十連休

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十連休

 四月一日、新しい元号「令和」が発表された。  まだ平成も残り一カ月を走り切ろうと奮起しているだろうに、世の中は次なる新時代、令和で大盛り上がりだ。テレビをつければ新橋で人を押しのけて号外を手に入れようとするスーツ姿の国民たちの慙愧に堪えない映像が流れている。  私くらいは平成に労いと励ましの言葉をかけておこう。  しかし、私、國村歩は戦場の真っ只中にいて、平成の味方をしている場合ではなかった。  私の手の中でジャックとジョーカーがこちらを向いている。二人とも笑っているが、ジョーカーは私を嘲笑するような顔をしている。  そして、向かいから伸びてくる手がそれらを交互に触っていく。その手がジョーカーに触るたびに私の喉は自然と水分を欲した。  長いこと二つのカードを交互に握っていた手が不敵な笑みを浮かべているジョーカーへ移ろうとした。  少しだけ肺に空気が入りやすくなったと思えば、移りかけた手が流れるようにジャックの方へ向かい、そのまま私の手から引き抜いていった。  私の手中にはこちらをあざ笑うジョーカーが一つ残るだけだった。  ジョーカーの後ろで男が同じようににやりと笑っていた。 「またぽっぽの負けだ」  男はがははと海賊のように笑いながらそろった二つのカードを中央にある山場に投げ捨てた。  彼の名前は大和田恭平。頭の大半を占めている白髪を無造作にしており、とても清潔な印象とは言えない。 歳は六十過ぎには見えるが実際のところは分からない。 体格は細身だが身長は一八〇と細枝のような体をしている。  彼の生業は作家と自称しているが、彼の作品を私は拝見したことがない。実際には拝見しているかもしれないが、わからないというのが正しい。  彼は自身のペンネームも作品も口にしない。なので、いつ刊行しているのかもわからないということなのだ。  彼は周りから先生と呼ばれているが、私だけは金次郎と呼んでいる。なぜなら私が部屋を訪れると、大概本を片手に部屋をうろうろと徘徊しているからだ。いつか、その背中に薪を背負わせたいものだ。 「今日はどうも調子が悪い」 「ぽっぽはすぐ態度に表れるからな」 「それはババ抜きに反するのではないか」 「そこを見るのも戦術の一つだ。それにしても今日はぽっぽの好物を用意してくれたのに。なあ、マスター」 私の左隣にいるマスターと呼ばれた男がトランプの山の横に置いてある一升瓶を手に取った。ラベルには『十四代 白雲去来』と明記されている。 「昨日知り合いにいただきましてね、これはぽっぽに飲んでもらわねばと思い、持ってきたのに。残念ですな」  マスターはにやりと笑いながら三つのお猪口に丁寧に注いでいく。 「あの、僕なんかも飲ませていただき恐縮です」  私の真向かいの青年が申し訳なさそうに謝りながら、山になっているトランプをきれいに束ねてシャッフルし始めた。 「いいのだ、童よ、勝負に年も地位も関係ない。強いものが勝ち、最高の美酒を飲む、それこそが敗者への手向けに当るのだ」  大きな口をあけながら、金次郎が童の肩に手を伸ばす。  この二人の紹介もしておかなければならない。  マスターこと飯田恒夫は近所で小さな居酒屋を営んでいる。これが意外と評判で、お忍びで時々有名人が来るのだそうだが、私はまだ一度も出会ったことがない。今日持ってきた白雲去来も誰かからの頂き物だという。ぜひその方と一杯を共にしたいと思うばかりだ。  そして目の前で金次郎に揺さぶられて顔色を悪くしているのが北野俊太郎、私たちの間では童と呼んでいる。  彼は現在、大学で勉学に励む学生だが、彼が何を研究しているのかはわからない。極度の猫背からは哀愁がたっぷり漂って、においまでしてくるのではと感じるほどである。  なぜこのような者たちと共にいるのかというと、全員が今いるアパート『パルドブロム』の住人だからだ。