビールでも最大限おいしく飲んでいただきたいですからね」  マスターがビールをグラスに丁寧に注いでいく。コクコクと金色の液体がグラスに流れる音がなんとも小気味よい。よく映画館の売店の案内でコーラを注ぐ音と似ていた。炭酸を注ぐ音はいつ聞いても喉を乾かす。 「あ、さっき何の話をされてたのですか?」  マスターが思い出したように私たちに尋ねる。その言葉に私と金次郎は顔を見合わせて微笑する。ほかの二人は私たちの顔を交互に見てきょとんとした顔をしている。 「秘密だ」 「秘密だな」 「えー、ずるいなあ」  童がやけに大きく嫉妬の声を洩らしたことがおかしくて一瞬の間の後、五畳という小さな空間が爆笑に包まれた。  様々な思いを持っている者たちがみんな同じ顔をしていた。  そんな騒がしい中、私は窓から見える空を眺めた。涼やかなる風が私たちのいるパルドブロムに吹いてくる。一年中ついている風鈴が季節外れの心地いい音色を響かせている。 「もうすぐ春が来るな」  私が言うとほかの三人も窓からそよいでくる風を感じていた。 「ほんとだな」 「草木のにおいがしますね」 「それは大げさすぎやしませんか?」 「しますよー、きれいな心を持っている人にはわかるんです」 「まるで私たちが汚れているみたいじゃないか」 「おじさんたちには嗅ぎ分けられないんですよ」  その瞬間、年長組の金次郎とマスターが童に取っ組みかかる。マスターの太い腕が暴れている童をがっちりと捕えていた。  私は暴れ馬の三頭を見て額に手を当てる。つかの間の静寂が見事に台無しになった。 「それでは仕切り直して」  私が大きめに声を発すると、やっと馬たちは静まった。  四人が自分の座っていた場所に戻り、ちゃぶ台の真ん中にグラスを持ちあげる。 蛍光灯の光がビールを通して卓上に不思議な文様を描く。ゆらゆら動くその姿に一瞬だが花が開いた気がした。 そうだ、春は花が咲き誇る季節だ。床に映る花を見た私は一人で微笑していた。 「それでは、世知辛い世の中の明日のために」  金次郎の言葉に、かちりと爽快な音が小さな部屋に響き渡った。
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