陽炎

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陽炎

   ――僕の恋は陽炎(かげろう)のように、とても儚いものだった。  ◇◇  二千十九年三月二十八日。  福岡の公立高校を卒業した僕は、地元の公立大学に合格し、かねてより両親と約束していた二泊三日の一人旅に出掛けた。  旅行先は子供の頃亡き祖父母と一緒に訪れた京都だ。京都駅から市バスに乗車し、清水寺や祇園を巡り、嵐山に向かう。  一人旅をすることに不安はなかった。  祖父母が傍にいてくれる、そんな不思議な感覚にとらわれていたからだ。  京都という情緒豊かな街並みが、そんな感情にさせたのかもしれない。  嵐山を背景に架かる渡月橋(とげつきょう)、嵐山のシンボル的な橋。橋を渡っているとまるで絵画のように美しい桜が広がっている。  春のうららかな日。  ちらちらと立ち上る陽炎。  その光の中に……  僕は一人の女性を見つけた。  一目惚れなんて信じない僕が、どこか儚げで美しい彼女の姿に、一目で魅了されてしまった。  十八歳になっても恋には奥手で、自分から初対面の女性に声を掛けたことなんて一度もない僕が、旅先の開放感からか、思わず口を開いていた。 「名所になるだけあって、とても綺麗なところですね」  彼女は僕の声掛けに振り返る。  ストレートの黒髪が、さわさわと春風に揺れた。 「……すみません。見ず知らずのあなたに声を掛けるなんて。僕は明石賢人(あかしけんと)です。四月から大学生になります。福岡在住で、一人旅なんです」  テンパッた僕は、彼女に聞かれてもいないのにペラペラと自分の素性を語っている。 「一人旅ですか?今の時期は桜で、秋は紅葉が綺麗なんですよ。ここに来ると気持ちが穏やかになれるんです」  彼女の見つめる先には、美しい桜が咲き誇っている。 「もしよろしければ、私が京都の街を案内しましょうか?」 「……いいんですか?こ、光栄です!」  彼女の名前は三井京香(みついきょうか)さん。僕より二歳年上の二十歳で、京都在住の女子大生だった。  彼女と嵐山や嵯峨野を散策し、夜は京料理のお店に案内してもらった。初対面なのに、初めて逢った気がしないくらい僕たちは意気投合した。  二泊三日の京都の旅。  彼女は二泊三日の案内役を買って出てくれた。一人旅のつもりだったけど、美しい彼女と一緒にいられるなんて、十八歳の僕はそれだけで舞い上がっていた。  翌日は銀閣寺や平安神宮周辺、最終日には二条城や京都御所周辺を観光し、夢のような楽しい時を過ごし僕たちは京都駅に向かう。 「京香さん、本当にありがとうございました。京香さんのおかげでとても楽しい旅ができました。でも……どうして僕なんかに……」 「私こそとても楽しい三日間でした。賢人君は……私の大切な人によく似ていたから。もう二度と逢えないと思っていたので、彼と再会したみたいに嬉しかったです。ありがとうございました」 「……大切な人って。もしかして恋人ですか?」 「気を悪くしたらごめんなさい。彼は二年前に病気で亡くなりました」 「……そうですか。あの……もしも僕のことをまだ覚えていたなら、来年の同じ日の同じ時間に渡月橋で逢ってもらえませんか?」 「……私とですか?」 「はい。僕は京香さんのことを決して忘れません。初めてあなたに逢った時から、僕は京香さんに恋をしてしまいました」  京香さんは僕の告白に目を丸くして、クスリと笑った。 「同じ日の同じ時間に、渡月橋で待ってます。京香さんが来るまでずっと待ってます」 「……はい」  僕たちは京都で出逢い、たった三日間一緒に過ごしただけ。それでもあの日の記憶は僕の脳裏に鮮明に残った。  ◇◇  一年後、僕は再び京都駅に降り立つ。  彼女との約束を守るために。  あの日、僕たちは互いの連絡先を交換しなかった。