このアパートは築四十数年、部屋は四部屋しかなく、その部屋も五畳と決して広くはない。さらに洗濯機は共有なのだが、なぜだか一台しか置いていない。なので日曜日なんかは最後の人だと正午を過ぎてからしか衣服を洗う事できないのだ。当然その日のうちに乾く事は諦めねばならない。  総じてとても女性が入りたいとは思わない物件だ。  だがしかし、もしもこのアパートに住みたいと言う女がいても部屋がないのだから仕方がない(上戸なら話は別だか)。 そんな野郎のみが収容されたアパートなので、こうして時々誰かの部屋に集まっては酒を飲み、夜をふかしている。 「準備ができましたぜ」  マスターが私以外の前にお猪口を置き、私にはご丁寧にプルタブが開けられた状態の市販の缶ビールが用意された。 「それでは、ぽっぽとジョーカーの運命に乾杯!」  四人は軽く杯を上にあげると、勢いよく口に傾けた。  私の喉に金色の液体が入って、喉仏が動くたびに爽快に体内へ流れていく。  確かにこれも美味なのだが、並の美味である。『十四代』の味を知っている者からすれば並以下にまで落ちる。  ほかの三人に目をやれば、その幸福度は雲泥の差である。金次郎は膝が割れるほど叩き、マスターはもうすでに空の猪口をじっと見つめている。童に至っては天井を見上げたままどこか浮遊しているようだ。  しかし、三人とも頬が垂れ、口角が自然と上がっていた。  この『十四代 白雲去来』とはそういう酒なのだ。  私がこの銘酒を初めて口にしたのは、約三年前のことだった。  その日は金曜日で、私はいつものように「咲や」に足を運ばせた。扉を開けると「いらっしゃい」と優しい声でマスターが迎えてくれた。言わずもがな、ここ「咲や」はマスターのお店である。  奥のテーブル席に客が二人いるだけで店内は静かだった。私はマスターの前のカウンター席に腰を下ろした。  これまたいつものように生ビールを頼もうとすれば、マスターの様子がおかしかった。懸命に抑えようとしているのに、勝手に微笑しているような顔だった。  私がどうしたのかと聞けば、彼は眩いまなざしでこちらを向いた。 「今日は生の前に飲んでほしいものがあるんです。きっとぽっぽのお口に合いますぜ」  そんなこと言われたら、私の喉が渇かずにはいられない。 「それをお願いします」 「かしこまりました」  マスターは流れるような手つきで盃の準備を始めた。升の中にグラスを入れて、用意した瓶をグラスに傾ける。  グラスがあふれる寸前でマスターがくいっと瓶の口を上に引く。  グラスの中には、透明な液体が店の照明からの光を見事に反射していた。まさに宝石のような輝きであった。  私は恐る恐るその升を手に取った。もはや宝石そのものだった。  口に少し流し込めば、その透明な液体はドロッとゆっくり流れていった。そして口や鼻から甘く、芳醇な香りが吹き抜けてくる。なんとも上品な日本酒であった。  しばらくその少量をじっくり味わっていると、私の頬を伝うものがあることに気づいた。  それでも私は拭うことはせず、もう一口体に流し込み、そしてまた涙する。  その日から『十四代 白雲去来』は私の好物となった。  その好物を今、私の前でほかの三人がうれしそうに飲んでいる。 私にとってはもちろん気持ちがいいものではない。ぶっきらぼうにビールを口に流し込む。 「いやあ、やっぱり別格ですな」 「それはよかった。しかし、もう一戦しなければ、このまま君たちが飲み干してしまいそうだ」  三人はたがいを見つめ合い、弾けるように笑った。 「よかろう、何度でも挑戦を受け入れるぞ、ぽっぽ。ぜひとも君が勝って、この銘酒を片手に語り合いたいものだ」 「そう思ってくれるなら、私を一番に勝たせててほしいものだ」 「いや、残念だが勝負は手を抜くことはできない。それはこの酒に失礼に当たるからな」  金次郎はそう言いながら、自ら瓶をお猪口に傾けていた。これは早くせねば本当に瓶が空になりそうだ。  童がカードを配っていると、突然思い出したように口を開いた。 