だから、彼女の携帯電話の番号もメールやLINEのアドレスも、どこに住んでいるのか、どの大学に通っているのか、僕は何もしらない。  それでも僕は、彼女が必ず渡月橋に来てくれると信じていた。  一年間僕は、京香さんのことを想って過ごした。携帯電話に残された一枚の写真。逢えない日々が、彼女への想いを募らせる。  今日、渡月橋の上で彼女に逢えたなら僕は交際を申し込むつもりだ。たった三日間だったけど、僕の恋は本物だから。  渡月橋に立っているだけで、ドキドキと胸が高鳴る。周囲を見渡したが、彼女の姿はどこにもなく、ただ朧気に陽炎がゆらゆらと揺れているだけだった。  約束の時間から一時間が経過しても、二時間が経過しても……オレンジ色の夕陽が渡月橋を照らしても、彼女がここに現れることはなかった。  彼女にとって、僕は亡くした恋人の代わりに過ぎなかったんだ……。  そう想うと、心がどうしようもないほど寂しさに包まれた。  ◇◇  二年後、僕は懲りもせず渡月橋に向かった。  今度こそ、彼女と再会し交際を申し込む。  ……だけど彼女と再会することはできなかった。  それから毎年京都を訪れ、同じ日の同じ時間に渡月橋に向かったが、三年経っても、四年経っても……僕は彼女と再会することができなかった。  ◇◇  ―七年後― 「それで毎年三月二十八日と二十九日に連続休暇を取って京都に旅行してるの?」 「そうだけど」 「明石君って、本当にその人と再会できると思ってるの?」 「思ってるよ。広瀬、もしかして僕のことバカだと思ってる?」  広瀬優愛(ひろせゆあ)、僕とは高校から一緒で、元バスケ部のマネージャー。今は同じデパートに勤める僕の同期だ。 「明石君は昔からそうだよね。純粋なんだか鈍感なんだか、おめでたい人だよね」 「広瀬、僕のどこが鈍感なんだよ。おひとよしで思慮が足りないって言いたいのか」 「正解。七年前、その女性は亡くなった恋人の想い出を胸に抱いて渡月橋に行った。そこで偶然、恋人にそっくりな明石君に出逢った。彼女にとって、その三日間は恋人と再会したみたいに幸せな時間だったに違いないわ。でも、彼女はきっと気付いたのよ。明石君は恋人に似ているけど、恋人ではなかったってことに。だから一年後、彼女は渡月橋に現れなかったんだわ」 「そうなのかな……」 「旅先での陽炎みたいな朧気な恋はもう忘れて。現実に目を向けなさい」 「現実?」 「ここにも素敵な女子はいるでしょう」 「どこに?」 「バーカ、目の前にいるじゃない」  天神万町通りで、僕は元バスケ部のマネージャーに告白された。七年前の淡い恋心を陽炎みたいだと言い放った広瀬は、本当に無神経な女だと思いながらも、よくよく考えてみると、高校生の頃からバスケ部の補欠だった僕の傍にいつもいたのは、男子部員ではなく広瀬だったことに気付いた。 「そうだよね。彼女は僕のことなんて何とも想っていない。今年で最後にするよ。なあ、広瀬。これからも僕の傍にいてくれる?」 「当たり前でしょ。ほんと、バカなんだから」  広瀬は僕を見上げ、照れくさそうに笑った。  ◇◇  ―翌月、三月二十八日―  僕は渡月橋の上にいた。  時計に視線を落とすと、彼女と初めて出逢った午後三時八分をさしていた。  やっぱり……彼女は来ない。  ここに来るのも、今年で最後だな。 「賢人君」 「……えっ?」  振り返ると、太陽の光に反射して陽炎がゆらゆらと揺れていた。その陽炎の中に、一人の女性のシルエットが浮かび上がる。 「京香さん……」 「賢人君、逢いたかったわ」  僕たちは渡月橋の上で、人目も憚らず自然と抱き合っていた。 「僕も逢いたかった……。毎年、ここに来たんだよ。でも京香さんはいなかった……」  京香さんは少し寂しそうに微笑んだ。 「三月二十八日午後三時八分、私も毎年ここに来ていたわ。でも……賢人君は気付かなかった」 「……僕が気付かなかった?」  どうして?  僕が京香さんに気付かないはずはない。 「賢人君に逢えて嬉しかった。これでもう思い残すことはないわ。賢人君、七年もの間、私に逢いに来てくれてありがとう。でももうこれで最後にしましょう。私はもうここに来ることはできない……。彼がきっと待っていてくれるから……」 「……彼?どういうこと?恋人はもう亡くなっているはず?」 「賢人君、あなたにも大切な人がいるでしょう。私のことは忘れて、もう戻りなさい」 「京香さん、意味がわからないよ。京香さん……。僕は京香さんのことを……」 「賢人君、楽しい時間をありがとう。さようなら」  僕の腕の中で、京香さんの体がキラキラと光を放ち一瞬にして消えた。  僕の体は陽炎に包まれている。美しい桜の花びらが、吹雪のようにヒラヒラと頭上を舞った。  それはとても幻想的で、不思議な光景だった。 「……京香さん。京香さん。そんな……」  くらくらと眩暈がして、目の前が暗闇に包まれ意識が途切れた。  ◇◇ 「明石君!明石君!」  広瀬の大きな声に、僕は重い瞼を開く。  瞳に映ったのは、白い天井、白い壁、白い包帯、酸素マスク、生命維持装置。  ――ここは、病院だ。 「……明石君!よかった!よかった!」  広瀬は泣きながら僕の手を握り締めた。 「……広瀬、僕は……」 「明石君は京都駅で事故に遭ったんだよ。暴走車が歩道に突っ込んだの。明石君は私を咄嗟に庇って頭部に怪我をして、二日間昏睡状態に陥ってたんだよ」 「……僕が事故に?そんな……。僕は渡月橋に……」 「……渡月橋には行けなかった。二十八日はずっとベッドの上で眠り続けていたんだから」  僕は眠り続けていた……?  ――そうだ。  僕は広瀬と一緒に京都を訪れ、一緒に渡月橋に行くつもりだった。万が一、京香さんと再会しても、広瀬を京香さんに紹介するつもりだった。  でも僕たちは、京都駅を出て歩道を歩いている時に車に追突されたんだ。  僕は……。  ずっと入院していたのか?  でも僕は……。  確かに、京香さんに逢った。  あれは……。  夢だったのか……?  ふと視線を移すと、窓が閉まっているのに、僕の枕元には桜の花びらが数枚落ちていた。  僕は桜の花びらに手を伸ばす。  手のひらの上に乗せると、あの時の幻想的な光景が目に浮かんだ。  あれは夢なんかじゃない。  僕は、僕たちは、渡月橋で再会したんだ。  ◇◇  ―四月初旬―  旅先で事故に遭った僕は、一命を取り留め無事に退院の日を迎えた。退院当日、担当の看護師さんからある話を聞いた。  七年前の三月三十日、僕と同じように京都駅付近で交通事故に遭い、七年間昏睡状態だった女性が、僕が目覚めた日に、静かに息を引き取ったそうだ。  その女性は、三井京香さんだった。  彼女は七年前僕を京都駅まで見送ってくれたあと、交通事故に遭い昏睡状態に陥り七年もの間眠り続けた。  僕たちはあの日の同じ時間に、同じ病院に入院していたんだ。  渡月橋で彼女が言った言葉が鼓膜に蘇り、その言葉の意味がやっと理解できた。  僕が毎年、目にしていた陽炎は、彼女の幻影だったに違いない。僕は彼女に逢っていたのに、彼女だと気付いてあげることができなかった。  僕が昏睡状態に陥ったことで、やっと彼女を見つけることができた。  彼女は僕に生きることを託した。  彼女と彼女の恋人の分も、懸命に生きることを託した。  その想いを、僕はしっかりと受け止めたから。  僕は持っていたガイドブックに、桜の花びらをそっと挟んだ。  春のうららかな日に、京香さんが恋人と再会できますようにと、空を見上げてそう願った。  ―THE END―
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