「そういえば、今年のゴールデンウィークは十連休ですね」  確かに今年のゴールデンウィークは本当に光り輝いていた。十連休となれば世の中は今からお祭り騒ぎである。  その言葉を聞き、金次郎が指を鳴らして童にその人差し指を向けた。 「そうだ! みんなは何をするつもりだ?」  金次郎の明るい言葉とは真逆で、私たちは言葉が出てこなかった。十連休をもらっても、私なんかは必死に予定を組んでもせいぜい三日が限度だと思った。ほかの二人も同じなのだろう、誰も口を開くことなく、部屋に寂しい空気が流れていた。 「何を寂しい男たちよ、せっかくの休暇に華やかな予定すらないのか」 「そういう先生はおありなのですか」  マスターの言葉に金次郎は腕を組み、「ううん」と唸った。先ほどまで威勢の良かった金次郎も、今や子犬のように小さく見えた。  しかし、一瞬子犬と化していた金次郎が思いついたかのように拳で掌をたたいた。 「君たちの出身はどこかね?」 「私は秋田です」 「私は岐阜の小さな村から出てきました」 「ほうほう、実に様々なところから来たものだ。私は福岡だ」  その言葉に私は驚きを隠せなかった。  ここに住み始めて五年になるが、金次郎から九州の方言を聞いたことがなかった。彼が酒豪なのも納得のいく話だ。 金次郎は私が住み始める前からここに居座っている住人であるから、彼がいつから上京してきたのかは知らなかった。 「君が九州の出とは驚いた。私はてっきりここの人かと思っていたよ」  ほかの二人も首を縦に振っている。 「もうこっちに来て長いからな、昔の言葉は出なくなってしまったのだ。そういうぽっぽはどこの出身だ?」 「私は蒲田だ」  一人だけ都内というのがなんだか私は恥ずかしく、顔が紅潮した。しかし、マスターたちの顔は別の意味で顔を赤らめて興味津々の様子だった。 「なるほど、道理で酒好きになるわけだ」  金次郎の言葉にほかの二人も頷いていた。  確かに私は酒が好きだ。 両親はどちらも下戸なのに対して、私は顔色一つ変えずにぐいぐい飲む。ビールのジョッキなら十と数杯ならなんともない。どうしてなのかと疑問に思っていたが、どうやら蒲田の土地遺伝子が私にも移ったのかもしれない。 そうこうしているうちにカードが配られ、それぞれが同じ数字のペアカードを中央に捨てていく。私がエースを二枚捨てたところで一つ忘れていたことを思い出した。 「ところで金次郎、何故私たちの出身を聞いたのだ?」  私の言葉で全員が気付いたらしい。皆の目が一瞬見開いた。 「そうだ、すっかり忘れてた」  そう言って尋ねた張本人が「がはは」と怪獣のように笑った。横で聞くと鼓膜が破れそうだ。私は右耳を手でふさいだ。  ひとしきり笑った金次郎は胡坐の上に手を置き、前のめりに言った。 「ゴールデンに皆の故郷へ旅行するのはどうだろう」 「十日間もですかい?」 「そうだ、北から南まであるからな。十二分に使って楽しもうではないか」  金次郎は私に遠慮してか、三杯目は黒霧島に手を出していた。  私は正直どうしようか返答に迷っていた。 別に十日の間にすることはないが、このちぐはぐな酒好きたちと十日間も旅をすることが想像できなかった。 「楽しそうですね、僕もアルバイトを休ませてもらえるよう言ってみます」  私が悩んでいる間に若人が参加を表した。 「十日間も旅行なんざ久しぶりですな、私もぜひとも行かせていただこう」  マスターが白雲去来の二杯目を飲んで答えた。 「ちょっと待ってください。童はともかく、マスターはまずいでしょう。GWの全日休業する居酒屋など聞いたことがありません」 (ここからはGWと言わせていただく。何度もあの長いのを書くのは骨が折れる) 「お店は何とかなりますよ、ぽっぽ。全員で旅行できる確率を考えれば、私はへっちゃら、お店はGW明けから再開すればいいのです」  マスターが忘れかけていたトランプを再開して微笑していた。  私からすれば十連休が生まれるほうが希少だと思ったのだが、男のまっすぐな言葉に顔が紅くなる。しかも、私はまだ答えてもいないのに彼は「全員」と表した。 「ぽっぽ、君はどうする?」  少し酔いが回ってきたのか、金次郎は手を宙で迷子にさせながら問うた。 私は缶を垂直にして、一滴残らず体内に流し込んでから答えた。 「皆が行くというのに私だけ逃れられることはできんだろう。無論参加だ」  三人の口角が上がった。次第に私も微笑んでしまう。  自然と皆が盃を持ち、「乾杯!」と声高らかに上げる。二度目の祝杯だ。  今宵の酒宴も長くなりそうだ。  こうして、『パルドブロム』に住む私たちの長旅が正式に決定されたのである。  土曜日というのにスーツを着ている自分を見ると憂鬱になる。  玄関を出てゴミ袋を持って階段を下りていく。先週出すのを忘れたせいで今日は両手での二袋である。  下まで降りてゴミ置き場まで行くとわがアパートの住人と目が合った。 「おはようございます、ぽっぽ」  ひょこりと頭を下げた童は眠そうに眼をこすっていた。 「おはよう。土曜なのに早いな」 「三週間ほどゴミを出せずじまいだったので、今日は目覚まし三つ使っておきました。ちょうどバイトもあるので」  彼は近所のスーパーでアルバイトをしてて、私もよく童のレジで精算してもらう。  それにしても上には上がいるものだ。  私は心の内でそう思っていた。 「土曜日なのに仕事ですか?」 「ああ、昨日の仕事が少し残っていてな」 「大変ですね、サラリーマンも」 「なに、学生が働くのに社会人がぐーたら家で寝ているのもおかしい話だ」  微笑して童は「いってらっしゃい」と言って私の前を通り過ぎた。  本当はぐーたらするのが今日の予定だったことを思い出してため息をつく。  私は重い足取りで駅へと向かう。  社内の電気をつけて自分のデスクへと向かう。この一室にはデスクが十五ほどあり、それぞれ自分のデスクというのがある。  私はデスクの前に立ち、パソコンを起動させる。パソコンも休日ということで寝起きが多少悪いようだ。ヴーンと唸るような音を立てている。  パソコンが立ち上がるまで、私は座らずに今度は壁際の棚に置いてあるやかんとポット、さらに急須などを取り出す。  それを持ったまま奥にある小さなキッチンで湯を沸かす。  本当ならコーヒーメーカーで入れた目覚めの一杯を飲んでというのがかっこいいのだろうが、ウチの社内にそんな洒落たものは存在しない。  なので四十を超えた女性社員がこれらを用意してくれたのだ。  初めは面倒くさくて自動販売機で買っていたのだが、お金がかかるのと、強引に飲まされたお茶が意外に絶品であったこともあり今ではここのお茶愛好家でもある。  お湯はなかなか沸かないので少し離れたソファーに腰を下ろす。 「二人分よろしく」  急に聞こえた声に体がびくついた。後ろを振り返ると、ネクタイはつけておらず、カッターシャツ姿の男性が立っていた。 「いたんですか?」 「ああ、着いた途端に腹痛くてな。トイレに行ってたんだよ」  男性は私の向かいのソファーにどかりと座った。  彼は河合真さん。私より一つ年上の先輩だ。先輩とはいっても私のことをよく食事に誘ってくれるので、私も河合さんとは社内で唯一気軽に話せる仲である。 「河合さんが休日出勤なんて珍しいですね」 「俺だって来たくなかったよ」  河合さんは露骨にいやそうな顔をする。 私はその顔に思い当たることがあった。 「加奈子さん、大丈夫でした?」  河合さんは手を額に当てる。 「妻には何とかゴルフが入ったって言ってごまかしたよ。でも、七海が朝凄くてな」  額に当てた手の薬指には指輪が蛍光灯の光を浴びて輝いていた。  奥さんの加奈子さんは身長が高くすらりとした品のある女性である。大学時代は少しだけモデルの仕事をしていたと聞かされた時はすんなりと納得できた。それだけの美女であった。  河合さんと加奈子さんがどのようにして知り合ったかは知らないが、私は結婚式にも参列させていただき、それからもたびたび河合家と交流することが多かった。  そして、河合さん一家にはかわいいプリンセスがいる。それが三歳の七海ちゃんだ。私が河合家を訪れるたびに「くに~」と言ってパタパタと近寄ってくる。それから私の片足に抱き着き、原石の笑顔を振りまく。 彼女のほっぺたはマシュマロのようにぷくぷくとしていて私は何度見ていても飽きない。 「たしかに休日にお父さんがいないのは悲しいですね」  沸き立つ音を鳴らしているやかんに気づいて火を止める。そしてポットにお湯を注ぐ。 「七海が早く大きくなって自分のために働いているってわかってほしいな」 「そのころには彼氏なんかもできてお父さんは忘れられますよ」  おい、という低い声とともに私のおしりに張り手が繰り出される。  振り返ってみると、河合さんは少しだけ真剣に怒こっている顔をしていた。どうやら娘を持つ父親の心境というのは小説や映画に出てくる父親と同じらしい。  私には三つ下の弟がいるだけで女兄妹はいない。  その弟が昨年結婚したのだが、挨拶と言っても家では数分の出来事でそれからは仲良く家族と弟の奥さんと鍋をつついたのだ。息子側の両親は呆気ないものであった。  急須に茶葉を入れて、そこにお湯を注ぐ。茶葉の香りが湯気とともに広がる。  お湯を入れた急須を二回ほど回して湯飲みに移す。そうすると香りが立つと女性社員の言われたのだ。 「國村は良い人いないのか?」  急に話を振られて私は手元が狂い、机にお茶をこぼす。 「おいおい、何してんだよ」  河合さんは咄嗟にティッシュをとって机を拭く。 「何って、河合さんが変なことを言うからですよ」 「変なことはないだろ? お前ももう二十後半なんだからそういう人がいてもおかしくはないだろ」  河合さんは濡れたティッシュを丸めて少し遠くにあるゴミ箱に投げる。ティッシュはきれいな放物線を描いていたが、着地点を間違えたらしい。全く異なる壁に当ってその場に落ちた。  舌打ちしながら河合さんは重い足取りでそのティッシュを取りに行く。 「そうだ、今度の十連休に誰かとデートでもしてみれば?」  私は思わず熱いお茶を気管に入れてしまった。喉の奥までやけどした気がしてならない。 「なんでそうなるんですか、というかもういない設定で話し進めていません?」 「なら気になる人でもいるのか?」  私は口をつぐむしかなかった。自分には彼女とか結婚という華やかなことはまだ来ないだろうという予感があった。小さいときにはいつか結婚すると思っていたが、大人になれば無駄に障害が降りかかってそういう話題から逃れていた気がした。 「たまにはさ、カラカラの心に水あげないと枯れるぞ」 「勝手に私の心を枯らさないでください。それに十連休はアパートの皆で旅行に行くことが決まっています」  どうぞ、と言って湯飲みを渡す。  河合さんは湯飲みを手に取って一口すすると「うん、うまい」と言って机に置く。本当においしいと思っているのかわからないのが河合さんの特徴だ。 「お前の住んでいるアパートの住人な、全員キャラが強すぎるよ。あと酒もな」  また湯飲みを手に取ってすすっている彼を見て安堵する。河合さんはおいしくないものは二度と口をつけないからだ。  一度河合さんは我らのアパートを訪れたことがあり、まんまと金次郎とマスターの餌食になった。  私たちの中では通常の量だが、一般の人からすると引くほどの量であるから、河合さんはその夜ずっとトイレにいたことを私は思いだした。 「たしかに癖は人一倍強いですね」 「その旅、大変そうだな」  湯飲みを持って河合さんが立ち上がった。 「仕事しようか」  その声で私は今いる場所が喫茶店でなく、会社内であることに気づいた。  頷いて私も立ち上がる。  自分のデスクに座ってパソコンで作業を進める。  先ほどの河合さんの言葉を知る由もなく、私は淡々とキーボードを打っていく。
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